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山下賢治はというと、船酔いに弱いはずであったがまだマシであった。八月六日に日付が変わる深夜、メインキャビンを離れた。それからずっとロアーデッキのトイレに籠っていたが、明け方になってアフトデッキに居場所を変えた。降り注ぐ雨の中、ずぶ濡れになって海面を眺めていた。おそらくは、視線を故意に調節し平衡感覚の補正を行っていたのだろう。そして、それはある程度、成果を発揮した。活力はほとんど失われているようだが、会話が普通に出来るまで気力は回復していた。
といっても、口にする話題は天候のことのみで、台風がカスっていくのを信じたいのだろう。あの雲の動きは、とか、あの雲の形は、とか、己のいいように知識を並べ立てた。どう見たって逃れられないのは分かっていたが、それで気持ちが落ち着くならば、とおれは山下のたわ言に付き合ってやったりもした。
にしても、爆弾に台風。不運というか、まぁ、そんなものだろう。おれは己を知っている。望月望のように一代で大きな会社を作れるような商才も、横山のように小説で食っていけるような文才も持ち合わせていない。ただ、体が丈夫なだけだ。天に与えられた己の立ち位置は十分わかっているつもりだ。おれは彼らの引き立て役。
だからといって、素直に引き下がる性分でもない。へそ曲がりなのだ。助からないと言われれば言われるほど反発したくもなる。現に、目の前に広がる空はおれに助かりっこないと言い切っている。おれはというと、だからなんなんだと言いたくもなる。そして、じゃぁやってやろうか、という気にもなる。
飴玉ほどの雨粒。滲むどころか、ガラスの表面を争って駆けていく有様で、時より襲って来る波の飛沫によってそれは洗われた。揺れもひどくなる一方で、体を固定できるのは操舵席のみ。おれと山下はそこに座り、島田は背もたれの後ろにいた。床で食料と一緒に、操舵席の足に括り付けられていた。
山下が言った。
「狩場さん、そろそろエンジンをかけないか」
「いいや、まだだ。嵐はこれからもっとひどくなる」
ナビブ砂漠はその立体感に驚くと言う。巨大な砂丘が群れを成していて、それが風で形を変え、位置も移動するという。砂丘よろしく波丘も変幻自在。だが、変化のスピードは段違いであった。瞬く間にその形、その位置を変えていく。
盛り上がっていく一方で沈んでいく。どこもかしくも飛沫が巻き上がっている。おびただしい白い筋が風に流されて海面を滑走し、風に吹き上げられて中空に舞い上がり、霧散する。
船の方はというと、まるで最新のジェットコースターだった。前方に下がっていったかと思うと背後に引き落とされる。さらには高波。時折ひどく強烈な衝撃が左舷からも右舷からも襲ってくる。テーマパークで悲鳴を上げているのがうらやましい。こっちは命がかかっている。悲鳴どころか声も出ない。おれ達は、それを朝から六時間は味わっている。
その状態で、エンジンは一度もかけていない。燃料がどれぐらいもつか予想がつかないのだ。目盛を読むと赤い線まで二百七、八十リッター位か。稲垣の説明によると、最も燃費のいい速度で百二十リットル・パー・アワーということだから走行は二.三時間程となるが、潮の速さに対抗しないといけない。その一方で、船は内装を捨てている。重量は相当減ったはずで、差引二時間がいいところだろう。それを目安に勝負を掛ける。もっとも危険な時間帯。そこを見極めエンジンを始動する。
船は渦に巻き込まれるように向きを変えていた。島田がうめき声を上げる。縛っていた体の一部に力がかかったのだろう、ここらが限界。おれは島田のロープを解いてやった。そして、事後報告であったが山下に、いいだろ? と声を掛けた。山下はいまさら縛り直す気にもならないのだろう、虚ろな目でうなずくのみで言葉はなかった。
それからさらに六時間ほど経ったか、途切れなく波が船体を叩くようになっていた。潮がガラスで弾けたり、滝のように流れたりで、視界は全くと言っていいほどない。揺れもジェットコースターからエレベーターに変わっていた。横方向にGがかかっていたのが今はほとんど上下に、である。波に押し上げられ、落とされる。
「狩場さんっ! あれっ!」
山下が指差した先に高波が立っていた。これまでとは比較にならない。それが崩れ、大きな水の塊となり覆いかぶさって来たかと思うと船は、波の頂点へ向けてどんどん押し上げられていく。瞬く間に、頂点に達した。そこからずるずると船は滑り落ちていく。
波が追って来た。自走していない船はすぐに追いつかれ、船尾に食らいつかれてしまう。キャビンドアがぶち破られ、メインキャビンに大量の海水が入ってきた。と同時に船尾が下がり、急激に船首が持ち上げられる。入って来た海水は逆流し、一挙に吐き出された。咄嗟に島田を掴む。辛くも、島田は船に留まることが出来た。
息を付いたのも束の間、そこにモーゼの十戒を思わせる光景である。両サイドに大きな波。先ほどケツに食らった衝撃で船の舳先は九十度振られていた。その先が、今まさにぶつかり合おうとする波間だった。正面に暗雲渦巻く空があり、両サイドには壁の様に切立った海面。驚くことに、海水の流れは下から上へと向かっていた。
それが一転、右壁の方が崩れ落ちる。重力に逆らうのも臨界に達したのだろう、壁が倒れてくるように船に覆いかぶさる。
波に右舷側を抑えつけられ船は右に傾き、船底を左に向ける。そこに今度は左の壁である。ほとんど天に向いた左舷に波が崩れて落ちてくる。その威力たるや、船の右舷側半分が海に沈んだ。が、跳ね上がるように船は海から飛び出す。それから右に左に激しく揺さぶられた。中にいるおれ達はカクテルのシェイカーに入れられたようなものである。
右舷から強烈な衝撃に襲われた。カジノで使われるレイクという道具がある。ルーレットでコインをさばくのに使われるのだが、そのレイクに押しやられるコインのように船は海面を横滑りに走らされた。行く手に波があった。斜面は緩やかではあったがその先に見えたのは空。
つまりは切り立った絶壁。船は右舷を押されながら波丘を駆け上がっていく。そして、衝撃。
おれは島田を掴んで離さなかった。
「船を動かす!」
波の頂点から落とされ大きく揺れる船内で、おれは島田を山下の横に座らすとレインコートを着込み、ライフジャケット、そして、ロープを肩に掛けた。右のサイドウィンドウ、左のそれとおれは体をぶつけながらアフトデッキに移動、フライングデッキへの階段に到達するとその手すりに腕を回す。ほとんど抱え込むようにして、一歩、一歩、と階段を上がっていった。
体当たりをかましてくる波。これ以上進ませまいと揺れる船。それでも息絶え絶えに、おれはフライングデッキにたどり着く。
突風に体が持っていかれそうで、操舵席に着くまでほとんどほふく前進である。着けば着いたで、船はロデオマシーンのようにおれを振り落としにかかり、波は波でおれへのKOを狙ってくる。強烈な勢いの水の塊が上からも下からものべつ幕なしに放たれる。ロープを自分の胴体に巻き、端部を座席の二か所に結び付けた。シートベルトは装着しない。立ったままの姿勢で腰を落とした。