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このままここにはいれない。もし中井《高慢》が従者というならば、近藤もそうだし、他の黒覆面もそうだ。いざとなれば寄ってたかっておれ達は殺されるだろう。それに田中《姦淫》。お前にこれ以上、人殺しをさせなくない。
頬を軽く張って田中《姦淫》を目覚めさせると抱き起した。虚ろに目線を泳がしているが、構わず立たす。
「シャワーを浴びろ」
田中《姦淫》を浴室に放り込んだ。そして銃口を向けた。「早くしろ!」
以外と聞き分けが良かった。朦朧としていて意志の力が弱まっているのだろうか。それとも猫を被っているだけなのか。田中《姦淫》は大人しくシャワーを浴びていた。体を赤く染めた血が水に洗い流され、足元の吸水口に吸い込まれていく。
「よし、もういい」
シャワーを止めた田中《姦淫》に、タオルを投げた。「拭け」
依然として田中《姦淫》は言われるがままだった。
「服を着ろ」
ふらふらとした足取りで、あっちこっちに散らばった服から、田中《姦淫》は自分のだけを選っていく。銃口は外さない。
田中《姦淫》は、ふにゃらふにゃらと服を着始めた。まったく要領がなっていない。着る服の順番に迷っているようだ。靴下の片方をはいてみてはブラをつけようとする。じれったくなった。おれは逃げる意思を固めていた。ならば、一秒たりともここにいたくはない。
「早くしろ!」
なんでって顔を田中《姦淫》がした。
お前のためだろうが! 田中《姦淫》に近づいて拳銃を振り上げた。殴る気はなかった。だが、脅しにはなるだろう。さっき殴ったばかりなのだ。
「もう殴らないで!」
田中《姦淫》は脅えて小さく丸まった。体が小刻みに震えている。
「お願い。お願いだから殴らないで」
か細い声だった。さっきまでの田中《姦淫》とは思えなかった。
トラウマ。
その言葉が頭に浮かんだ。彼女は虐待を受けていた? そう言えば、継母にいたぶられていたと聞いた。想像するに、父の女遊びの腹いせに、継母に言われない理由をつけられて殴られていたのだろう。
中小路《怠惰》を殺したのだって、ただ単にしとめ易いだけではあるまい。憎しみがあったのだ。彼女にとって中小路雅彦《怠惰》は父そのものであり、復讐するに値する男だったのだ。あくまでも、それはおれの想像だが。
「殴りはしない。ただし、言うことは聞いてもらう」
非道なのかもしれない。人の弱みにつけ込んで、言うことを聞かそうなんておれのやり方に反する。それでも、こうするしかなかった。
あるいは、この手を使って田中《姦淫》をコントロールし、救助を待つか?
だが、思い直した。いつマスターが豹変するか分からない。手下の黒覆面を使っておれ達はなぶり殺しの目に合うか、まるで死刑囚のように階段を昇らされ、首に輪を掛けられるか。
田中《姦淫》が服を着終わるのを待って、言った。
「近藤に会いに行く。前を歩け」
脱出することを悟られてはならない。あちらこちらに監視カメラがある。盗聴もしているだろう。会話の内容にチェックを入れているに違いない。それに田中《姦淫》だ。仕草に違和感があってはならない。こいつはあくまでもしょうがなくおれに従っているってことでいい。
「ルールが守られているか問いただす」
別に策があるわけでもない。ただ近藤の部屋にはこの洋館で唯一の鍵がかかる棚がある。それとブレーカーだ。脱出はスマートにやりたかった。結局行き当たりばったりになりそうだ。
田中《姦淫》に快楽趣向家の間のドアを開けさせた。ともに通路に出る。もう銃口を向けなくてもいい。田中《姦淫》は従順そのものだった。
とはいえ、信用したわけではない。通路に拳銃が転がっていた。中井《高慢》のだった。とっさに田中《姦淫》が拾おうとした。
「弾はない」
先を急ぐという意味で、田中《姦淫》の背を軽く押した。「大磯、大家、黒田に小西。合計四発発射された」
唐突に後ろから押された田中《姦淫》はトラウマに襲われたのか、それとも、大磯らの死を改めて指摘されて怯えたのか。おそらくは前者なのだろう。目をカッと見開いて立ち止まる。おれはそんなことに構っちゃぁいられない。行け、と命じた。田中《姦淫》はうなずくと歩き始めた。
雇人専用階段を降りたらもう近藤の部屋、執事室だった。田中《姦淫》にドアをノックさせた。監視カメラは全てを捕らえている。マスターはこれから襲われている近藤を例の塔で目の当たりにするはずだ。
執事室もおれたちの部屋同様、鍵がかからない。それはつまり、おれ達が近藤を襲うにしてもゲームの範疇なのだということ。マスターはそれ自体を咎めることはしまい。だが、おれの目的はその先にある。
「これはこれは、田中様と狩場様」
開いたドアの向こうに近藤がいた。おれは田中《姦淫》の後ろに立ち、近藤からブラインドになる位置で銃を握った。
「残るはおれ達だけだ。帰してくれるよな」
「それはそれは、」 近藤は頭を下げた。「ですが、残念でございます。あなた方はまだここにいて頂きます」
顔を上げた近藤に銃を向けた。「手を挙げて後ろを向け」
見慣れた風景かのように近藤は、眉一つ動かさない。じっと銃を見ていた。
「おまえは執事だろ? おれは、命じている」
それは納得したようだ。近藤は、かしこまりました、と大人しく手を挙げて、後ろを向いた。
「さっきおれは、残るはおれ達だけだと言ったよな。だが、まだ終わってないんだよな、近藤」
「はい。ゲームはまだ終わっておりません」
「だろうな。中井が生きているからか? だが、おれがそれで納得すると思ったか? 中井はおまえたちの仲間なんだろ? 沼田、井田、橋本の三つの殺しはルールがあるために部屋持ちには不可能なんだ。ルール、ルールっておれ達を縛っておいて、お前らは好き勝手。何が七つの大罪だ。何が残った者とその従者は帰されるだ。お前らは最初っから、おれ達全員殺す気でいた。ルールなんておれ達を騙すための戯言でしかなかったんだ」
「いいえ、狩場様。マスターの決めたルールは何者といえども侵すことが出来ません」
「この期に及んでまだ言うか。じゃぁ、中井を殺せば帰してくれるんだな」
「お答えできかねます」
「お答えできかねます? おかしいな。そういうルールじゃなかったのかよ」
拳銃を逆さまに持った。
「ふざけるな!」
後ろから近藤へ向け、銃のグリップを叩きつけた。近藤は床に横たわった。起き上がって来そうもない。
「コケにしやがって」
ゲームが終わらないと告げられ、田中《姦淫》は呆然としていた。
「キーだ! 近藤はキーを持っているはず。早くしろ!」
おれは部屋に飛び込んで、デスクの上を駆け抜けた。「なにを突っ立っている。キーはあったか!」
田中《姦淫》は、はっとた。近藤の体を探る。
「あった」
「投げろ」
おれは飛んできたキーを机の上でキャッチするとアンティーク調の棚の前に立った。この洋館で唯一の鍵穴。それがこの棚にあった。おれの予想が正しかったら、おれ達から奪った持ち物はこの中にある。片開きの扉に、おれは鍵を刺し込んだ。