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 暗い気持ちになってはいけないと会話が弾むように努めた。糞くだらない話題だと自嘲しつつも、ああでもない、こうでもないと無理に明るく、おれは話をした。山下はというと、どのあたりから聞いていなかったのか、相槌がコックリに変わっていた。目をパチクリしているうちはいい。いい気なものでウトウトしたあげくに寝入ってしまった。


 ムカッとしたが仕方がない。よっぽど重労働がこたえたのだろう。寝顔を見ていると根っからの悪人とは思えない。おかしなところもあるが、話の分からない男でもなさそうだ。人当たりはいいし、喋っていると打ち解けた感じもする。だが、小物だと思う。こんな男にこれだけの仕掛けは出来ようか。こういう男は嘘か、都合のいい事実だけをひっぱり出してきて、その場を誤魔化すっていうのが身の丈に合っている。


 山下を起こさないようにゆっくりと席を立ち、残った缶詰とワインを一本取る。おれは島田の前に座った。肩をゆすって起こすと口元で指一本を立て、シッと言った。島田恵美には、横山と水谷を殺した状況証拠はそろっていた。だが、おれは島田恵美がやったとも思えない。


 まず、女の力で水谷の胸に刃物を突き立てられるかという点である。カッとして、あるいは相当恨んでいたのか。憎しみを込めた刃物に全体重を乗せて、水谷正人を突き刺す。これならば、島田にもやれそうな気がする。それにアルコール依存症だ。正気を失っていたのかもしれない。


 だが、ポイントは衝動的ではないということ。赤いデジタル時計がそれを物語っているし、あのディスプレイのパスワード。どういう言葉が入るのだろう。そう普通は考える。それに水谷の死の状況。なぜ密室を造り上げたのか。


 つまり、真犯人は自己主張しているのだ。俺が犯人だと。そして、犯人が分かれば自動的にパスワードも解ける。おそらくは、そういった仕組みになっているのだろう。こんなことをするやつがアル中の島田とは思えない。


 真犯人は目の前には居ない。隠し部屋があってそこに真犯人が潜んでいる、と仮説を立ててみた。それを確かめるためもあって、昨日も今日も斧を振り回した。もちろん、船の軽量化が第一の責務であることは変わらない。目的は違うが、ちょうどやることが一致したというわけだ。


 生活にかかわる艤装品は船から全て除かれた。だが、結局は隠し部屋なぞどこにも、影も形も全く見当たらなかった。間違いなく、ここにはこの三人しかいない。


 いや、考え過ぎなのかもしれない。島田が犯人で、パスワードは愚にもつかない言葉。カトレアとか、ひまわりとか、島田の好きな花の名前ってこともあり得る。それでも、水谷正人を殺したやり方は島田恵美に似合っていない。


 やはり一連の殺し方、順番も含めて意味がありそうだ。思いつくのは、そう、おれたちを追い詰める。金なんて関係ない、ただそれだけ。犯人はこのおれを含めて五人に恨みを持った人間、とみた。


 あるいは、稲垣陽一。


 いや、よそう。まるで幽霊が真犯人のようだ。それより島田だ。


「あんた、死のうとしてるでしょ」


 ワインを島田の目の前に差し出した。そして、びんの口を島田の唇にそうっとあてがう。島田はワインを、コーラーを飲むみたいにゴクゴクと飲んだ。


「俺たちは生還する。いいな」


「出来ないわ」


「そりゃ、そうだ」 走っても、何もしないってことでも、船は爆発する。「なぁ、島田。ホントはパスワードなんて知らないんだろ」


 島田がにらんだ。


「山下は公金を横領している」


「うそ」


「稲垣が調べたのだから間違いない」


「資料に無かったわ」


「やつはおれだけに教えた」

「どうして?」


「おれはあんたらを守る義務がある。いや、それが本当の仕事なんだ」


「わたしも?」


「当然だ」


「賢治も?」


「なぁ、こういう考えもある。山下も助かる。ところが公金横領が発覚する。良くて執行猶予、最悪、刑務所行きだ。だが、間違いなく山下は、社会的には抹消される。いわんや会社の経営者をや、ってやつだ」


