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弁護士に緒方という人がいます。皆様も御存じかと思いますが、彼には悪いことをしたと反省いたしております。病室も手配してくれたし、大金も渡してくれました。ま、それは取り分の三割五分の株券を処分した金なのですが、私の言いたいのはつまり、看護婦の制止を振り切って、殴り蹴りし、緒方さんの口を割らしたということなのです。
が、仕方のないことと思っております。皆様方四人を守れなんてホテルでなぜ言ったのか。電話ではなぜ、言ったことを言っていないと言ったのか、私はどうしても知らなくてはなりませんでした。緒方さんが言うには、稲垣にそう言えと言われ、言ったすぐ後には忘れろと命じられたそうです。それから推測するに稲垣は、ことによっては計画の失敗を期待していた、ということになりませんか。つまりそれは未必の故意。あるいは、ゲームと言っていいのではないでしょうか。わたしはその探偵役に抜擢されたということなのです。
書いていてちょっと腹が立ってきました。つまり、稲垣は船舶免許を持ったうえ、いい頃かげんな人物を見つけたわけなのです。頭が出来過ぎず、ダメ過ぎず。ま、彼にとってはゲームなんですから。
弁護士の話も出たことですし、国際子供救援基金の話もしておきましょう。募金の名義は横山、島田、水谷の三人で、残念ながら山下の名前は外されました。
というのは、山下様が今回の事件の真犯人であると警察が断定したからです。私は山下様を弁護するつもりは毛頭ありません。ちょっと間違えば立場は逆転していたかもしれませんから。
それで面白いのは、マリーナの隣の船主佐藤さんです。見舞いに現れたはいいとして、しきりにガッツポーズを見せてきました。よく戦ったと言いたいのでしょうが、私は勝利者でもなんでも御座いません。これは皆様方に気を使って言っているわけではなく心からそう思っています。佐藤さんとしては皆様方に馬鹿にされたわけですから致し方ないでしょう。許してやって下さい。私はというと、皆様方のことを知り過ぎました。今回のことを手放しで喜べられないっていうのが本音なのです。
それと私事で申し訳ございませんが、ご報告したいことがあります。実はここ二十年来、母親とは会っていませんでした。今回の件でテレビのワイドショーで連日話題になったこともありまして(横山様のおかげです)、母親が心配してわざわざ沖縄に来てくれました。それでわたしの看病もしてくれました。嬉しいのは否定しませんが、四十五になって母親に面倒を掛けるなんて恥ずかしくて、病院の廊下も歩けやしません。
最後になりますが、稲垣に申しあげたいことがあります。貴方はきっと今もどこぞの空を飛び回っているのでしょうね。絶対に成仏できない、と断言できます。ですが、暇だからといって人様に迷惑を掛けないように。
と、まあ、おちゃらけるはここまでとして、言いたいのはパスワードのことです。きっと貴方の動機と絡んでいるのでしょう。なぜあなたはこんな凶行に及んだのか、是非とも知りたい。そして、それはあなたの性格上、山下様、島田様のお二方に解けないパスワードにしていないと存じます。私はというと、コケにされたまま黙っていられない性分です。それはご承知でしょう。パスワードは絶対に解かせて頂きます。なぁに、大丈夫。見当はつけています。楽しみに待っていてください。
ですが、少々お待ち頂きます。いいでしょ。あたなにはもう時間はたっぷりあることですし、あなたの性格上、パスワードが解かれることをきっと望んでいるはずです。
合 掌
狩場大輔
物語でよくあるパターンがある。探偵、あるいは刑事でもいい。心に傷を負っていて、例えば妻が殺されたとかで、そいつは変人になってしまい知人や同僚なんかの受けも悪い。ところが、ある事件をきっかけに妻を殺した犯人にたどり着き、最後は憎っくき犯人をやっつけてハッピーエンド。社会の巨悪を暴くのとヒーローになるというおまけがついてくる。
