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橋本《妬み》の部屋、科学者の間を出て、おれと大家《貪欲》らは分かれた。科学者の間から見て、大家《貪欲》の部屋は中小路《怠惰》の部屋より手前で、中小路《怠惰》の部屋はL字型洋館の外側の角に位置していた。
資産家の間。そのドアをノックした。出てくるまで少し時間があった。ちょっと隙間を空け、顔を出した中小路《怠惰》の上半身は、裸だった。肌が、少し汗ばんでいる。
「狩場君、悪いが外で見張りに立っててくれないか」
そう言うと中小路《怠惰》は拳銃を見せた。ドアの隙間から、グリップの方をおれに向けて差す出す。
「弾丸は僕の分と田中君の分が入っている」
察した。二人はことの最中だったのだ。生死が掛かったこの緊張感が彼らをそうさせたのか、それとも本当に愛し合っているのか。いずれにしても、それが不道徳だとか、不謹慎とか思わない。男と女なんてものはそういうものだ。昨年の夏、沖縄の海でも同じようなことがおこった。五百億を分割相続するために集った男女四人は各々、特別な夜を過ごした。
おれは、快楽趣向家の間の前に残された椅子を手に取り、資産家の間のドアの横に置くと腰を下ろした。
どれくらい時間が経ったのか。一時間か、二時間か。この馬鹿げたゲームを終わらせるには、とそればかりを考えていた。中井博信《高慢》を踏ん縛るしかない。
最悪、銃撃戦も辞さない。が、銃弾が必要だ。皆の協力が得られるだろうか。次の食事で顔を合わせた時、なんて言ったらいいのだろうか。銃弾を預けてもらうには、ある程度見込みがある作戦を提示しなければならない。さて、どうしたものか。
いい考えも浮かばず、腹の具合から、もうそろそろ昼だろうと思っているところに、奥の階段を昇ってくる足音が聞こえた。近藤だろうとは思うが、念のためだと腹に差した拳銃を握った。中井《高慢》ということもありうる。
しんと静まった居住区画の通路に足音が響く。奥の雇人階段を誰かが昇って来るのだろう、それが近づくにつれて近藤の頭、肩、胸と、順に床から姿を見せ始めた。安心したおれは拳銃から手を離そうかと思ったその時、もう一つの足音も聞いた。
もう一人、近藤の後ろから誰かが付いてきている。果たして近藤が階段を上がり切ると、もう一人の男の姿も見え始めた。黒覆面の男である。マスターの下僕、渡廊の番人だ。
拳銃から手を離した。近藤と黒覆面は並んで歩き、大家《貪欲》の部屋の前に立った。めずらしいこともあるもんだなと思いつつ、おれはそれを眺めやっていた。昼食の報せに二人で来たためしがない。
近藤がドアをノックした。そして、例によって、昼食のご用意が出来ました、と言った。するとドアが開き、小西が顔を出した。
「わたし達はダイニングルームには行きません。こっちに持ってきてくれませんか」
「かしこまりました」
そう言うと近藤はおれの方を向き、歩み出した。
さっきからずっと近藤は壁側の方を歩き、一方の黒覆面は通路の中央側を歩いていた。小西から見れば、ドアの前に立った近藤はすぐ目の前だ。後ろの黒覆面の男には気付かない。その近藤が歩み始め、黒覆面がそこに留まれば、黒覆面が急に表れたように見える。小西はぎょっとしたに違いない。
それでも、突然黒覆面の男が現れたくらいならまだいい。胸のフォルダーから拳銃を取り出したのだ。逃げる間もなく小西は銃声と共に部屋の中へと消えた。ドアはまだ半開きである。そのドアを、黒覆面は蹴破った。室内に向けて銃弾を二発撃ち込む。一瞬の出来事だった。
近藤はというと、銃声に振り向くことなくおれへと近づいて来た。後ろで起こっている出来事をまったく意に返していない。
その近藤を、黒覆面は抜き去った。
はっとした。おれは拳銃を抜きながら立ち上がった。が、すでに黒覆面の姿は目の前にあった。拳銃は叩き落とされ、ウールの絨毯にドスンと埋まってしまった。慌てて拾うにも、強烈な蹴りを腹に受けて動きを止められる。