「賢治の味方じゃないの?」

「そう思わしたならごめんな。でもな、おれでも分かる。あんたには、水谷正人の胸に包丁を突き立てることは出来ない、そうだろ?」


 何も答えない。その島田の両肩をおれは握った。「な、生還するんだ」


 島田はこっくりとうなずいた。


「ただし、おれはよっぱらいの女は嫌いだ。一緒に会社をするんなら、今ここでその病気は治してくれ」 おれは笑顔を作った。「考えようによっては、縛られているのもわるくないかもよ、荒療治と思えば」


 島田恵美はうなずき、笑顔を返した。






 絶え間ないうねり、うねり、うねり。うねりの中で両手を縛られた状態で島田は横たわっていた。それが真っ暗闇の中でうめき声をあげて身をよじっている。山下の方は身を守ろうとする芋虫のようである。丸まって、体を小さくまとめていた。


 かわいそうにと、おれは二人を見ていた。状態から察するに船酔いである。山下などはこの何日かで随分の慣れたようだったが、嵐によって引き起こされる船酔いは昨日までのそんなものじゃない。おれの場合、若い内から船に乗っている。波浪の経験もあるし、脳の神経回路はそれ用に組み換えられている。『中枢代償』といい、いくら揺れても酔わない。


 そうではない山下と島田の脳は、自分の体の状況がどのようであるかを全く理解出来ていない。耳からの平衡感覚、目からの周辺情報が全く噛み合っていない。といっても、それが船酔いだと、山下と島田は分かっている。ところが、感覚器官の情報集積地でもある二人の脳中枢はよく分かっていない。 


 ――― コーション、コーション、体がどうにかなっている? 理解不能、理解不能。


 状況が分からなければそれはそれでいい。ところが脳は、耳からの情報と目からの情報の違いを懸命に補正しようとする。うねり、うねり、うねり。どうしようもない。そう、如何せん嵐なのだ。頭の中だけでがんばったってどうにもならない。だが、脳は諦めない。このままではだめだと次なる手を打ってくる。


 ストレスホルモンの分泌。それによって自律神経は異常な興奮に見舞われる。『闘争か逃走』。その指令を細胞の隅々まで行き渡らすべくストレスホルモンを全身に巡らせる。筋肉や神経に活性化をうながす一方で、脳の機能を低下させる。時間空間情報の解析機能をブッ壊し、危険に立ち向かう準備を整えるというわけだ。


 が、しかし、船酔いに逃げ場はないし、当然、打ち砕く相手なんていやしない。そのうえ、短時間での解放もない。これは序章。長々と続く船の揺れは始まったばかりだったし、物語でいえばそれは導入部。起承転結。いや、起承、承、承、転結、あるいは起承転、転、転結。要するに、揺れは幾つもの波の相乗効果で、あるいは互恵関係を形成し、さらに強化されていく。


 縦の揺れ、横の揺れ、船首を左右に振る揺れ、上下動。島田も山下も顔色が土色に変わり、脂汗で顔の表面がテカテカニである。おそらくは、消化器系臓器の収縮運動が止まったのだろう。脳にある嘔吐中枢という部位が、内耳からの刺激を受けて『ムカつき』を発生させる。


 はけ、はけ。


 自律神経中枢も同時に刺激され、胃の出口が詰まり、逆に入口は緩む。腹筋が急に膨張し、胃の内容物が食道に逆流する。島田はいうに及ばず、山下も嘔吐する。


 残存物に胃酸。ところが、それで終わりではない。船の揺れは延々と続く。ストレスホルモンはじゃんじゃか量産され、体中に流れ込んでいく。長時間に及ぶ『闘争か逃走』の指令。


 例えば、その指示が完璧に遂行されたとしよう。指令は解除され、分泌されたストレスホルモンは肝臓で中和される。だが、何度もいうが船酔いに逃げも戦う相手もいない。痙攣、呼吸困難、失禁、脱水症状。脳細胞までも破壊して、理性、人格がブッ飛ぶ。島田の場合、アル中もあったのだろう。みるみる変わり果てていく。島田はまるで檻に閉じ込められた野獣のようであった。


 頬がげっそりこけて頬骨が突き出している。目がくぼみ、目の下には隈が現れ、眼球は充血して瞳以外は真っ赤である一方で、油を垂らしたかのように眼球はギラギラと光っていた。


 島田は突如、奇声や唸り声を発したかと思うと狂ったように暴れ回り、縄も無理に解こうとする。手首から手の平にかけて己の血でベットリであった。







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