女達の迷家 その7
「ははおや? 母親って……」
「あの屋敷で『母親』に該当するのは……屋敷の主人の実母か……。
確か若くして父親が亡くなったから、家督を継いだんだったな。
そうか……母親は生きてたもんな」
葵さんが彼女の消えた壁を見つめながらそう呟く。
「……となると……あの屋敷には怪異になった屋敷の主人とその母親が囚われているってことになるねぇ」
はいどーぞと亀田さんから差し出された湯呑を受け取って口を付ける。
そのまろやかな口当たりにほっと息を吐いた。
「それにしても那子ちゃん、ホントできること増えてくねぇ。
さっきのっていわゆる『口寄せ』だよねぇ」
自分の分も淹れたらしい亀田さんが、湯呑から立ち上る湯気越しににんまりと微笑んだ。
「……あまり嬉しい気がしないんですが……」
「まぁまぁ、そんなこと言わずにさぁ」
亀田さんと言い合っている中で、沈黙を続ける葵さん。
その眉間には深い皺が寄っていた。
「……那子」
不意に名前を呼ばれる。
「お前、明日からベースで待機な」
「は?」
「え?」
葵さんの思いがけない言葉に、疑問符が浮かぶ。
亀田さんも同じだったようで、その表情には困惑が浮かんでいた。
「何言ってるの、葵くん。キミだけじゃ……その……視えにくいだろ?」
「そうですよ! 彼女はあの屋敷から解放されましたけど、まだ最初の奥さんたちも残ってるし、元凶っぽい屋敷の主人とその母親だって……」
残ってるのに……と言う言葉は、妙に真剣な葵さんの視線に遮られた。
その瞬間、葵さんが常に纏う花の香りを打ち消すように、ぶわりと死の臭いが葵さんから漂ってきた。
「いや、むしろ……。さっき解放された霊も言っていただろう? あの屋敷にいるのは、女性を捕まえて孕ませようとする怪異だ。一緒に行くと、那子が一番狙われるだろ?」
「っ! それはっ!」
そうだけど……。
「でもっ! あの屋敷の怪異って、男性を追い出すために首をくくらせるんですよね? だったら危険なんてわたしも葵さんも変わらないですよね?
それなら一緒に行って、わたしの『目』を使って元凶を探し出してどうにかする方が先決じゃないですか?!」
自分でも何言ってるんだろうとは思う。
あんなに廃屋敷の中に入るのがイヤだったのに……。
今は、自ら進んで中に入ろうとしている。
でもそれは……。
屋敷の中で見た彼女たちが……彼女たちを解放してあげたいと思うのと同時に……。
彼女たちがあれほどまでに怯える怪異に、葵さんだけを立ち向かわせたくないって思いからだった。
葵さんから漂う死臭が強くなる。
それは……葵さんに死が近づいていることに他ならない。
だったらなおのこと……。
「わたしも一緒に行きます」
葵さんの目を見てきっぱりとそう宣言すれば、何故か葵さんは視線を泳がせた。
それはまるで迷子になった幼子が途方に暮れた時に浮かべる表情に似ていて……。
だけど、ぎゅっと一度強く目を瞑った後、葵さんはわたしを真っすぐに見つめた。
さっきまでのどこか儚い表情は微塵も無くなっていた。
「今回は、今までの現場より危険だ。
何が起きるか分からないし、俺も雪も万能じゃない。
それでも……行くのか?」
「もちろん」
そう答えれば、ふわっと花の香りが戻ってきた。
その事実にほっと息を吐く。
わたしが着いていくことで、葵さんの命の危険が下がるなら……お安い御用とはまだ言えないけど……。
「……どうやら話はまとまったようだね。
じゃ、明日も朝から調査だからもう寝ようか」
おやすみぃ~と去って行く亀田さんを見送って、わたし達も寝支度を始めた。
◇◇◇
「本気で危険そうだったら、飛び出してくるんだよ。
最悪全部燃やしちゃえばいいんだから!」
そんな冗談を……って亀田さんを見るとまんざらではない顔をしていた。
「何せ炎の浄化に勝るものはないからねぇ」
うんうん。って頷く亀田さん。
え? 本気?
