85
キーはすでに刺してある。ステアリングホイールを右手、左手、と持ち替えながらキーを回して二つのエンジンを始動させた。リモコンレバーをニュートラルにしたまま、いつでもプロペラをフル回転させられるようにしておく。エンジンへの負荷、つまり、燃料の無駄を極限まで抑ようというのだ。
雨や風、ロープで縛ってあるといえども放り出されそうで、環境としてはすこぶる悪い。が、やはりフライングデッキは三百六十度、波の状況が把握できる。全神経を目に集中し、波の動きを観察した。一番恐ろしいのは追ってくる波である。先ほどのキャビンドアをやられたあれを、もう二度と食らいたくはなかった。
観察と言っても、それは地獄絵図であった。この世ではもう見ることはないだろう。波丘の高さに息をのんだ。谷の深さに肝を冷やした。それが絶えず変化していくのに耐えられなかった。あまりにも無残である。そして、絶望的であった。
絶望的過ぎて、自分で言うのもなんだが、気が変になっていた。開き直り過ぎて裏返ったというか、いったいこのおれが何をやったんだ、という怒りの気持ちが沸々を湧いてきて抑えきれなくなっていた。
古今東西、悪人は地獄に落とされると決まっている。だとしたら、ここはどこだという。地獄だとしか言いようがないじゃないか。
ならば、どこの地獄なのか。地獄にも色々ある。ダンテの『神曲』によると地獄の構成は九つの圏からなる。その内、第二圏が確か、暴風雨が吹き荒れる地獄だった。通称、愛欲者の地獄。ここはきっとそこなのもしれないか。
ということはだ。おれは愛欲に溺れたことになる。信じられない。身に覚えがない罪を負わされている。冤罪も甚だしい。糞くらえだ。糞くらえ。誰が何と言おうとおれは冤罪を晴らしてやる。
猛烈な雨ってこともある。それとも突風か、まともに目なぞ開けてはいられない。辛うじて、薄目を開いて周囲を確認していたそこに、鉄砲玉のような、高速で、堅い水滴が無数に飛来した。顔面にもろに食らった。おれのすぐ横の、波丘の頂点が風でばっさり切り落とされ、それがおれに向かって来たのだ。
全く視界を失った。が、眼球がやられたわけではない。大丈夫、まだちゃんと見える。
「やりやがったな、糞野郎! なら、こっちだって考えがある。やってやろうじゃないか!」
リモコンレバーを全開にした。船は波を乗り越える。と同時におれはレバーをニュートラルに戻した。また波が来る。エンジンの出力を上げる。乗り越えた瞬間にレバーをニュートラルに。おれはリモコンレバーを御者が馬に鞭を入れるように上げては下ろし、上げては下ろす。
波は、後ろからだけが危険なわけではない。燃費を上げるため、不要なもの一切を捨てた。よって船の喫水線は下がることになる。特に正面から襲ってくる波は乗り越え時、かなりの確率でプロペラの空転を招く。海中で回転し続けているなら問題ない。一旦海中から出されたプロペラが回転しながらまた海中に戻る。いかに高い強度で作らていようとも、何度もそれを繰り返せばペラ翼の損傷は元より、軸系、機関の故障につながりかねない。
しかも、先ほどフライングデッキに上がる前、強烈なのを一度くらっている。船底はかなりのダメージとなったであろう。今乗り越えている幾つもの波はそれほどでないにしろ、それでも船底にはそれなりの力が掛っている。つまり、船は絶えずボディーブローをくらっているようなものだ。
かといって、波に背を向けるわけにはいかない。追い波は一発で船をしとめることが出来る。つねに波が来る方向、風上へと船を向けていなければならない。ならば、プロペラや機関へのダメージを最小限にするために、船の動きに合わせプロペラの回転数を操作する必要がある。操舵にも気を抜けない。ボディーブローをいなすため、向かって来る波に対して絶えず二十度から三十度、船首をずらす。
弾ける飛沫、突風、まるで際限のない爆弾攻撃を食らっているようである。だが、そんな中でもおれの操舵にはミスが見えなかった。全く気遅れしていなかったし、波に向かって行くという行為そのものがおれの性分に合っていたのだろう。難しい波を乗り越えるたびに闘争心が湧き、眠っていた野獣が呼び起こされる。だが、そんなおれでも心が折れる時はある。今までにない巨大な波。
ズンズンせり上がってきて、そう、ビル二十階はあろうか。それが鉄壁のように前面に立ちふさがった。
一瞬で、戦う気力はかき消された。逃げたい。いや、逃げよう。恐怖のどん底に落とされた。
ばかが!
