女達の迷家 その6
「……那子? 大丈夫か?」
今日の調査を切り上げ、旅館に戻ってきた。
あの部屋を出てから今まで、何も聞かずに接してくれる葵さんと亀田さんの気遣いが沁みる。
それに甘えて、まだ何一つ喋れていない。
彼女が雪の刃に掛かったということは……彼女はもう……。
「那子ちゃん……どうぞ」
旅館の部屋で。
ぼんやりと卓を眺めていると、ことりと音を立てて茶托に乗った湯呑が差し出された。
ふんわりと漂う緑茶の香りが、先程までわたしの鼻の奥に蟠っていた死臭を洗い流していくようだ。
差し出した相手を見上げれば、そこにはこちらを気遣うような表情を浮かべた亀田さんがいて。
「いただきます」
そう言って僅かに湯気の立つ湯呑に口を付ける。
温かな湯気が鼻先を擽って、するりと口の中に柔らかな緑茶の味が広がる。
「……おいし」
恐らく部屋に置いてあったティーバッグを使って淹れたものだろうに。
その味は以前奮発して買った玉露で淹れたお茶と全く遜色のない味だった。
「そうだろうそうだろう」
うんうんと得意げな亀田さんを、思わず不思議そうな顔で見てしまう。
「ほら、儂、水を司るからね。緑茶に適した水を出したり適温にしたり……結構細かい芸ができんのよ」
そう言ってにっかりと笑う亀田さんに思わず苦笑してしまう。
「そんな偉大なお方のお力を、気軽にお茶を淹れるのに使わないでくださいよ」
「いいんだよ。美味い茶の一つで那子ちゃんが少しでも元気になりゃあよ」
亀田さんがポンとわたしの肩を叩く。
別方向から感じていた視線を向ければ、眉間に皺を寄せて整った顔立ちを台無しにしている葵さんがいた。
その瞳にはこちらを心配する色が乗っていて。
わたしはその視線から逃げるように、僅かに視線を落として……。
口を開いた。
「……恐らく行方不明の女性は……もう……」
わたしの言葉にはっと二人は息を呑んだ。
「……それは……那子に襲い掛かった黒い霊が……その……」
気まずげに葵さんが確認してくる。
「はい。雪に切ってもらった霊は……彼女でした」
「……そうか……」
場に沈黙が落ちる。
亀田さんに淹れてもらったお茶を一口含んでから、再び報告する。
「……あの部屋には何人もの女性の霊がいました。恐らく最初の奥さんから、後妻になった方……。それだけでなく、女中のような恰好の人もいました。
皆さん……何かを恐れて……死にたくないと……願ってました」
わたしの言葉に沈黙が落ちる。
あの部屋で、死にたくないと恐怖におののいていた女性たちは……。
何か、恐らく化け物から逃れたくて必死で……それでも逃れられずに……ん?
「結局……化け物って……何?」
「……縊鬼のことじゃ……ねぇな」
そうなのだ。
縊鬼になったと言われている最初の奥さんも化け物に怯えていた。
ということは、化け物は縊鬼のことじゃない。
だったら何を……。
何をそんなに彼女たちは恐れていたのだろう?
「……ねぇ那子ちゃん?」
亀田さんが何事か思案しながらわたしに声を掛ける。
「なんでしょう?」
「最初の奥さんは……手とか見えてるところに赤い斑点が出てて、鼻が崩れてて、口元が爛れてたんだっけ?」
亀田さんの言葉に、夢で見た姿を思い出す。
荒れてぱさぱさになった黒髪から覗いた顔は、特に鼻の辺りが崩れていて、美しかったと言われる面影はなかった。
「……はい」
あれは……いったい何なんだろう?
火傷とか、何か事故にあったとか?
「うーん、多分それ……」
亀田さんには思い当たることがあるのか、僅かに気まずげに言いよどむ。
「梅毒やろなぁ」
「梅毒……? ですか?」
「あぁ、今は効果的な治療薬があるけど、多分今回のことが起きた時代は治療薬もそんなに一般的じゃなかったんじゃないかな?
……恐らく……置屋に出入りしていた屋敷の主人から移ったんだろうが……」
亀田さんの言葉に沈黙が落ちる。
「いや、確かに一昔前は致死率の高い病気でしたが、もし屋敷の主人から感染したとしたら、その主人の方が先に死ぬんじゃ……」
「……主人は……治療薬を持っていた……とか?」
うーん?
まぁ、それなら屋敷の御主人から移された奥さんだけが亡くなってしまうのも頷ける……のか?
「……主人の方も顔が崩れていたら……化け物って言われる……か?」
葵さんが身も蓋もないことをいう。
「だろうねぇ。だけど、あの地域の古くから続く家だから、跡継ぎとか必要だったんじゃないかなぁ?
資料によると、あの家の血を引く人間はその主人しかいなかったみたいだからね。
あの時代、血統に重きを置く考えはそれなりに残っていただろうし」
だから……最初の奥さんが亡くなっても、次々と後妻を迎えたのか……。
「……だからか」
葵さんが得心したように呟いた。
「なんです?」
「いや、男が首をくくった状態で発見されて、女が見つからない理由だ。
たぶん、中の怪異は子を残すことに、血を繋ぐことに執着しているんじゃないか?
だから、男は追い出されて、女は……」
「……そういうことだろうねぇ」
さすがの亀田さんも苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「……でも、それって……そんな……っ」
もしそういう理由で女性があの屋敷に閉じ込められたとするなら、『かわって』と叫んでた彼女がどんな目にあっていたのか……。
恐らく怪異になっている屋敷の御主人は人からかけ離れた見目をしていて……。
その主人から襲われて……。
それは……どんなに怖かっただろう……。
ちょっとした好奇心で訪れただけの廃屋敷でそんな目にあうなんて、思ってもいなかっただろうに。
まして命まで落としてしまうなんて……。
それは無念で……悲しくて……悔しくて……。
「っ! 那子?」
葵さんに肩を掴まれる。
いつの間にか零れ落ちてた涙が視界を濁らせている。
そんな視線の先にいるのは……。
「あ……」
ゆるく巻いたロングヘアにシフォン素材のブラウス、太めのデニムを着た彼女は……。
『……ありがとう』
彼女の言葉に思い切り頭を振る。
だってわたしは何もしてない。何もできてない。
ただ彼女があの暗い部屋で膝を抱えていたのを見ていただけだ。
そして最期には雪の大鎌が彼女を……。
わたしの肩に触れていた葵さんの手に力が入って、慌てて離れていこうとする。
そんな葵さんの手を自分の手で握って、目の前の彼女と視線を合わせる。
「何もできなくて……助けてあげられなくて……ごめんね……ごめんなさい」
わたしの言葉に、今度は彼女が頭を振る。
『あの場から……離れられたの……それだけで……もう……』
『だけど……気をつけて……あの家は……あの家で本当に怖いのは……』
ゆらゆらと彼女の輪郭がおぼつかなくなる。
『あの家に囚われてるのは……本当に囚われてるのは……』
どんどん儚く消えていく彼女が、最期に告げたのは……。
『ははおや……』
その一言を残して、彼女は消えてしまった。
「……ははおや?」
それは思っても見ない人物だった。