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9~14

《 9 》


「フランソワお兄さん、ピアノ弾けるの?」

 アレックスが目を丸くして叫んだ。

「ちょっとなら、ね」

 お兄さんは苦笑して言葉を濁したけれど、かぶりを振ると、表情を改めた。

「そんな嘘ついても仕方ないか。俺はね、音楽学校を休学してるんだ。ピアニスト挫折中。でも、君たちの伴奏が務まらないほどじゃない。見せてみて。それが楽譜?」

 フランソワお兄さんは、アンリおじさんと一緒に今夜の夕食会に招かれてやってきていた。

 今までみんなと一緒に居間でお茶を飲んでいた。おじさんと二人で、これから庭を散歩するって言ってたのに、どうしてここでピアノを弾いているんだろう。なんだかまるで、隠れるみたいにこっそりと。

 ペダルを踏まずに、小さな音で弾いていた。挫折中だなんて言うけど、たぶん、ピアノを見て思わず弾いてしまうくらいに、お兄さんは本当はピアノが好きなんだ。

 イギリスの探偵が主人公の推理小説がお気に入りのジョルジュは、想像力を巡らせて、そんな風に推理した。

 ジョルジュの視線に気付いて、フランソワお兄さんは笑顔を向けてくれた。それでいて、指はちゃんと鍵盤の上を軽やかに滑っている。二声部を弾きながら、更に即興で伴奏も付けて………。演奏は楽譜を逸脱し、別の曲かと思うようなアレンジが万華鏡のようにきらきらと展開する。

「すごいすごい!」

 アレックスが拍手喝采する。ジョルジュも夢中になって拍手をした。二人の手放しの賛辞と拍手に、お兄さんはちょっと照れている。

 次の昼食会までに、ジョルジュとアレックスは二重唱を三曲仕上げることになっているのだった。

 歓迎パーティーで歌を披露した子供たちには、あれから出演依頼が次々と舞い込み、とうとうレパートリーが底を尽いてしまった。

「フォーレの『ピエ・イエズ』。きれいな曲だよね」

 音楽を愛してやまない人の口調で、お兄さんは呟くように言う。

「あのね、ここらあたりが上の音につられちゃうの」

 下のパートを担当するアレックスが、楽譜を指差しながら自己申告した。

「じゃあ、続けて何度か弾いてあげる。大丈夫。すぐに歌えるようになるよ」

 励まされて、アレックスの瞳が輝く。

 今までは、ジョルジュがたどたどしく音を拾いながらピアノを鳴らしては歌い、歌っては鳴らしで、効率の良い練習が出来なかったのだ。

 アレックスのピアノの腕はジョルジュ以上にお話にならなかったので、専属の練習ピアニストを確保できた二人が大喜びに喜んだのは当然だった。

 三人は根気よく練習をして、『ピエ・イエズ』の二重唱を仕上げることに成功した。

 アンリおじさんが途中から加わって熱心な観客となったので、子供たちの練習にも熱が入った。

「ピアノを弾くのは、この子たちのためだから」

 硬い声で言うフランソワお兄さんに、アンリおじさんは黙って頷いていた。

 このささいなやりとりを、アレックスは少しも気にしていないようだったが、ジョルジュの胸には、何か言葉に出来ないものがわだかまった。

(お兄さんの銀のコップも、きっと溢れているんだ)

 ジョルジュはそう思った。これは推理ではなくて直感だ。




《 10 》


 ジョルジュの両親は、どちらかと言えば割り切った性格だった。だから、一人息子に端的に事実のみを伝えた。

 すなわち、パリに帰り次第、自分達は離婚の手続きに入ることになるが、夫婦関係の絶縁と親子関係の存続は全く別の話だから、今後のジョルジュの生活が大きく変わることはないのだ、と。

 たぶん、その通りなのだろう。

 今だって、親子水入らずの時間を多く持っているとはとても言えない。食事だって滅多に一緒に摂らない。両親ともに外泊が多く、ジョルジュは、おばあさまのパリのアパルトマンに預けられっぱなしなのだ。

