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生き残ったことなんて、ちっとも嬉しくなかった。そんなことよりなぜ、こういう巡り合わせになるのかが、腹立たしかった。悪運が強いと一言で言えばそれでお終いになる。おれが言いたいのは、身を捨てて誰かを助けようとしているのになぜ自分が生き残ってしまうのかということなんだ。
不甲斐ないし、罪悪感を覚えてしまう。まるで自分が誰かを盾にしているかのようなものだ。
ズボンのベルトに拳銃が刺さったままであった。これで己の脳天をぶち抜いてやろうか。いや、だったらマスターだ。やつを殺してから。今回のおれにはリベンジする機会が与えられている。
警察に連絡するなんて気持ちはこれっぽっちもない。例えそうしたとしても、今頃あの洋館には証拠もなにも無くなっているのだろう。あるとすればおれの証言だけだ。そもそもマスターは、脅迫状はおろか、誘拐を示唆する物証を残していない。
十人の行方不明者。死体があがれば別だ。警察も本腰を入れるだろう。だが、それは望めない。やつらのやったことにおれはなんでもいい、なにか証拠が欲しかった。
あるにはある。衆議院議員・中井博信《高慢》だ。やつをとっ捕まえてそれこそ監禁し、自白させるか、あるいはどこかの建物に中井《高慢》を人質に立て籠もってもいい。そして、公に要求するのだ。この男に十人殺された、捜査してくれと。
いずれにせよ、やつの居所を見つけるのはそんなに難しくはない。公民館に老人を集めて演説をぶっているかもしれないし、もうクリスマスのはずだ。サンタクロースの格好をして特別支援学校を表敬訪問しているかもしれない。
サンタクロースか。いや、まさかな。それはないだろう。不従順、自惚れ、侮辱的、短気、強情、不敬、虚栄。高い地位に喜びを得、誇示し、さらに自分の名を高めせしめんとする。挨拶は絶対に自分の方からしないし、食卓には言われなくとも上座に着く。サンタクロースの格好なんてしないし、奉仕の精神なんてこれっぽっちも持ち合わせていない。
ともかくも、やつの首根っこを踏ん捕まえないことには腹の虫がおさまらない。あの忌まわしい洋館ではK・Oしてやって満足はしたが、今度はやつのプライドをずたずたにしてやる。そしてそれこそが、やつにとって一番の苦痛なのだと思えた。何にしろ中井博信《高慢》は『七つの大罪』で高慢の称号を頂いている。
積雪と勾配に足を取られ、たどたどしく歩く。それはまるで成仏できない亡霊のようで、ふらふらと国道292号線を群馬大津の交差点へ向けて下っていた。
いくつもの車が通り過ぎて行った。ヒッチハイクをし、川崎まで戻らなくてはいけなかった。あるいは、マスターの手先に連れ戻されるかもしれない。車を横付けされて、その車に押し込まれる。そんな不安はないわけでもなかった。
来るなら来いよ。という気もあった。勝算なんてなかったが、拳銃もある。派手にドンパチやって死ぬのもいい。
自虐的と言うなら言うがいい。だが、楽観もしている。やつらは本当に来るのだろうか。だったらそろそろ来てもいい。今頃、ベンツに死体がないのを確認しているはずだ。なぜ、追ってこないのか? あるいは、追ってこられない理由があるのか。
いよいよもって不思議な奴らだと思うほかない。七つの大罪。それからして、どうも理解が出来なかった。彼らにとって重要な儀式というならしょうがない。残虐の真意を分かっているのは彼らだけだし、それはまさしくやつらのマスターベーションなのだから、こっちとしては一生考えてもその理屈には到達できない。
であるならば、クソめんどくさいその考えに、こっちは最もシンプルにして原始的な論理で応えよう。つまり、目には目を。やられたらやり返す。
それはおれの一生を通しての何ら変わらぬ信条。己の運命に対してまで、やってやろうじゃないか、と思う気持ちが『沖縄沖遭難殺人事件』では死の淵から這い上がらせた、と言っても過言ではない。いずれにしても、爆弾を積んだクルーザーで暴風に荒れる海を乗り切り、幸運にも生還したのだ。
幸か不幸かリベンジのチャンスが訪れた。通り過ぎたアルファードが急停車した。ナンバーは品川だった。
いや、どちらかと言うとやはり、不幸と言ってもいいだろう。おれにとってみれば、それは死への道程、そのスタートラインに立ったのだ。『沖縄沖遭難殺人事件』の場合、生き残ることに執念を燃やした。だが、今はマスターと刺し違えようとしている。
アルファードから男三人が姿を現すと、なにかあったのか、おっさん、と近寄ってきた。服がぴったりのサイズではなく、ぶかぶかで、どの男も熱帯魚のベタを思わせる。
「コンパニオンの取り合いをして喧嘩になった。それで車を下ろされた」
出まかせである。だが、その嘘が共感を得たのであろう、若者たちは笑い、そして、何処まで行くのかと問うてきた。
「川崎、鈴木町」
三人の内、人懐っこそうな男がアルファードに向けて言った。「途中っすよ。どうします?」
運転席から顔を出している男が言った。「乗せていこうべ」
人懐っこい男が、了解っす、と答えると、おれに向けて言った。
「おっさん、蒲田駅だけどいいっすよね」
頷いて礼を言ったところまでは、気持ちが張っていた。後は茫然自失で、三列シートの最後部で荷物と一緒くたになっておれは縮こまっていた。時折若い四人に言いたい放題なぶられて、おれは適当に言葉を返す。気持ちが緩んでいるからおれの返答は気が抜けている。どのルートで返っているのかもまったく気にも止められない。
それがためか、高速を入った時から、悪夢を、いや、起きているのだから幻覚か、蛾になった稲垣が車の前を飛んでいるのを見た。心のエネルギーが不足していたからであろう。おれは幻覚をそのまま受け入れていた。
稲垣はばさばさと羽を上下し、鱗粉をアルファードに振り撒いていた。
ああ、そうだった。お前は自殺を遂げ、そんな姿になったんだな。「だが、そんな姿になってまでおれと一緒に居たいのか?」
車窓の外で、稲垣がこっちを見ている。ふさふさとした触覚を巻き毛の頭から生やし、それが風になびいている。口角が上がり、目じりは下がっていた。
高速を降りてからは、幻覚を見ることはなかった。アルファードは公道を停まったり走ったりで気が付けば環八と第一京浜の交差点だった。信号が赤だったのでちょうどいいと、そこで下ろされた。
それから第一京浜を川崎方面に歩き、多摩川を渡り、競馬場を右手に見て、鈴木町に戻った。くすんだ三階建てのビルの窓にでかでかと狩場探偵事務所という文字のシールが貼ってある。おれはしばらくは呆然とその文字を眺めやっていた。
探偵になったのは、稲垣が勧めたみたいなものだった。いや、本人はそうは言っていなかった。おれが勝手にそう思い込んでいたのかもしれない。