08
「わたしを見捨てない? お前を?」
橋本稔の賛同を受けたはずの中井博信が顔をしかめていた。不快感がありありを見える。
中井博信のすぐ後ろに、男がいた。リビングルームを初めて見た時も、窓から爆発を見ていた時も、その男は中井の傍にいた。苦労が絶えないのだろうか、五十前後のようだが、頭はすっかり禿げ上がっている。それが中井に耳打ちする。すると中井は、そうか、と小さく答え、笑顔を見せた。
「日本原子力開発機構理事長の橋本さんじゃぁないですか。おい、執事。お前らは大胆にも国家の要人を二人も拉致したのだ。ただで済むと思うなよ」
「中井さん、そうカッカなさらずに。ここは私に任せて下さい」 そう言うとその橋本稔が続けた。「わたしの提案はこうです。西田のことは不問とします。見るとあなたたちはただ者でない。西田の死なぞ、簡単に闇に葬り去るのでしょう。しかし問題は我々が黙っているかどうかです。で、どうでしょう。我々は西田の死を知らない。その代りあなたがたは我々を解放する。いい条件だと思いませんか?」
驚いた。橋本稔は、死んだ西田和義を人身御供にしようというのだ。おれが橋本稔に物申そうとしたそこで、中井博信が言葉を荒げた。
「こんな屈辱を与えられて黙っていろと言うのか! 俺はこいつら全員を縛り首にしなければおさまらん」
言いたいことは少し違ったが、まぁいい。執事はどう出るのか。あれだけのことをいとも簡単にやってのけた組織なのである。逆上して中井が殺されるか、あるいは誰かがその償いを受けさせられるか。その場が凍り付いた。
ところがだ。当の執事はどこ吹く風である。今までと変わらない。怒りとか屈辱とかは何にもない。感情はコントロールされているのだろう、そういった微笑なのである。それがなんとも不気味な事か。
考えさせられるものがあった。先ほどの、一人だけ帰す、その従者も同様、の発言。こいつらは一体何がしたいのだろうか。
あくまでもここにいる者同士、殺し合わせる。執事の微笑の意味は、怒りを隠すためではなく素直に嘲りで、もしかして、心底楽しんでいるのかもしれない。
沈黙が続いた。誰もが重い空気に押し潰されそうだった。
「さきほど、質問はないかとお尋ねになりましたね」 中井の傍らの若禿が言った。彼は人懐っこいというか、目が大きくキューピーのようで愛嬌がある。そのキャラクターがその場の重苦しい空気を取り除いた。
「率直に言わせて頂くが、あなたたちの目的はなんですか?」
そうだ、それが訊きたかったんだ。
執事が言った。
「中井様の第一秘書、大磯孝則様でございますね。いいでしょう。申し上げます。我々はマスターのお申し付けで動いております。マスターがこうしろといえば行い、これはダメだと言えば絶対に行いません。ただそれだけにございます」
場が騒然となった。つまり交渉するにしてもそのマスターと直に話さなくてはならないということ。
中井博信が言った。「ここに連れてこい! 俺がそいつをくびり殺してやる!」
またその場が凍り付いた。何度やらかしたら気が済むんだ。こいつを喋らせてはろくなことにならない、と誰もが思ったし、長年仕えたその秘書の大磯孝則も骨身にしみているのだろう。慌てて言った。
「ここはお任せを」
「お前に任せてどうにかなったためしがあるか?」 一喝である。
「それはそうですね」大磯は大磯であっさり引き下がる。地肌の頭を指一本でかりかりとかいた。
ヤクザ風の男がかばん持ちを引き連れ、執事の前に立った。
「一つ質問がある」 いたって冷静である。「生き残った者の従者も助かると言ったな」
「はい。間違いございません」
「よし。では言うが、ここにアタッシュケースをはめられた馬鹿が俺を含めて七人いる。ってことは死んだ西田っていう男を入れて五人は従者だってことだ。で、俺は問たい。その従者っていうのを今ここで雇っていいか」
「株式会社大家の大家敬一様ですね。つまり貴方様は他人様の従者を雇って、ご自分の従者を増やすつもりなのですね。賢明な判断だと存じます。もしそうできればこのゲームを有利に運ばせることが出来るでしょう」
「その言葉、了承されたと取るが、どうだ?」
「はい。問題御座いません」
リビングルームがざわついた。従者持ちでなくとも黙ってられない。
大家敬一が言った。
「そうとなればもう一つ、訊かねばなるまい。いつでも、どのタイミングでも、従者は雇えるのか?」
「はい。ただし、事前に私どもに申告して頂けないといけません」
マスターと話せない以上、ゲームに突入せざるを得ない。積極的に進めるにしろ、消極的に対応するにしろ、味方の数は多い方がいい。なるほど、大家敬一は見かけによらず堅実な考え方の持ち主だ。
だが、難点もある。執事が言う従者が長年の主人を裏切って、それもやくざ風の、いかにもいかがわしい大家敬一になびくかどうかだ。アタッシュケースを持たない男らの様子をうかがった。中井博信の秘書大磯孝則は主人の中井に睨み付けられて脅えているようだった。よっぽど中井博信が怖いらしい。
ストライプのスーツの従者は手を前で組んで、大家敬一に注意を向けている。ぼーっとしているストライプとは対照的でこの男は、大家が話している最中も食い入るようであった。そして、大家に仕える男は、―――ほとんど大家と年齢は変わらないだろう、風貌も主人と変わらずヤクザ風で、妙な動きをしないかどうかと全員に向けて睨みを利かせている。
「ということで、おつきの方々。私の部下にならないか」 そう言うと大家敬一は続けた。「条件は、私の会社に重役のポストを用意する。欲しい金額を提示してほしい。私はそれに必ず答えよう。どうかね、私のところに来ないかね」