シシャの行進 その2
「いらっしゃいませ」
レジに立つバイトの女の子の落ち着いた声が響く。
プシュリとエスプレッソマシンが圧を掛ける音と共に、ふわり広がるコーヒーの香り。
それをすぐさまかき消す勢いで鼻腔を占めるのはあの不快な臭いで。
だんだんと強くなっている気がして、少しだけ気がそぞろになる。
「だからぁ!! いつものだよいつものっ!!」
店内の物静かな空気を切り裂くように荒い声を上げたのは、いつも来る常連のおじさんだ。
「申し訳ございませんが、わかりかねますのでこちらのメニューからご注文をお願いいたします」
バイトの女の子の冷静な声が続く。
「ちっ! なんだよ使えねぇなぁ!!
アイスラテ、トールサイズ、氷少なめミルク増やしてくれ。支払いは……おらよっ!」
カウンターにお札が叩きつけられる。
それすら冷静に捌いたバイトの女の子が、お客様が切れた段階でわたしに近づいてきた。
その瞬間、ひと際腐臭が強くなる。
「なにかな?」
後輩である筈の女の子が、僅かに顔を歪めながら口を開いた。
「……センパイが……あーゆう常連ぶったオッサンを付け上がらせてるのわかってます?
いっつもへらへらして、『いつもの』でわかったふりして対応してるから、さっきみたいな事になるんですよ?」
後輩の台詞が胸を刺す。
「……そっか。ごめんね」
分かってくれればいいんですと踵を返す彼女の後姿を眺めていると、ぶわりと死の臭いが強まった。
……最近、頓に酷い。
エスプレッソマシンに向き合って、ゆるりと店内に視線を投げる。
すると、偶々こちらに視線を向けていたらしい人と目が合ってしまった。
若干の気まずさを感じつつ、接客業らしく微笑んでから視線を外す。
……その瞬間、僅かに鼻腔をついたのは、夏を思わせるどこか懐かしい香りだった。
「あー……。なにかなぁ……最近……絶対変だよなぁ……」
薄闇の訪れた宵の街を足早に通り過ぎる。
ふと気づけば、ちょうどあの場所を通り過ぎるところだった。
あの人と……あの人達と出会った……。
ふるりと頭を振って、その場を過ぎ去る。
その瞬間、ぶわりと鼻を擽ったのは、むせ返るほどの花の匂いだった。
「……げっ」
「げ、とはご挨拶だなぁ」
ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべても、イケメンだから様になるのがなんだか口惜しい。
「……」
赤の他人を決め込んで、今日も全身黒を纏っている男の横を通り過ぎる。
……この異常な暑さの中、黒を着込めるって、ある意味勇者だよなと詮無い事を考えつつ。
「おっと。まぁ、待ちなよ那子」
くっと腕を掴まれて、路地に引き込まれる。
……って、この路地、前回のあそこじゃん!!
思わず顔を歪めてしまうのも致し方ないと思う。
「なれなれしく名前を呼ばないでください。イケメン無罪は現実ではありえませんって前に言いましたよね?」
腕を振り払って、下からねめつけて見ても、図々しいイケメンには効果ないらしい。
てか、背、高いな! 見上げた首が痛いわっ!!
「まぁまぁ……。だって那子も気になってるんだろう?」
あのカフェで何が起きてるのか……。
ぐっと顔を落として、あえてわたしの耳に直接吹き込まれたその言葉に、思わず目を見開く。
「な……何を……」
「知りたいなら……俺とおいで?」
わたしの方に男らしくもすらりとした手を伸べて、にんまりと嗤う男の顔に腹が立つも、確かに現状のカフェの異常さが気になっていたのも確かで。
最近のカフェはあまりにも可笑しすぎた。
オープン前の誰もいないはずの店内でも強く漂う死の臭い。
店内にいるお客様の割合にしては強く漂うソレ。
そして……。
元々落ち着いて愛想の良いタイプではなかったが、接客業を担う者として常に笑顔を浮かべていた後輩の冷たい横顔。
気のいい常連様達の変化。
その人たちからひと際強く漂う腐臭。
一度おかしいと気づいてしまえば、ソレは嫌味な程主張してきて、心休まる暇もない。
だから......。
その原因がわかるのであれば…と男の、葵さんの手を取ってしまった時点でわたしの負けだったのだろう。
「ひっ!」
葵さんの手を握った途端、暗がりにいた異形が目に入ってしまい、うっかり悲鳴を上げてしまったのも、致し方ないと思う。
「さて……今あの店で起きてる事だが……」
路地でのやり取りの後、うっかり連れ込まれたのは、相変わらず不快な臭いのしない葵さんの部屋だった。
ふんわりと漂う花の香りが心地よい。
小洒落たテーブルを挟んでイケメンと二人きり。
……あれ? よく考えなくても変なシチュだな?
わたし、こんな顔見知り程度の男の部屋にほいほいついてくほど貞操観念緩かったっけ?