 特に父親との関係は希薄だった。数週間に一度顔を見ればまだいい方で、何ヶ月も会わないことだって珍しくはない。だから、たまに会うとジョルジュはひどく緊張してしまう。

 ごく小さい頃、父親に無邪気に甘えかかって邪険に手を振り払われた。きっと、仕事が忙しくて疲れていたのだろう。だが、それがジョルジュにはひどくショックで、それ以来、父親に甘えるということを全くしなくなった。

 その溝は少しも埋められることなく、父親の不在は、やがて当たり前のこととして認識されるようになった。親に嫌われた子供であることを認めるよりも、心の負担は軽い方がいい。

 認めたくはない寂しいという自覚の裏返しが、ジョルジュをいつも明るく天真爛漫に振る舞わせていた。その本質は、むしろ物静かで内省的な傾向にあったのだが。

 何より、ジョルジュは読書好きの子供だった。本さえ与えておけば、いつまででも飽きずに一人で過ごした。想像力がジョルジュを孤独から救ってくれた。

 現在の愛読書は、『シャーロック・ホームズ』。『怪盗ルパン』シリーズからの流れで読み始め、先日とうとう全作品を制覇した。

「それならライヘンバッハ滝へ行かなければ」

 子供たち専属の観光ガイドを自称するアンリおじさんは、ジョルジュにそう言った。

「ホームズが、宿敵モリアーティ教授と対決した場所だからね」




《 11 》


 今日は、子供たちだけの小旅行。

 添乗員は、アンリおじさんとフランソワお兄さん。ガイド料は、おばあさま秘蔵の年代物のワインが一本ずつで、アンリおじさんは「ご期待に添えるよう、充分働きましょう」と、大いに請けあった。

 ライヘンバッハ滝のあるマイリンゲンの街は、スイス中央部のベルン州にある。鉄道ファンのアレックスのリクエストにより、移動手段はSBB、スイス連邦鉄道。マイリンゲン駅からはポストバスに乗り換え、ケーブルカーの駅まで行く。

 乗り物はいつでも楽しい。一行は車窓からの景色を存分に楽しんだ。ユングフラウに登ったときは天候が今ひとつだったが、今日は晴天だ。

 同じ行程を走っていても、まるで違うように感じられる。緑は生き生きと輝き、渓谷はくっきりと雲の影を映し、花々は色鮮やかに風に揺れる。

 ケーブルカーの駅では、記念プレートの前で記念撮影をした。そして、ケーブルカーに乗り込んで一気に滝の中腹へ。

 ちっちゃくて赤くて可愛いこの乗り物に、5分と乗っていられないのはとても残念だったが、到着した滝の景観に一同は圧倒され、一瞬、言葉を失くした。

「すごいね!」

 ベロニックが一番に歓声をあげる。

 ワインの御褒美を約束された勤勉なるガイド役のアンリおじさんは、一同の感嘆の面持ちに大変満足した様子で、さっそく解説をしてくれた。

「ローゼンラウイ氷河とブラウ氷河から流れ出る水が、ここで七つの滝となって流れ落ちているんだよ。落差は六百五十六フィート(二百五十メートル)、幅三百フィート(九十メートル)。実に大したものじゃないか。さて、展望台へ行こうか。滝のすぐ近くまで行けるから、もっと凄いよ」

 展望台から徒歩で登って行くと、滝の天辺まで出ることができた。

 到着した現場の記念碑には、英語・ドイツ語・フランス語でこう書かれていた。『1981年5月4日、ここでシャーロック・ホームズはモリアーティ教授を打ち倒した』

 ここでも勿論、一同は記念撮影をした。




《 12 》


 轟音。水しぶき。

 ジョルジュは、橋の上から滝壺を眺め下ろしていた。

 橋とも言えないような小さな橋は、あまりに無防備に、簡素に出来ている。小走りに渡ってしまったら、もうそれでおしまいというほどの橋なのだが、それだけに臨場感はたっぷり味わえる。なにしろ、手を伸ばせば届きそうなほど近くに滝があるのだから。

