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排ガスや酸性雨に長年さらされたコンクリート打ちっぱなしビル。侘び寂びとまではいわないまでも、味わいがあった。建った時分は大きな建物だったのだろう。それが今や完全に時代に取り残されている。その取り残された感もいい。それに辺り一帯は古い土地柄で古びた木造民家が立ち並んでいた。場違いなのも、しみじみと心に感じ入るものがある。
ふと、雪がないのに気付いた。川崎を出た時には降り始めだった。川崎では積もるほどではなかったのだろう。いや、練馬もそうだった。今更ながら思い出した。草津は大雪だった。L字の洋館の窓から見える横殴りの雪は尋常でない。おれはその光景を見つつ、ダイニングルームで食事をしたものだった。
あれは一体なんだったのか。別世界の出来事に思えてしまう。だが、現実なのだ。悪魔の儀式のような沼田光《貪食》の死体、死神を模した橋本稔《妬み》の死体。
おれは大磯孝則を拳銃で撃った中井博信《高慢》を取り押さえようとしたが、逆に蹴りを入れられ、ふらふらにさせられた。大家敬一《貪欲》らの時は、そのリベンジを果たしたと言えば聞こえがいいが、辛うじてだ。ぎりぎりで何とか逆転。内容は敗北だった。好きなように蹴られ、殴られた。
腹が立ってきた。クソいまいましい中井博信《高慢》に目にもの見せてやる。演説中に後ろから拳銃を突き付けてやるか。それとも家に乗り込んで行って家族盾にして世間と戦ってやるか。
老朽化著しいビルの階段を駆け上がった。そして、狩場探偵事務所のネームが付いたドアノブを捻る。動かない。そうか!
鍵はアクアのキーホルダーに付いていた。
それは田中美樹《姦淫》諸共、ロケット弾で爆破された。おれは激情に駆られて、事務所のドアを蹴破った。そして、事務所に入るなり、デスクに座り、パソコンの電源を入れた。
DELLのマークが出たかと思ったら消えた。それから赤、青、黄、緑の四つの玉がふにゃらふにゃらじゃれ合ってウインドウズのマークを形づくる。それから画面が変わって、お待ちくださいの表示。
じれったくて、いらいらする。おれは貧乏ゆすりをし、デスクに転がっているボールペンを手に取って口に入れ、噛んだ。おれのパソコンって、こんなに立ち上がるのが遅かったのか? ペンをくわえつつ指はキーボードで待ち構える。そこにやっとパスワード画面。出るなり百メートル走のスタートダッシュよろしく、『ihounokishi』と打ち込む。
やっときた壁紙。そこにショートカットアイコンが並んだ。迷わず、インターネットエクスフローラにカーソルを進めクリックする。
プロバイダの画面。検索スペースに『中井博信』と打つ。
画面にウエブ検索結果がずらっと並ぶ。その一頭最初に衆議院議員中井博信《高慢》の公式サイトがあった。カーソルをあてがい、マウスをクリック。
神奈川県十二区 中井博信とあり、笑顔の写真が貼られていた。サイトコンテンツ一覧に視線を移す。スケジュールを示す類のコンテンツはない。
「事務所に直接訊くか」
『事務所のご案内』のコンテンツをクリックする。
事務所は三つあった。噛んでいたボールペンを、メモの上に走らせる。千代田区、藤沢市、高座郡寒川町、それぞれの住所と電話番号を記すと他の情報を探してスクロールする。
《政策スタッフ(ボランティア)について》とある。学生ボランティアを募集しているのだ。
中井《高慢》に使われることになるとは、かわいそうなやつらだ。応募した学生ボランティアに同情した。が、そうでもなかったのかもしれない。第一秘書の大磯孝則が彼らの面倒を見ていたのだろう。あの見た目のユーモラスな大磯なら学生に人気があったはず。自虐ネタを一発かませば学生の緊張感が解かれ、そのうえ心も鷲掴みに出来るだろう。おれはさらにサイト内を先に進めた。
はたと、スクロールする指を止めた。中井博信《高慢》は国会報告会なるものを各事務所で行っている。参加に定員があるようだ。早速、応募しようと電話に手を掛けた。
そこで、おれは受話器を置いた。そういえば、大磯孝則が言っていた。「この部屋は中井に与えられた部屋ではないのです。近藤は言っていました、政治家の部屋だと。だったら、これは僕の部屋です。中井は、先代、先々代から引き継いだ票田の所有者であって政治家じゃありません。分かるでしょ。あの態度で政治なんかできますか?」
そういうことなのだ。『政治家の部屋』は、本当は大磯孝則のものだった。とするならば、中井《高慢》はマスターの従者であるのに辻褄が合う。
―――そうかっ!部屋だ!
近藤は部屋を紹介する時に何と言っていた。
『宗教家』、『政治家』、『快楽趣向家』、『教育者』、『科学者』、『資産家』、『実業家』
一つも、七つの大罪なんて出てこない。
『宗教家』、『政治家』、『快楽趣向家』の三つで検索をかけた。しかし、検索結果は項目それぞれバラバラで要を得ない。『宗教家』、『政治家』、『教育者』でやり直した。これも同じだ。国会議員の宗教について教えて! とか、国連の果たす使命とかが、検索結果に出た。
部屋は間違いないんだ。だが、なんでだ。
じゃぁ、逆にだ。敢えて『七つの大罪』を検索してみるか。なにかヒントが掴めるかもしれない。
検索結果の一頭最初に、ウェキペディアの七つの大罪があった。試しに開く。
目次で目が止まった。
七つの大罪はキリスト教関連であるはず。だが、どうも毛色が違う『七つの社会的罪』というのがある。
なんだろう。『七つの社会的罪』をクリックした。画面が、びゅんと先に飛ぶ。
七つの社会的罪
マハトマ・ガンディーは1925年10月22日に雑誌『Young India』(英語版)にて、「七つの社会的罪」(Seven Social Sins) として次の7つを指摘した。
理念なき政治 (Politics without Principle)
労働なき富 (Wealth without Work)
良心なき快楽 (Pleasure without Conscience)
人格なき学識 (Knowledge without Character)
道徳なき商業 (Commerce without Morality)
人間性なき科学 (Science without Humanity)
献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)
「七つの社会的罪」はインドのラージ・ガートにあるガンディーの慰霊碑の外壁にも刻まれている。
ウイズアウト、ウイズアウト、ウイズアウト? これは近藤の部屋にあった唯一鍵がかかる棚、その引き出しに張り付けられた文字。
息を呑んだ。始めから間違っていたんだ。ルールは守られている? 当然だ。『七つの大罪』ではなく、『ガンディーの七つの大罪』なのだ。それからして本当に部屋が与えられた者、―――誰がマスターのターゲットになっていたか分かると言うもの。