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何という幸運なのだろう。ちょっと出来過ぎでもあるが、なんにしろ命は助かる。神でもなんでも感謝するさ。
キーを挿した。山下の方も用意が出来たようだ。リアハッチの閉まる音が聞こえる。山下らはゴムボートと共にトランサムステップでおれを待っている。エンジンをかけた後、おれが急ぎトランサムステップに移って二人が乗ったゴムボートを押す。そうやって走行する船から脱出する算段だった。
山下のGOの合図が出た。おれはエンジンを始動させた。リモコンレバーを目一杯倒すとトランサムステップに走った。
ゴ、ゴムボートがない。
ボートは、トランサムステップから五メートルほど離れたところで山下と島田を乗せてプカプカと浮いている。おれは取り残されていた。船が全速力で離れていくからおれとゴムボートの間はみるみる離れていく。慌てて海に飛び込んだ。必死に泳ぐ。おれはこの方二十年、水泳なんてやっていない。
ゴムボートには船外機がついていた。十五馬力で、時速三、四十キロは出る。山下はおれが来るのを待っているようだった。ゴムボートを動かそうとしない。
今更ながら山下の性格に嫌気がさした。走る船からゴムボートを落とすのが嫌ならそう言ってもらわないといけない。それにボートには船外機が付いているんだ。おれを拾いにボートを動かしてくれてもよさそうなものだ。
が、しょうがない。おれは泳ぐだけ泳いだ。実質十メートルほど泳げばよかった。プールならちょろいもんだった。すぐ着くと思いきや、幾ら水を掻いても、幾ら水を蹴っても、思うように前へは進まない。波に翻弄され、潮に流され、ちょっとづつ、ちょっとづつ、不様に、ゴムボートに近付いて行った。
もう目の前だった。やっと一息つけると思った。山下がおれの名前を呼んでいる。狩場、狩場、と呼びつけで二回。そこでおれは気付いた。山下がスピアガンを構えていた。
「稲垣はあんたにこう頼んだんだろ。おれたち三人は殺し、残った恵美に残りの株を渡してほしいって」
山下はおれに答える間を与えなかった。言いたいことを言い終わるとスピアガンを放った。海に泳いでいる最中である。手は水を掻き足は水を蹴り、息継ぎは横で行っている。そのまま海中へ姿をくらませばよかった。だが、おれは山下に反論しようと、いや、罵倒しようと、頭を上げていた。海水が口に入って来るのを避けたんだ。当然動きは止まり、海面から山下を正面に見上げるかっことなっている。
そこに放たれた銛である。おれは避けられず、肩口にくらってしまった。動きが止まり体は沈んでいく。溺れないようもがけばもがくほど傷口が広がった。おれの周りの海面は瞬く間に血に染まる。おれは山下にしてやられたのだ。
が、優位に立っているはずの山下が腹を押さえている。山下が言った。
「なにをしやがるんだぁぁぁぁ」
驚くことに、山下が押さえているそこに果物ナイフが刺さっていた。山下は我を失っていた。怒りに任せ真っ赤に染まったその手で、島田を襲った。首を絞めようとする山下。抵抗する島田。二人はもつれ合う。島田は山下の腹に何度もナイフを突き刺していた。
と、そこに轟音と爆風。
船が爆発したのだ。船は大きくカーブを描きつつ走っていた。ステアリングを少し左に切って固定しておいた。そうすれば船はあまり離れて行かず、ヘリはおれ達を見つけ易いと考えたからだ。
幸か不幸か、二人がもつれ合っているそこへ、ほとんど後ろの方角から衝撃が襲った。ゴムボートはおれの前を横切り、乗っていた二人は爆風で飛ばされ海へと落ちた。薄らいでいく意識の中で、おれはなぜか、稲垣陽一の興奮する顔を思い出していた。
「きっとド派手な葬式になる」
暗闇に雪が降っている。さらっと頬を撫でていくような、軽い感じでふわふわと、白い粒が漂うように舞っている。辺りには民家の明かりどころか、人っ子ひとりいない。真っ暗な空からえんえんと雪が舞い降りるだけ。あまりにも静かで、雪の降る音が聞こえてきそうな夜だった。
と、そこに、稲垣の船でみた死体袋も降ってきた。雪と同じ速度でふわふわと舞い降りてくる。