と、自分で自分に疑いを持っていると、まるで見えない手に支えられているようにコーヒーカップが二つ空中を漂ってきた。
ことりとテーブルに置かれたコーヒーカップからは芳醇な香りが漂っている。
ご丁寧にミルクピッチャーに用意されたクリームと、真っ白いシュガーポットには茶色の珈琲シュガーも併せて添えられた。
「お、恐れ入ります……?」
恐らく彼女がいる方へペコリと頭を下げてしまうのは、小心者ゆえか、見えないナニカが用意した物を素直に受け取っている分度胸が据わっているというか、図々しいのか自分でもよく分からない。
「あー、雪が見えないのはめんどくせぇな」
そう言って、この男は何を思ったか(いや、彼女を見せる為なんだろうけど)、わたしの隣に腰を下ろして、ついでに手まで握ってきた。
「にゃぁ?!」
厄介な体質持ちゆえ、異性どころか他人と触れ合う事自体稀なわたしにとって、真横に異性(しかも顔が良い)が座って、手を握られるとかなかなかハードルが高い展開だ。初心者に優しくない。
「ほほ。照れておるのか? 愛いのう」
まことまこと…と呟きながらふよふよと浮かぶ幼女に、八つ当たりと理解っていてもじとりとした視線を向けてしまう。
……まぁ、こんな状況から早急に解放される為にも、話を進めるに限る。
そう思って口を開こうとすると、同じタイミングで葵さんが口火を切った。
「でまぁ、お前のカフェで起こってる事なんだが……」
こくりとブラックのままコーヒーを一口飲んだ葵さんから聞かされた話は俄に信じがたいものだった。
「で? 端的にまとめると……。
この前葵さんとそちらの雪さん?が、あの路地にいた異形を倒したせいで? 異形によって塞がれていた幽霊が通る道が解放されて?
それがたまたまウチの店内を直撃して? 霊のたまり場になって? ウチの店にいる人たちに影響が出たと……?」
雪で構わんよとニコニコと告げる幼女にコクコクと頷きを返しながらも、じとりとした視線を葵さんに向けるのを忘れない。
「あぁ、もうちっと付け加えるなら、例の異形はただ霊道を塞いでただけじゃなく、その霊道を通る霊達を喰う為に居座っていたらしくてな。
だからあの路地、昼間でも薄暗かっただろう?」
あの路地……確かに昼間でも薄暗くて雰囲気が良くなかったから利用した事なかったけど……。
駅への近道になるのは確かなんだけど、腐臭も酷かったし……。
でもそれは、両側のビルが高くて日が射さないせいだと思ってた。腐臭も両側のビルにテナントとして入ってる飲食店から出るごみのせいだと思ってたし。
「で、あの異形が喰ってたことでもわかる通り、そもそもの霊道も質の悪い部類のやつでな」
いや、わっかんないし。
ツッコミたいのは山々だけど、ここは大人しく傾聴しておこうと黙っておく。
手持無沙汰になったので、せっかくだし…と雪が用意してくれたコーヒーに口を付けた。
…って美味っ! 豆自体も良いものだし、淹れ方もばっちりだ。これは恐らくネルを使ったハンドドリップ?!
なかなかやるわね幼女!?
「…て、話聞けよコラ」
コーヒーの余韻に浸っていたら、葵さんに頭を小突かれた。ってどこの少女漫画かな?
「あぁ、すみません。続きをどうぞ」
少女漫画のヒロインになるには、わたしの修練が足りなかったらしい。
淡々と続きを促すと、若干呆れたようなため息をつかれた。
「で、まぁ、その質の悪い霊道がお前ん店を直撃していて……お前も知ってる通り、質の悪い霊に影響されてる人間が出てきてる訳だ」
ふむふむと頷きを返してみるも、頭の中はクエスチョンマークが増殖していく一方だ。
「だから......問題の霊道を消す為にも、お前に協力して欲しい」
……なんて?
「いや、なんて?」
声にも出た。
「だから、この前雪も言ってたが、俺は”視る”力が弱くてな。霊道を消し去るにしても、起点と終点をしっかり見定めて、雪に大鎌を振ってもらわないといけなくてな。だから......」
この続きは聞いたら不味い気がして思わず耳を塞ぐ。
……も咄嗟に動いた葵さんの両手がわたしの手首をつかんで、それは阻止された。
両手を掴まれ、ぐっと顔を寄せてくる葵さん。くっ……顔が良い。
傍から見れば、少女漫画、いや大人向け乙女漫画でも垂涎のシチュエーションなのだが、如何せん葵さんの後ろでふよふよと浮きながら、こちらを興味津々で見てくる幼女のせいで色々台無しである。
いや、理性を保持するのに一役買ってるので助かってると言えば助かってるのだけど……。
「お前と一緒なら……できると思うんだよなぁ」
なぁ?那子?
くっそ!声もいいなっ!!
「あー! わー! わかりましたっ! だから耳に息吹きかけないでぇ!!」
わたしはこんなチョロい女じゃなかったはずだ! 頑張れわたしっ!!
葵さんの色香にやられてヘロヘロになりつつ、なんとか理性が葵さんを押しのけるよう身体に指示することに成功した。
理性の声に従って、手首を拘束している葵さんの手から逃れて、出来る限り距離を取る。……若干、どころかかなり涙目だったのはご愛敬だと思おう。うん。
ついでに葵さんの手から逃れた事で、ニヤニヤ微笑んでいた幼女が見えなくなったのも付け加えておく。
「よし、言質は取ったぞ。俺達みたいな連中は言霊ってヤツを大事にするからな」
自分の言質には責任を持てよ?
そう言ってにやりと笑う葵さんが憎らしい。
「……うー……で? わたしは何をすれば?」
この時、今回限りの事と甘く考えていた自分を心底殴りたくなるのはしばらく後の事だった。