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話を出航の時点に戻しますが、稲垣は死んではいませんでした。島田様がよく立ったキッチン、その床下の冷蔵庫にいたのです。わたしが入院した病室に専属の看護婦がいるので何気に訊いてみましたが、歯が抜ける、目がくぼむ、頬がこける、肌がカサカサになる、これは白血病の症状です。山下様も言っておりましたでしょ。「見る影もなく歯も抜けて、肌はかりかりで、頬も目もこけていたけど、そこにいたのは間違いなく陽一でした」と。
出航前夜、私は冷蔵庫の中を確認しました。その時、わたしの見た男は、皆藤真ではありませんでした。随分老けたやつだったんだなと思いましたが、先に言った通り、それは紛れもなく稲垣陽一その人でした。
他にも稲垣が生きていたとの思い当たる節はあります。さっきも記しましたが、冷蔵庫のことです。皆様方にはずっと隠していたのですが、それはキッチンの床の下にあります。思い当たる節とはその電源のオンオフのことで、冷蔵庫本体の中で行われます。おかしいとはおもいませんか。ホテルの冷蔵庫には電源スイッチをよく見かけますが、それでも中にではなく外にあります。多分、電源スイッチは稲垣本人のためにあったのでしょう。何しろ何日もあの中で暮らさなければならなかったのです。一メートル×二メートル。それでゆったりとしたスペースにしたのでしょう。
ここで補足になりますが、皆藤真です。皆様方は知らないでしょうが、彼は稲垣の同僚でありながら稲垣がもっとも憎んでいた人物なのです。
と、稲垣にそう教わったものですから、私は頭っからそれを信じて疑いもしませんでした。それどころか、稲垣の身になって皆藤真に怒りさえ覚えました。が、実際は、存在自体眉唾ものなのでしょう。あるいは、本当にそんな人物がいるのかもしれません。ですが、わたしの知っている皆藤真は多分、浮浪者、つまり身元不明者なのでしょう。最後に山下様が私におっしゃっていましたが、島田様以外の人間を殺せと私が稲垣に依頼された、というのは間違いです。わたしが頼まれたのは、稲垣が殺したその皆藤真(身元不明者)を航海五日目、八月四日の日の出までに海へ投棄するということでした。因みにわたしはその報酬として一千万円頂いております。
ところが、事情は違いました。実際には、皆藤真(身元不明者)を身代わりにして自分は死んだこととし、当の稲垣本人は皆藤真として『インディアナ号』に乗っていたのです。そういう点で申し上げると皆藤真なる人物は稲垣と歳や背恰好がそっくりな人物、となるわけです。なにしろ警察の目を欺かないといけませんから。
ともかく、稲垣陽一は生きていまいした。私はまんまと嵌められたわけです。隣の船主佐藤が見たのは、幽霊でもなんでもありません。何のことはない生きた稲垣陽一本人でした。思うに、彼は船に細工を施していたのではないでしょうか。多分、その作業はコンピューターのプログラミングだったのでしょう。それで息抜きにメインキャビンから風に辺りに外に出た。そこを佐藤さんに見つかってしまった。
佐藤さん的には驚かれたでしょう。稲垣でありながら稲垣ではない。なにしろ稲垣は死んだはずですし、見た目は歯が抜け、痩せこけていたわけですから。幽霊を見た、と言ったのは仕方のないことだと思います。爆弾の方はというと、マリーナのメカニックが点検しても見つからなかったことからして、冷蔵庫の構造と同じように設計段階から施してあったものなのでしょう。廃棄する時は沈めたい、転売はゆるさない、とかなんとか理由をつけて。
珍しいことではないそうです。金持ちの間では良く行われることだと聞きました。夢を託した船には愛着がある。寿命まで使って、最後に葬儀を行う。人をあの世に送るように、船を海に沈める。
私はマリーナに設計図の有無を確認いたしました。あることはありました。が、それは系統図のみで、爆弾の有無はその図面から確認できませんでした。それで製造元のリーバに確認いたしました。骨を折ってくれたのはTeLEXの創業者、望月望という人物です。私は英語が出来ないもので彼に頼らざるをえませんでした。彼が言うには、爆弾は二基のエンジンの真下にそれぞれ一個づつ、とのことでした。
船を陸揚げして、エンジンを外さないとその存在は目視出来ないそうです。探したって見つかりっこないのです。
つまり、私が言いたいのは、『インディアナ号』はわたしたちを爆破するために造られたということです。
赤いデジタル時計も稲垣の仕業です。メインキャビンの床下で彼は我々の会話を聞いていたわけです。どうです? 歯も抜けて、痩せこけた男がイヤフォンを耳に着け、ほくそ笑んでいる。そう想像すると背中に悪寒が走るでしょ。
ま、それはともかく、それで横山様の行動パターンを掴んだわけです。そして、シャワーに入っている間に水谷様を殺し、ブランデーに青酸カリを入れました。稲垣陽一本人は、その青酸カリを自ら口に含んで冷蔵庫の中で自殺しました。その時、各部屋のマスターキーは彼の手中にあり、青酸カリも盗聴の受信機も手放さず持っていました。当然、その重要な証拠を海に投棄したのは島田様では御座いません。かく言うこのわたくし自身で御座います。
気になるのは、先ほども言ったように稲垣がどの時点でこれを計画したかです。キャビンの間取りは犯行を実行し易いように、いや、計画に合わせて設計を依頼したとしか考えようがありません。稲垣が私に自分の計画を話す段になって、何でわざわざキャビンの案内をしたのかも引っ掛かります。それと、見つからなかった爆弾。それから考えるにずっと以前から計画を練っていた、とは言えないでしょうか。
少なくとも、初めて私と会ったあの日にはもう考えていた。興味深いのは水谷様が死んだ日の夜に見た幻、蛾の姿をした稲垣陽一です。
実は、山下様、横山様にわたくしは嘘をついていました。八月五日の午前零時からの移動で私が見たものは、蛾ではありません。稲垣陽一だったのです。ふさふさの触覚と団扇のような大きな羽を四つつけて、舳先の前を飛んでいたのです。
それを見ていてわたしは、蛾の稲垣と、腹筋を夜中やり続ける稲垣が頭の中で重なったのです。どうも稲垣は感情が高ぶると腹筋をするようです。蛾はぶつかってもぶつかっても光源目掛けて飛んでいきます。まるで同じじゃないですか。
蛾の稲垣はともかく、じゃぁなんで稲垣の腹筋を私が知っていたのか。私が初めて稲垣の部屋を訪れた時のことです。夜中、私の寝ている横で腹筋をし出したのです。彼は狂喜していたのでしょう。わたしは船舶免許を持っていたし、皆様方と同じような仕打ちを稲垣にしたのです。ですから、わたしにも『インディアナ号』に乗る資格があったというわけです。
あるいは、わたしが船舶免許を持っていなかったとして、稲垣はどうしたのでしょうか。きっと手を変え品を変え、私に取らせるようにしむけたのでしょうね。絶対にこのわたしをインディアナ号に乗せようとした。金を貯めるのもそのためで、もし大金を手にしなかったら今回の犯行には及ばなかった。わたしのような体力自慢の、ちょっと頭の足りない輩を見つけるのも、始めは気休め半分だった。だが、稲垣陽一は皆様がご存じの通り、大金を得てしまった。推測の枠を出ません。だが、そういうことではないでしょうか。