 滝に吸い込まれそうな心地さえする。魂を持っていかれそうだ、とジョルジュは思う。

「もう行こうよ、ジョルジュ」

 ずいぶん逡巡して、アレックスはようやく従兄弟に声を掛けた。

「ジョルジュ」

 フランソワお兄さんも、心配して声を掛ける。

 でも、ジョルジュは顔を上げない。視線は轟々たる水の流れ落ちる先、白く泡立つ滝壺に当てられたままだ。

 荒々しい岩肌。緑は遠く、眼下はモノトーンの素っ気なさ。水煙が湯気のように朦々と立ち昇り、ここがどこだか、一瞬、分からなくなる。

「………もう少し、ここにいたい」

 しばらくして、ぽつりとジョルジュが呟いた。

(こんな、恐ろしい景色なのに……ずっと眺めていたいの?)

 アレックスは、ぶるりと身を震わせた。

「いいけど。でも、一人はダメ。ぼくがそばにいる」

 いつもはどちらかというと守られる方の立場のアレックスが、力強く宣言する。

「今だけ?」

 なのに、俯いたまま、ジョルジュはそんなことを言ってくる。

 みんないなくなってしまう。夏が終わったらお別れ。アンリおじさんもフランソワお兄さんも。ベロニックもアレックスも、アレックスのお父さんとお母さんも。

 友だちになって、こんなに仲良くなっても、ずっと一緒にはいられない。双子みたいにそっくりだって言われるのに、従兄弟どうしなのに、やっぱり離れ離れになる。夫婦だってそうだ。結婚しても離婚する。愛し合っていても、それは、ずっとは続かない。

「ごめんね」

 言葉にしないジョルジュのたくさんの思いの、どのくらいをアレックスは理解しただろう。

 本当の双子なら、肉体的な痛みさえ感応し合うという。だがアレックスは、いつも言葉よりも気持ちの動きの方に敏感だ。見た目の顔立ちが似ているという以上に、二人は心が似通っているのかもしれない。

「ごめんね。ずっと一緒にいてあげられなくて」

「……………」

 ストレートな謝罪。心に痛い言葉だ。

 それでも、従兄弟は心から自分を思いやって謝ってくれているのだと、ジョルジュには分かった。

じわりと、涙が湧いてくる。抑えられない。

「ジョルジュがいないと、学校なんてつまんない。ぼく、まだ日本語あんまり上手に喋れないんだ。行きたくないよ。日本に」

「じゃあ、フランスに残る?ベロニックやお父さんやお母さんと離れて」

「………そうしちゃダメかな?」

「ダメだよ」

 喉に絡んだ涙声になって、ジョルジュは顔を上げた。

「ダメだよ。ぼくたち、まだ子供だもの」

 ジョルジュは泣いていた。笑いながら泣いていた。アレックスはびっくりして思わずジョルジュを抱きしめた。

「泣かないで」

 抱きしめられて、ジョルジュはもっと泣いてしまった。

 あたたかい腕、あたたかい胸。人の身体って、どうしてこんなにあたたかいんだろう。

 つられて泣き出したアレックスと、もはや手放しで大泣きし始めたジョルジュを、フランソワお兄さんは二人一緒に抱きしめた。




《 13 》


 一足先に麓に降りていたアンリおじさんとベロニックとは、シャーロック・ホームズ博物館で合流した。

 元はチャペルだったというこの博物館にも、滝の天辺同様、観光客は数えるほどしかいない。鼻の頭と目元をまだ赤くしたままのジョルジュは、人がたくさんいなくて良かったな、と考える。大泣きに泣いたあとなので、少し頭が痛い。