「……ほら、行くぞ」
葵さんに差し出された手を掴んで、屋敷を仰ぎ見る。
……外から見た分にはちょっとボロいだけの廃屋敷なんだけど……。
中に渦巻く妄執の持ち主をどうにかする為、わたし達は再び屋敷内に足を踏み入れた。
「……この先が……」
「たぶん、主人の部屋とかその辺りだと思う……」
昨日女性たちと遭遇した部屋の前を通り過ぎれば、目の前には二つの扉があった。
女性たちがいた部屋と並んでいる部屋が一つと、更にその奥、廊下の突き当りにある部屋が一つ。
この屋敷の家族構成を考えれば、奥が御主人の部屋で、手前が……母親の部屋だろう。
「那子? 今の様子は?」
「……相変わらず臭いは凄いけど……特に何も……」
そんな話をしながら、母親の部屋へと近づいた途端……。
「っ?! 葵さんっ!?」
突然物凄い勢いで扉が開き、部屋の奥からざわざわと伸びてきた黒い影が葵さんを拘束する。
「ちっ! 那子っ! 離れろっ!」
繋いでいた手を振りほどかれ、わたしにはただ中空に浮く不自然な葵さんの姿しか見えなくなる。
「あおいさんっ?!」
不自然な動きで腕を動かし、雪を呼び出すべく白い札を指に挟む葵さん。
ふわりと葵さんの指から札が離れ、恐らく雪の姿をとったのだろう。
「これはこれは……」
わたしの頭上から幼い少女の落ち着いた声が響く。
「あおいさん?!」
ずるずると黒い蔦に部屋へと連れ込まれそうになる葵さんの腕を掴むと、やっと葵さんを拘束する蔦を大鎌で切り裂く雪の姿が目に入った。
徐々に黒い蔦も数を減らしていき、ほっと息を吐こうとした瞬間……
「っ?! 那子っ!!」
「え? きゃぁぁぁっ?!」
気づかないうちに廊下の奥の扉が音もなく開いており、その中からさっきよりも大量の黒い蔦が飛び出してきた。
そしてその蔦は真っすぐわたしの元へ……。
「ちっ! 雪! 那子をっ!」
蔦から解放された葵さんがわたしの腕を引くも、既に黒い蔦がわたしの身体に絡みつく。
雪が大鎌を振るよりも早く、どんどんどんどん黒い蔦が溢れ出して……。
「あおいさんっ!?」
母親の部屋からも黒い蔦が再び飛び出し、葵さんを絡めとる。
「ちっ! くそがっ!!」
近づいていた身体はじりじりと蔦によって引き裂かれる。
「ちっ! なこっ!」
「え?」
ぐっと後頭部を捕まれ、唇に自分以外の熱が触れる。
は? と驚きで開いた唇にぬるりと肉厚の舌が飛び込んできて……
「ぅ?」
飲み干せと言わんばかりにとろりと流し込まれた唾液を思わず飲み込んでしまう。
「きゃっ?!」
その瞬間、強い蔦の力に二人は引き離される。
触れていた唇が離れて、ひんやりと冷たい風が通り過ぎる。
「っ! 雪! 那子に……っ!?」
「あおいさんっ!?」
葵さんを取り込んだ黒い蔦ごとバタンと母親の部屋の扉が閉ざされる。
「那子!?」
「すすぎ?!」
「我らも……いくぞ……」
「だめぇぇぇぇぇ!!!」
黒い蔦に取り込まれ、わたしは一番奥の部屋へと引きずり込まれていった。
『……よ……だめ……よ……はは……も……』
ブツブツと誰かの呟き声が聞こえる。
『だめ……よ……ははうえ……もう……』
昏い昏いその声は、どこか悲しみも含んでいて。
『だめだよ……ははうえ……ぼくは……もう……』
薄暗がりの中を見回してみれば、見たことの無い部屋だった。
けど、壁や装飾の雰囲気から、葵さんと調査していた廃屋敷の中だとわかる。
