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夜が明け、航海六日目の八月五日。船を動かせず、皆藤真を海に投棄した地点にいる。どうも雲行きがあやしい。地平線の向こうで、空が渦巻いているようだった。
雲の動きが半端ではない。東から西に雲が一目散に向かって行っている。
送られてその日のうちに気象図を見たのは、航海三日目の八月二日朝の分までだった。その後もFAXは送られて来たのだが、四日目の八月三日の分は水谷正人の死で全く頭になく、昨日の八月四日分からは通信を止められていて気象図は無い。せめて昨日の四日に、一昨日の八月三日分を見ればよかった。
が、昨日は皆藤真の死体投棄に始まり、横山加奈子の死とパスワード。それで真犯人が島田だったのと水谷、横山の死体を海に投棄することになり、挙句、船の軽量化を余儀なくされた。精神的動揺と慌ただしさに天候のことなんてすっかり忘れていた。不幸にも、最後に送られてきた八月三日の気象図には、ずっと南だったが熱帯低気圧が示されていた。それがだ、二日たってざまぁない。どうやら台風に変わったようだ。
うかつだった。八月三日の気象図を見ればいくら横山が反対したとして帰港しただろう。いや、もしそうだとして、この船は陸を間近にして爆発していたに違いない。
ぞっとした。横山に救われたと言っていい。台風になるのを知っていれば一暴れしてでも船をマリーナに戻していた。運が良いのか悪いのか。しかし、まだチャンスはある。爆発すればそれこそそこで終わってしまったのだ。
いずれにしても、やばいと思った。それは山下賢治も同じだったろう。なにも言葉を交わさなくても緊張感は伝わってくる。おれ達二人は目の色を変えてロアーデッキから物を運び出す。冗談や相手を気遣う言葉なんてなにもない。ただ黙々と家具やベッドを破壊して、残骸を運び出す。船はゆらゆら揺れて足元がおぼつかなかったがそれでも、まだ波はうねり程度。波浪に変わるまでになんとか全ての搬出を終えたい。
望むべきは空にある渦の中心がこっちに向かって来ないことだ。気象ファクシミリ受信装置は働いていない。台風のコースがどうなっているのか、空の状況は皆目見当がつかないのだ。
そのうえ、燃料メーターの目盛。波浪に飲まれないよう船を操作出来る時間は限られている。二時間か、二時間半か。いや、もっと伸ばしたい。それにはもっと船を軽くしなければ。
おれでなくても、そう思うだろう。山下なぞは陸に上がったら億万長者なのだ。作業を進めるその姿に生き残ってやるという気概がひしひしと伝わってくる。切り傷なんて構ってはいられない。山下は血だらけだったし、おれもそう。手当てしている間なんてもったいない。一分一秒惜しんでおれ達二人は働いた。狂ったように斧を振り下ろし、山下はその残骸を外に運ぶ。島田の存在なんてもう見えていない。
なんとか目鼻がついたのは午後三時ごろだった。朝六時からぶっ続け。おれ達二人はメインキャビンにへたり込んだ。波はまだうねり程度である。もう一働きしたいところだったが、腰を下ろしてしまったのが悪かった。もう一ミリたりとも体を動かせられない。それならばと、山下は島田恵美に話掛ける。体は動かなかったが口は動くというわけだ。
「なぁ恵美、一文字ワイン一本でどうだ?」
島田はくすくすと笑った。ほとんど発狂してしまっている。
「なにがそんなに面白い」
「&%$%&‘(%)」 島田は何か言ったが猿ぐつわで聞き取れない。おれは外してやることにした。
口の自由を取り戻した島田が言う。「教える。だから早く飲ませて」
ちらっとおれを見た山下はニヤついた。箱からワインを一本取り出すと島田の前に置いた。「ほれ、約束の一本だ」
「飲まして」
言われた通り山下は島田の口にワインを流し込んだ。無造作に、心遣いもなく、ワインが口から溢れ出すのも一向に構わずに壜を逆さに持ち上げていく。無残にも島田は体中べたべたである。ところが、そんなことよりも島田はこぼれるワインの方が気にかかるようだった。アルコールが切れて相当苦しんでいたに違いない。溢さないように喉を鳴らす。その速度がなんとも速いことか。