 軽い食事を摂ってからマイリンゲン駅に戻り、一行は帰途に着いた。車窓の景色は夕暮れに染まり、どこか物悲しい。

 疲れてぐずっていたベロニックをあやしながら、アレックスも一緒に眠り込んでしまったようだ。アンリおじさんに凭れて、ぐっすりと眠っている二人の規則正しい寝息と、ちょっとだけ不規則に揺れる列車の音。

 ジョルジュは一人で取り留めのない物思いに沈んでいた。

 銀のコップの中身ばかりを見つめていたら、悲しみに閉じこもるしかなくなってしまう。現実を受け入れなければ。大人になるのは、もっとずっと先のこと。夏が終われば秋が来て、新学期が始まる。アレックスのいない新学期が。両親は離婚する。愛は………消えたらもう、甦ることはない。

「お兄さんは愛している人、いる?」

 この唐突な質問に、フランソワお兄さんは目を丸くした。

「………そういうことは考えたことがないな。ピアノの練習ばかりしてたから」

 向かい側の席のアンリおじさんが、器用に片方の眉だけを跳ね上げてみせる。お兄さんは赤面した。

「子供のするような質問じゃないぞ」

 『子供』の質問に真面目に答えてしまった自分に照れている。

「……早く大人になりたい」

 上目づかいで拗ねて見せると、お兄さんはちょっと考えてからこんなことを言った。

「サウンド・オブ・ミュージックにあったな。そういう歌。あれはレパートリーに入ってないのか?ほら、なんだっけ。もうすぐ十七歳になるとかならないとかいう歌」

「あれは女の子の歌だよ」

 だから歌わない、とジョルジュが言うと、

「歌に、女の子も男の子も無いんだぞ」

 と、お兄さんは言う。

「だいたい、主人公のマリアの歌だって歌ってるじゃないか。あれはいいのか?」

 と、指摘された。

 確かにそうだ。『すべての山に登れ』は、『エーデルワイス』とセットで重要なレパートリーになっている。

 ジョルジュは、車窓からの景色を眺めながら小さな声で歌い始めた。思春期を迎えれば失ってしまう、声変わり前の澄んだボーイ・ソプラノで。

「……あれ?どうしたんだろう」

 あれだけ泣いたのに、まだ涙が出る。あんまり泣きすぎて、涙腺が故障したのかも。

 (でも、もういいや)と、ジョルジュは思う。フランソワお兄さんが、黙ってジョルジュの頭を引き寄せた。ジョルジュは、お兄さんに凭れ掛かって目を閉じる。

 列車の景色が流れて過ぎてゆくように、時間の流れも過ぎてゆく。止まらない。後戻りも出来ない。楽しくて悲しくて、面白くて寂しくて。夏の思い出が過ぎてゆく。子供時代が過ぎてゆく。





《 14 》



 眠りに落ちてしまったジョルジュの髪を、指先でそっと撫で付けてやりながら、フランソワは、このどこか大人びた少年の未来の幸福を祈ってやりたい気持ちになる。

 視線を感じて目を上げると、アンリ・フロレスタン博士と目があった。

「この夏期休暇は、君にとって実りのあるものだったかな? 子守りばかりの毎日だったようだが?」

 それに応え、そっと肩をすくめる。それから夕闇が迫ってきた車窓へと視線を移した。

(すべての山に登れ…………か)

 まだだ、とフランソワは思う。自分はまだ、世界の何も見てはいない。

 列車は素晴らしい速さで夕闇の中をひた走り、その振動は、帰途に付く乗客たちの眠りを誘う。夏の一日を楽しく過ごした家族連れ、恋人達、友人達の心地良い疲れをあやす揺り籠のように。

 フランソワが振り返ると、フロレスタン博士は目を瞑って寝たフリをした。口もとに僅かに笑みを刷いて。この人にも思うに任せぬ少年時代、苛立つばかりの青年時代があったりしたのかな? と考える。もちろんあっただろう。聞き出すのは難しそうだが。

 夜の帳が世界を包み始め、夏の一日がゆっくりと幕を下ろそうとしていた。




(終わり)


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