そうなのだ。逃げた時点でその波は追い波となり、一挙に襲いかかって来る。キャビンドアを突き破られたように、いや、それどころではない。船はケツから、まるで魚が掛かったウキ棒のようにすっぽりと海に沈められる。たとえ逃げ切ったとしても、これだけの波である。十中八九、ブローチングが引き起こされる。押し寄せる波の力に制御を失い、横向きにさせられたら最後、船はまず間違いなく横転する。
怒号した。そして、速力を最大限にして波に向かった。ビル二十階を駆けあがろうというのだ。船は徐々に舳先を空に向けていく。ほとんど垂直に達したその瞬間、船の足が止まった。
「いけ! いけ! いけ!」
なぜかふっと脳裏に母親の顔が浮かんだ。母とは仲が悪かったわけではない。親父との確執で家を飛び出して以来、ずっと会ってはいなかった。悪いとは思っている。おそらく母も会いたがっているのだろう。そんなことは分かっていた。おれの性格上、飛び出したら帰れない。それでも、もし、帰るとしたなら母の葬儀だと決めていた。その時は母を思いっきり抱きしめる。それで許してくれと請うんだ。
唐突に、船は弾けたように走り始めた。プロペラが海に噛んだのか、ともかく、重力を上回る推進力が得られたのだ。一挙に波丘の峰を越えた。が、それからは急降下である。舳先から、船は海へと突っ込んで行った。おれはステアリングホイールに打ち付けられた。普通ならその衝撃で跳ね飛ばされてしまうものだが、おれは咄嗟にステアリングホイールを抱きかかえた。海に刺さった衝撃の後、横方向にGが掛かったが分かったからだ。
海に固定された舳先を軸として船尾が円を描いていた。一回か、二回か。いや、一回も回っていなかったのかもしれない。いずれにしても、回転力を失った船は力尽きるように横になって、海面を打つ。覆いかぶさってくる波。そして瞬く間に、船は海の中へと飲み込まれていった。
海中でもまだ船は回転していた。数千、数万の泡の中でおれは必死にステアリングホイールにしがみついていた。ロープがぐいぐい腹に食い込んでくる。足は床から引き剥がされていた。おれはまるで風になびく旗のようである。
音が感じられない。嫌というほど風の金切り声を聞いていたためだろうか。精神的ショックで聴覚を失ったのかもしれない。不思議な感じがした。こんな静かな世界がまさか自分の足元に、海面を挟んだ向こうにあったとは。
おれは船に身を預けていた。ロープを外そうなんて思ってもみない。何千、何万もあった泡はなくなっていた。海の中で回転する船と一緒におれは、まるで船に絡んだ海藻のごとくその身を漂わしていた。
結局は勘なのであろう、どういう訳かおれは、船に復元力が働いていると確信していた。そして、思っていた通り、おれの体は海面に向かって行ってる。
船は、海面に出たかと思うと何もなかったかのように正体する。うぉーと声を上げた。まだ終わっていないのだ。ここまできて嵐にやられるわけにはいかない。
* * *
朝食を報せにきた近藤に頼んで、おれは皆に招集をかけた。おそらくはそんなことをしなくても、ダイニングルームには集まって来るのだろう。夜間の殺人、そして、それに脅える長い夜。生き延びたはいいが、誰かが犠牲になった。いったいそれは誰なのか。そんな好奇心も相まって朝食に集まるのはこの館での恒例行事となりつつあった。
やはり、橋本稔《妬み》が来なかった。片辺八人掛けのテーブルに窓側三人、壁側三人が向かい合って暗い顔を突き合わせた。
犯人は変貌しつつある。時間的にみれば今日で四日目。橋本《妬み》が、二、三日我慢すれば警察に救出されると言っていたその日をすでに越えていた。おれたち全員殺すタイムリミットを越えてしまった、と犯人が悔やんでいるのかもしれない。それに橋本《妬み》を殺した方法。午前二時の鈍い音から、刃物が床に食い込んだというのは容易に想像出来る。
普通、大きな音を立てれば、誰かが来るかもしれないと考える。それでも、敢えて音を出したからには犯人の行動規範が変化したと見ていいだろう。それは、犯人の変貌のなにものでもない。
一晩に一人とは限らない、と、おれは中小路雅彦《怠惰》に言った。もしかして犯人は、雇人専用階段の下で、通路を監視しつつ身構えていたのかもしれない。夜間、他の部屋に入れるのは、小西、黒田、おれの三人しかいないのだ。
おれが拘束されている状況下で、それでもなお、田中《姦淫》が狙われなかったところからみても、犯人の次なる狙いは大家敬一《貪欲》だったのだろう。小西と黒田が、橋本《妬み》の部屋に走る。あるいはそのどちらかでもいい。その間に、実業家の間に入り、大家敬一《貪欲》を襲撃する。時間といい、音といい、昨夜の犯人の行動は罠だったのではあるまいか。
だとしたら、おれの縄を解きに来た近藤は、犯人と階段ですれ違っていることになる。だが、ゲームの性格上、近藤は問いただしても何も答えやしない。