といっても、それはか弱い女の喉なのだ。ワインは口からこぼれ出し、ほとんどが床に捨てられた。しかし、山下はそんなことどうでもいい。パスワードを知りたかった。島田はというと、アルコールが血の巡りに乗って全身に回るのを感じているのだろう、それこそ、恍惚としている。
山下は、島田のそれを長くは許さなかった。早く言えと島田を激しく揺さぶった。だが、島田はゲラゲラと笑い出す。山下はカッとした。島田の髪を持って頭を床に叩きつけた。ゴンと音がした。がらんどうのメインキャビンである。妙に音が響き渡った。
暴力はよくないと山下は言ったはずだった。自白を強要したと警察に疑われるのは上手くない、という訳なのだが、島田だけでなく、山下も完全に冷静さを失っている。どう見ても、山下がやったことは押す程度ではなかった。島田は相当な衝撃を頭に受けたに違いない。両手が縛られているのだ。床に伏したまま凄まじい形相で睨み返していた。山下は山下で負けてはいない。言え、と怒号する。
「ぺ」
そう言ったっきり島田は黙りこくった。
「ぺ?」
“ぺ”から始まる四文字。山下はキョトンとしていた。おれはというと、“ぺ”にピンと来た。“ぺ”はペテン師の“ぺ”だ。山下にぴったりではないか。笑えた。なんとも島田は上手いこと言う。
「狩場さん、なにがそんなに面白いんです?」
「いや、聞かない方がいい。それより島田は嘘を教えている。あんたは騙されているんだ」
“ぺ”で始まる言葉なんてそうそうない。が、自分がペテン師だと罵られたことを山下は知るよしもない。床に横たえる島田の口角が心なしか上がっているようにも思える。
山下は島田の胸元を掴んで起こすと、すごんで見せた。「今度、嘘を言ったら海に投げ込むからな」
「よし、お遊びはここまでだ」
この二人を放っておいたらどうなるか分からない。愛憎は表裏一体。コインが返るようにひっくり返り、愛した分だけ憎しみは上乗せされる。
にしてもこの揺れ。さっきより大きくなってきたように思える。仕事を終わらせよう、とおれは山下を急かした。
多分だが、島田はパスワードを知らない。それなのに知っていると言った。様子を見たら分かる。もう生きたいとは思っていないのだ。真犯人じゃないとして、無事帰れたとしよう。元の生活に戻ることに何の意義も感じない。なんせアルコール中毒になってしまう環境なのだ。それに山下の仕打ち。ここで死んだ方がよっぽど幸せだと思っているに違いない。
だが、それに巻き込まれるこっちの方はたまったもんじゃない。一度、島田と二人っきりで話す必要がある。
おれと山下は作業を再開した。パスワードを諦めきれたわけではない。聞き出せればそれに越したことはないのだが、おれの考えでは望み薄である。頭を切り替えて、船の軽量化だけに力を費やす。果たして、どうにかこうにか雨が降って来る前にすべてをやり終えた。
船は揺れが増すばかりだった。島田はというと、幸せそうでうらやましい。久々のアルコールで精神的にも肉体的にも癒されたのだろう、すやすや眠っている。おれはアルコールのつまみにするため缶詰を開け、山下にビールを手渡した。
「飲んで休め」
「ぼくはアルコールに弱いんで」
「そうだったな。でも、うらやましい。そういう人って、ちょっと飲んだだけでも酔えるんだろ?」
「あ、まあ」
山下がアルコールに弱いのを知っていた。二日目の夜、イラブチャーのムニエルを食べていた時、ワインをグラス一杯飲んだぐらいか。それで顔が真っ赤になっていた。
「明日はもっと揺れる。体力も使うだろう。今夜はぐっすりねむらなくては」
いつしか降り出した雨は次第に激しくなり、大粒の雨となって窓ガラスを叩く。おれ達二人はビール缶片手に、三つの開いた缶詰を挟むようにして座っていた。雨音が、がらんどうのメインキャビンに絶え間なく響いていた。そのうえ、殺風景なのがよくない。おれ達はまるで、命を狙われ廃屋に身を隠しているチンピラのようだった。
何もしゃべらず、かといって、食べ物に箸をつけるでもない。まだ日が暮れていないのに空が暗いのも相乗効果を発揮した。精神的にも肉体的のもほとほと疲れ、回復は見込めないまでも最低限、今の状態を維持しようと、おれと山下は食事を始めた。