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呆気にとられた。そして、言ってみるものだなと思った。もし大家《貪欲》か誰かがおれより先に近藤に、縄を解くなよ、と命じていればそうはならなかったに違いない。
縄を解かれると田中《姦淫》の部屋に飛び込んだ。リビングには誰もいない。その足で寝室のドアの前に向かうとドアをドンドン殴りつつ、大丈夫かと連呼した。
「大丈夫」
ドアの内から声が聞こえた。ほっとして、ドアから離れようと一歩二歩と後ずさる。気が抜けたせいか、足腰の力が入っていなかった。そのままフラフラっと後ろに下がってしまう。ちょうどそこにソファーがあった。吸い込まれるようにそのソファーに腰を下ろした。
―――と、すると、死んだのは橋本《妬み》か、中小路《怠惰》。
ドア越しに田中《姦淫》の声がした。「中小路さんを見て来て」
やっぱりそうなるか。「分かった」
部屋を出ると中小路《怠惰》のドアを叩いた。返事が無いのでドアノブに手を掛ける。が、そこで手を止めた。飛び込むわけにはいかない。よくよく考えれば相手は拳銃を持っている。生きていて警戒しているのであれば十中八九、中小路《怠惰》は銃口をドアに向けている。
「狩場君か? どうして?」
中小路《怠惰》の声だ。ほっとする反面、いらっとした。反応が遅い! 「近藤に外してもらいました」
ドアの内から笑い声が聞こえた。
「なるほど、そういうことか。入りたまえ」
ゆっくりとドアが開いた。中小路《怠惰》はドアの前に立っていなかった。おそらくは、味方と思っていても警戒心は解いていないのだろう。床を打った音が誰によるものかは依然としてはっきりとしていないのだ。
ただ、床の音がした後、おれが騒いでいたのは聞いていたはずだ。大家敬一《貪欲》の名を叫び、次に近藤を呼んだ。ここに来た用向きも中小路《怠惰》には大体想像出来ただろう。だが、手放しでは信用していないはず。それがゲームをプレーするってことであったし、いい大人のたしなみでもある。
思っていた通り、中小路《怠惰》はリビングの真ん中ほどで拳銃を構えていた。おれは手を挙げて、照準が外されるのを待った。だが、なかなかやはり用心深い。銃口を外す気はないようだ。色白で整った顔もこのような状況では冷たく目に映ってしまう。その中小路《怠惰》が言った。
「田中君には大丈夫だと伝えてくれ。それと狩場君、彼女を頼んだよ」
そうなのだ。おれは二人一緒に守ることは出来ない。もしそうするなら、どこか守るにふさわしい共有区画を見つけなければならない。この洋館の、どこか閉ざされた空間。因みにリビングルームは大磯孝則が殺されている。
ぱっとは、思い浮かばなかった。どこもだだっ広くて天井が高い。しかたがなかった。いつもの通りにするしかない。
「田中の部屋とここは向いだ。通路で見張っている」
「僕はいいよ。入ってきたらこれを撃ち込んでやるから。それが一番手っ取り早いだろ」
「危険ですよ。一晩に殺しが一つとは限らない」
「承知さ。いずれにしても殺されたのは橋本だろ? あいつは銃弾を二つも持っている。銃声も聞こえなかったところから言って銃弾は犯人の総取りだよ。だが、僕は一発あれば十分。やつは何人も殺さないといけないが、僕は都合がいいことに犯人一人だけでいい」
その自信はどこから来るのか。弾を当てられなかったら終わり、スペアはない。
「人の話によるとなかなか当たらないものらしい。銃は撃ったことがあるんですか?」
「あるよ。こう見えても大体のことはなんでもこなす。下手なものはない」
稲垣陽一を気に掛るだけあって、この男も何でも出来るタイプ。
「そうですか。分かりました。おれは田中のところへ戻ります。くれぐれもご用心を」
快楽趣向家の間に戻ると中小路《怠惰》の安全を田中《姦淫》に伝え、おれはリビングのソファーを通路へのドアに押しつけた。そして、そこに腰を落とすと大きく息を吐いた。
時間は午前三時であった。
* * *
パスワードが分からない今、やるべきは燃料をいかに有効に使うかということだ。誰も助けに来ないし、いざとなったら船が動かせないなんて洒落にもならない。