そう、ここは深海。雪はマリンスノー。死体袋はまだ海底に到達していない。深い闇に向けてふわふわと沈んでいく。まだ、沈んでいく。マリンスノーと一緒に沈んでいく。沈んでいく。
死体袋のファスナー。そのスライダーが死体袋の頭から足の方に向けて動いていく。カチカチカチっとゆっくり、ゆっくりと。
やがて死体袋が開いた。中からぬめりと白い物体が姿を現す。まるでサナギから脱皮する蝶のよう。
萎れた羽が、静かに、静かに、つぼみが花咲くように開いていく。それに合わせて白い羽の表面にも、古代の文字が記してあるかのような模様とケバケバしい色調が浮き出てくる。
蛾。
死体袋から脱皮を遂げようとする蛾は海中を落ちていきながら、やがては成虫に変態する。大きな羽を広げると死体袋を捨て去り、ゆっくりと、ゆっくりと羽ばたいて、上へ上へと目指す。殻となった死体袋はマリンスノーと共に落ちていき、海底の暗闇へと消えていく。
蛾は海中を飛翔する。もう、マリンスノーが降ってはいない。上へ、上へ。海面はすぐそこだった。もう少し、もう少し。
蛾は海面を突き破った。外の世界は、そう、嵐だった。空は渦巻き、海面は鋭い隆起でトゲトゲであった。そして、猛烈な風、篠突く雨。蛾はそれでも風雨に逆らって前へと進む。羽ばたき、羽ばたき、暗雲渦巻く宙をひた走る。目指す先はあの船。荒波にもがくあの船。蛾はその船を見つけた。
フライングデッキの上に男がいた。黒いレインコートをバタつかせ、ステアリングホイールを握っている。
その男の後ろに、蛾は降り立った。そして、ゆっくり、ゆっくりと近づく。男は気付く様子もない。蛾は手を伸ばす。男は気付かない。蛾の手は男に触れる。
おれは、わっと奇声を上げていた。気が付けばそこは病院の一室だった。大会社の社長が入るような最上級の個室。テーブルとソファー、傘が付いた照明スタンド、まるでホテルのスイートだった。
ふと、横に看護婦がいた。若く美しい女だった。おれの奇声にびっくりしたのであろう。口に手を当てて目を皿にしている。
口を押えるなんて、上品でかわいらしい。驚き方も特別室の看護婦は違うもんだなぁ、と思った。だがそれも一時、気持ちがどんより沈んでいく。またあの夢を見てしまった。忌々しい。頭を掻きむしろうとして、肩口に傷を負っていたのを忘れていた。強烈な痛みに身をよじる。
左肩から背中に穴が開いていた。それで肩甲骨も割れている。言うまでもないが、山下が銛を打ち込んだためだ。
おれは傷口に手を当てた。間違いなく山下賢治はおれの心臓を狙った。やつの考えだ。どうせ全ての罪をおれにひっかぶせようとしていたのだろう。恐ろしいやつだった。
スピアガンを構えたやつの目は迷いも何もなかった。BMWカブリオレに荷物を乗せる時はまごついていた。その山下は、もうそこにはいなかった。
ま、やつとしてはここが勝負所だとスイッチを入れたのだろう。五百億が手に入ろうとしていた。そもそも全てをなげうつ覚悟でこの航海に挑んだはずだ。公金横領もそうだし、稲垣の自殺に思いもよらず手を貸してしまったのもそう。このままでは残りの人生、破滅に向かうだけなのだ。やつとしてはこの航海で一発逆転に賭けるしかなかった。
それまでの山下賢治は多分、何があろうと上手に立ち回り、要領よくやって来たに違いない。それで最後の最後もそうなるだろうと信じていた。おれの人生を顧みるとうらやましい限りだが、人生とは分からないものだな、と山下には考えさせられた。
それは稲垣陽一にだって言えることだ。もし稲垣が山下と出会わなかったらどういう人生になったのだろうか。島田だって違う人生を歩んでいたのかもしれない。彼女の運命は悲惨を極めた。彼女はまだ悲劇から解放されていないのだ。
そう思うとやるせない。紙一重だった。あの瞬間、それぞれの人生が交差した。おれにしてみれば、海にうねりが残っていたのが幸運だったといえる。それだけじゃない。この傷のおかげで、変に疑われることはなかった。うなずいていれば独りでに、あの船での出来事全てが山下賢治に押し付けられ、おれはというと、事件の被害者に間違いないのだが、無実であることが証明されていった。