今まさに、絨毯にめり込んだ銃を黒覆面が手に取ろうとしていた。拾われたら終わりだ。おれは辛うじて間に合った。と、いっても、足先だった。伸ばしたそれに拳銃は弾かれ、絨毯を滑って、突っ立っている近藤の足元で止まった。
「お邪魔のようですね。ですが一応、言っておきます。食事の用意が整いました」
そう言って近藤は踵を返し、雇人専用の階段へと向かう。おれは近藤の言葉を聞き入ってしまっていた。黒覆面に加勢していいようなものなのに近藤は己の仕事を全うしようとしている。頭がおかしいとしか思えない。そんなことを考えていた。それでおれは黒覆面に一歩出遅れてしまった。
黒覆面はというと、近藤の行動は予測できたようだった。すっと立ちあがったかと思うと右、左と蹴りを放った。
おれはそれをまともに食らった。近藤に注意が行っていたのもあるが、黒覆面の動きは明らかに武道をたしなんでいる者の動きでもあった。威力も十分で、足元がおぼつかなくなっているそこにとどめとばかり、渾身の拳が放たれた。
避けることも出来ず、顎を受けた衝撃でおれは膝を落とした。ほとんど意識は飛んでいたが、銃に向かう黒覆面の足を間一髪、掴むことが出来た。そこからその足を引っこ抜くようにして引っ張り上げると、倒れた黒覆面に馬乗りにまたがった。そして、腕を振り回す。
おれの拳をさばきつつ、黒覆面はおれの振り下ろす右手に自分の左手を絡ませた。そこから回転、今度はおれが下になった。黒覆面に見下ろされている状態。辛うじて足は黒覆面の胴を挟んでいた。この足を外され、馬乗りにされたらかなわない。駆けるように足を回転させると、黒覆面を引き離しにかかる。一発いいのが胸に入ったのだろう、黒覆面は後方に倒れるようにして肘をついた。
ボコられるのは逃れた。だが、黒覆面の体勢は崩せても、ダメージには至らなかったようだ。おれが立ったと同時に黒覆面も立ち上がり、蹴りを放ってきた。
ガードはしたものの、その勢いで壁に飛ばされた。バウンドして戻ってきたところを回り込んできた黒覆面に正面を塞がれる。それから壁を背に、好きなようにボコられる。
意識は朦朧とし、そして、何回かは飛んだ。気が付けば、おれは黒覆面の腹にタックルするような形で食らいついていた。何ともお粗末なクリンチで、無防備な背やあばら骨に幾つも拳が入いる。喘ぎながらも、おれは力任せに黒覆面を持ち上げ、そして、床に叩きつけた。頭を抱える黒覆面。チャンスだったが、このまま殴り合っても勝てるとは思えない。おれは拳銃がどこにあるのか確かめるとそこに向けて一直線に走った。
だが、おれは足元をすくわれた。前のめりに倒れたかと思う一方で、黒覆面はというと、スタートを切っていた。入れ替わる形で黒覆面が拳銃に向かっていた。先を行かれてしまったが、拳銃を手に取るまでは、まだ分からない。おれは起き上がると、拳銃を手にしようとしている黒覆面に飛び掛かった。
おれ達二人は一緒くたになって転がっていった。先に立ったのは黒覆面だった。おれが立つのを待ち受けていて、またあのいやらしい蹴りを放ってくる。
何度も受けた蹴りであった。目が慣れると黒覆面の癖も見えて来る。身を低くして避けるとぐっと間合いを詰めて、黒覆面の腹に拳を入れる。それが、幸運にもクリーンヒットした。黒覆面はうずくまった。千載一遇のチャンスだった。顔面に膝を入れた。
完璧だった。息絶え絶えに、のびている黒覆面を見下ろした。息を吹き返す様子もない。ほっとした脱力感に身を任せて膝を落とした。大磯孝則の時の借りは返した。ウールの絨毯に手を付く。この野郎ぉ、とおれは黒覆面の覆面を剥ぎにかかった。
息を呑んだ。
それは中井博信《高慢》であった。一瞬、頭の中が真っ白くなったが、たちどころに思考は鮮明になり、そして理解した。