あれから一年経った。沖縄を離れるとおれは川崎に戻って来て探偵事務所を開いた。あえて言うなら、無職でやることがなかったから。職に就かなかったのは爆弾解除のパスワードを解くには一定の時間が必要だったから。それに稲垣がおれを探偵役に指名したのも影響していたのだろう。
金はごまんとある。迷い犬を探すとか、不倫の証拠を突き止めるとか、望月望のケツ拭きをするとか、そう、くだらない仕事をしながら稲垣の事件をぼちぼち調べていた。ちょっと見、復讐を果たそうとする物語の主人公みたいではないか。
だが、おれは物語の主人公のように純粋でなければ、傷つき易くもない。ましてや自分を追い詰るわけでもない。島田恵美が助けてくれたのもよくよく考えれば懐疑的である。彼女自身一人抜けしたくて、山下の腹にナイフを突き立てたのかもしれない。
おれはあの時、瀕死の重傷を負っていた。山下がスピアガンを構えている時こそ、島田はそうするべきだったし、二人で生還したければそうしていたはずだった。島田を責めるつもりはない。アル中に、船酔い。正常な判断能力を失っていた。憎しみか何か悪い感情に囚われしまって、おれのことなんてこれっぽっちも想っていなかった。詰まるところ、手紙に書いた通りおれは本当にうぬぼれ屋だった。だから、物語の主人公に己を例えて自分自身を皮肉っている。
それでも、笑えているうちはまだいい。実際凹んでしまうことがある。あれから一年も経とうというのに蛾の稲垣が夢に出てくる。海底で羽化するやつだ。それには心底まいっている。パスワードを解いてやるなんて挑戦的な手紙を海に流さなければよかったとも思い、今更ながら悔やんでもいる。
夢でいうと気にかかるのが、山下の悪夢である。まさか、稲垣が幽体離脱して山下の体に入って夢を見せていた、なんて馬鹿なことは言うまい。基本、おれは超常現象なんて信じていないのだ。
山下は稲垣に騙されて知らず知らずに自殺の手伝いをさせられた。ま、実際自殺したのは稲垣ではなかったのだが、それでも、山下は自分がやったと思い込んでいる。何かのトリックで、よくよく考えたらあれがそうだったのかと山下が気付くような仕組みになっていた。
精神に相当な負担となったであろう。そもそも山下には罪悪感がある。山下の悪夢を夜な夜な見るのは必然だと言っていいだろう。だが、おあいにく様。本当に稲垣陽一の自殺の手伝いをしたのは山下ではない。かく言う、このおれなのだ。
夢で幽霊になった稲垣を見たとか、そこに花火が上がっていたとか、焼けた死体が稲垣の抜け殻で霊魂は漂っているとか、そんなことを山下が言ったせいでその悪夢がおれにうつってしまった。えらい迷惑な話だが、事によっちゃぁ悪いことばかりではない。現に、山下の夢がパスワードへの大きなヒントだと思える。死んだ稲垣がパスワードを山下に教えてやろうとしていたかのようなのだ。山下はというと、結果的には稲垣と素直に向き合えなかった。それが出来さえすればパスワードなんてもっと早い段階で解けただろうに。
ともかく、蛾の稲垣である。山下が稲垣の夢を見た光景、花火が上がっているその場所に、実際に行かなくてはならない。そして、おれはパスワードを解く。そうすればあるいは、蛾の稲垣は夢に出てこなくなる。そんな淡い期待もあり、おれは近鉄難波行き特急に乗っていた。
さて、皆藤真である。結論から言うとやはり彼は生きていた。稲垣の勤め人時代の同期である。今もピンピンしていて、満員電車で経済新聞を起用に折りたたみつつ読んでいたりする何の変哲もないサラリーマンだった。稲垣の身代わりで焼死体になったのは、稲垣と姿格好がよく似た、名前も定かではない身元不明者なのだろう。焼かれたのはかわいそうだが、その男がどこのだれかなんてこの際どうでもいい。
手元に稲垣が作ったファイルがある。武内忍から譲り受けたものだ。そこから稲垣ら五人が並ぶ写真を取り出す。揺れる車内でそれをまじまじと見た。写し出されていた場所は自衛隊久居駐屯地グランド。花火大会の名は『サマーフェスタインひさい』というらしい。写真の稲垣は満面な笑みであった。
そこに行く前に、どうしてもやらねばならないことがあった。目的地から三つ手前の津駅に降り、ホテルにチェックインした。荷物を置いてタクシーを拾う。行先はショッピングモールである。