もちろん思い付く限りパスワードを入れ続けるって方法もある。カウントは五日間もあるのだから。が、それは現実的ではない。労力と得られるものが見合っていないし、パスワードが何度も入れられるとは限らない。一回失敗して、ボンッ、かもしれない。
島田恵美が口を割るまでやるべきはただ一つ。船を軽くする。おれは山下賢治と話し合って段取りを決めるとアフトデッキの手すりに縛り付けた島田のロープを解いた。顔色は青く、目は虚ろでぐったりとしていた。大量の発汗や痙攣まではいっていなかったが、ずっと日差しに当たり熱中症の恐れがあった。今、倒れられたら一巻の終わりだ。横山加奈子と水谷正人の死体は潮に流されたのだろう、確認したがもう海には無かった。
アフトデッキの簡易シャワーを頭の上から島田にぶっかけ、それと同時に猿ぐつわを取り、塩を混ぜたペットボトルを無理やり口に押し込んだ。島田はむせていたが、そのあとは素直に水を飲んでくれた。
目の色に精気が蘇ってきたようだった。安心し、今度はメインキャビンの日陰に固縛し、おれはアフトデッキの床下収納から斧を取り出した。その間、山下は缶詰やワインなどを食糧庫から探してきた木箱に詰めていた。あまりはかどっていないようでまだ床はがちゃがちゃに散らかっていた。
おれは一旦、斧を置いて山下に手を貸した。箱は三つ。ロアーデッキの食糧庫の分は明日に持ち越すとしてある程度片付いたら自分の仕事に戻る。
時限爆弾だけでなく、燃料メーターが半分のところを指しても船は爆発する。燃料を節約する以上、無駄な電気は使えない。負担が掛かる船の重量もそうだ。
まず、メインキャビンの冷蔵庫など家電から海に投棄した。それから棚や家具に移った。斧でぶったたき次々と破壊していく。この船は稲垣の夢が詰まっていた。それが見る影もない。日暮れともなるとメインキャビンはがらんどうとなっていた。
辺りは真っ暗になり、飯にしようということになって、ロアーデッキの貯蔵庫をおれと山下は覗いてみた。冷気は失せていたが、まだいけそうなのもある。明日になればこの中も整理しなくてはならない。果物類と野菜類は二三日持ちそうな気がするが、肉類はだめだろう。ハムなんかはどうであろうか。手にとって考える。ソーセージは無理だろうな。しかし、今ならよさそうな気もする。匂いを嗅いで山下に差し出す。山下も匂いを嗅ぐ。二人で大丈夫だな、となって、今日はそういうのから食べようと山下から提案される。
ビールは生ぬるくなっていた。まずい。だが、贅沢は言っていられない。山下と床で向かい合ってハムやソーセージをかじる。黙々と食って満足したところで、おれは島田に食事をさせる。手を縛っているから食べ物を口に入れてやらなくてはならない。横山と水谷の死体投棄の一件から、優しく接するのはおれの役目と決められたようだ。山下はまるっきり無関心だった。島田がくちゃくちゃ噛んだのをいい感じのところで、ペットボトルを口に持って行ってやる。
ちょぼちょぼと飲んでいた。積極性が感じられない。アルコールが完全に切れたのだろう、禁断症状に陥っていて、食欲が湧かないのだ。
その夜、なにも喋らず、おれ達三人は寝た。といっても、目を瞑っているだけなのだろう。誰からも寝息が聞こえないし、おのおの床に丸まってそこから動こうとはしない。寝返りさえしないのだ。
おれは島田が自分が犯人だと認めた時のことを考えていた。今でも脳裏に、その悲しい目の島田恵美がくっきりと浮かぶ。あれは全てを諦めた目。山下賢治は少なくとも、稲垣陽一から島田を奪ったのなら最後まで守り通さなくてはいけない、たとえ殺人犯であっても。多分島田はそう考えていたのであろう。山下賢治なんか愛さなければよかったと。
悲しいかな山下は山下で、人の心が分かっているようで全く理解していない、と思えた。学生だった島田はそれを見抜けなかった。あるいは、別れた後どこかで山下は壊れてしまったのか。もしかして、稲垣陽一と再会した時、何かあったのかもしれない。
山下は、島田が自分のことをどう思っているかを気にしていないようだった。ただ単にパスワードが知りたいだけだったし、実際やつはそう言った。ところがやっていることは違う。結局、島田をいたぶっているだけなのだ。あるいは、島田を裏切り者だと思っている。自分と付き合って後悔しているのが許せないのだ。