葵さんと二人探索していた時は、いたるところがボロボロだったけど、今わたしの目の前に広がる部屋は活きた雰囲気が漂っていて、誰かが日常的に過ごしていることが伺えた。
『もう……だめなんだよ……誰が来たって……だめなんだよ……』
小さな声の出所に視線を向ければ、レトロな寝台の上で、掛布団を被って蹲っている人影があった。
どこか恐怖のマヒした状態なのか、何も危機感を持たず人影に近づいていく。
わたしのことなど微塵も気づかない人影は、ひたすら己の身に起きていることを嘆いていた。
『やめてよ……もうやめてよ……ころさないで……もう……』
ブツブツと呟く男の声は非常に物騒な内容を告げていた。
「誰が……誰を殺すの?」
思わずと出てしまった声に、幼子がお化けの真似事をするように掛布団を被っていた影がもそりと振り向いた。
そこにいたのは……。
赤い斑点の浮いた手で掛布団を握り締め、必死で顔を隠そうとしている男の姿だった。
その姿をわたしは知っていた。
モノクロームの写真に収められていた、この屋敷の主人の顔と同じだった。
『ころさないで……もう……ぼくはむりなんだ……もう……こをもてないんだよ……』
わたしの存在が理解っているのかいないのか。
『放して……はなしてよ……母上……もういやだよ……ぼくには子種がないんだ……』
ずるりと被っていた掛布団が落ち、そこから覗いた顔は……。
最初の妻と同じように鼻が崩れていた。
「貴方も……病に……」
『もう……解放してよ……いやだよ……いやだよ……母上……むりなんだよ……』
嘆きが深くなるごとにどんどん部屋の空気も重くなる。
立ち込める死臭は堪えがたいほどで……。
「……こっ! ……っ!」
ぐるぐると渦巻いていく真っ暗な闇が、どんどん部屋を満たしていく。
「な……っ! おき…っ!!」
濃密な闇が部屋を支配して……。
「那子っ! 目を覚ませっ!」
バチンと音がしたような衝撃と共に……目が覚めた。
「那子?! 起きたか!? こんの寝坊助がっ!!」
キャンキャンと幼女特有の甲高い声でわたしを責めるのは……。
「雪?」
目の前にぷかぷかと浮かぶのは、相変わらず誰の趣味なのか聞くことができない巫女服姿の雪だった。
「って、なんで見えてるの?」
くるりと辺りを見回しても、ただ重苦しい闇しかなくて、葵さんの気配はない。
そりゃそうだ。さっき気味の悪い黒い影に別々の部屋へと引き裂かれたんだから。
「……さてな」
それよりも……。そう言って雪が大鎌を構える。
「あの闇は……祓ってよいのかのう?」
ちらりと雪の視線の先を見れば、さっき夢うつつで見たのと同じ光景が広がっていた。
一つ違うことといえば、寝台が朽ちかけている事だろうか。
ボロボロになったソレの上に、同じくボロボロの掛布団を被ったこの屋敷の主がいた。
……母親の、『この屋敷を跡継ぎを設ける』という妄執によってこの屋敷に囚われてしまった憐れな霊が……。
「……お願い。雪。彼を解放してあげて……」
ゆっくりと布団の塊を指差す。
雪が正確に大鎌を振えるように。
「……あいわかった」
滑るように中空を駆け、雪の大鎌が振りかぶられる。
ざんっという音とともに、黒い塊が二つに裂け……。
『あり……が……と……』
母親の執着に囚われていた憐れな魂はこれで解放されたのだと……信じたい。