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仕方がないのだ。井田《怒り》がどうなろうと、このダイニングルームに集った面々は井田《怒り》自体に興味は示さないだろう。問題は、安否の結果が自分たちに何を指し示すか。そして、それ如何では対応も大きく変わっていくということだ。
七つの大罪の五人と、従者と称されるおれ達三人はダイニングルームを後にした。ぞろぞろとロビーの階段を昇って、右手に見える渡廊のドア番、黒覆面を尻目に居住区画に入る。井田《怒り》の部屋、教育者の間は右手に折れて奥、雇人専用階段に向かって左手だった。
その部屋の向かいは沼田光《貪食》が殺された現場、宗教家の間があり、すでに遺体は片付けられているのだろうが、殺された状態の不気味さからか、誰もそのドアへは近づこうとしない。必然、井田《怒り》側の壁に皆が寄ってくる。
固まっているおれ達八人に重い空気が圧し掛かる。大家《貪欲》でなくても、どうも嫌な予感がしてしまう。それもそのはず、誰もが耳を澄ましていた。部屋の中からは井田《怒り》の声どころか、物音一つ聞こえてこない。
部屋に入らないことには始まらないことは誰しも分かっていた。それでも、誰がノブに手を掛けるか、を皆は視線でけん制し合った。この中では、おれと小西が沼田《貪食》の遺体を目の当たりにしていた。見た者は呪われる、と思わせるほどの呪術的な死体。床にべっちょり血が広がり、首が無く、七つの悪魔像に見守られていた。
あの時、井田《怒り》もいたのだが、彼は言うに及ばずおれと小西も吐いた。探偵小説のように、平然と部屋に入って、誰がこんなことをやったんだ、なんて馬鹿で鈍感で、だが、知性的なまねはおれ達三人には出来なかった。
他の者達も、小西からの話で、沼田《貪食》の殺人現場はイメージ出来ていたろう。悪魔の儀式を思わせるその有様が頭の中にありありと見えていたはず。それがドアを開けたらそれが目の前で現実となる。
完全にイメージが重なってしまっているのだ。怖気つくのも仕方がない。誰も教育者の間のノブに手を掛けなかった。だが、誰かがやらなくてはならないのだ。おれはドアの正面に立ち、ノブを握った。
固唾を呑んだ。
だいたい井田《怒り》が悪いのだ。話合いの最中、テーブルの下で銃を構えるか? 普通。
井田《怒り》が、いかに甘えて生きてきたかがうかがい知れる。見たところ三十五、六か。ガキとしか言いようがない。と言うより、ガキばかりを相手にしていて、精神年齢がガキのところで止まってしまった。
銃を調達出来ないほどの貧乏で、やけっぱちの銀行強盗をドラマで見たことがある。脅しには使えるかもしれないが、井田《怒り》の場合、シャレにならない。テーブルの下から黒田を狙っていたんだ。信じられない。そして言いたい。ロケットランチャーでの爆死や銃殺刑を目の当たりにしたではないか。その事実から一目瞭然。自分たちが手渡されたものはモデルガンでもなんでもない。銃弾は一発でもちゃんと当たれば誰かを殺せる。いくら精神年齢が低いからって、そんなことも分からないはずはなかろうに。
井田《怒り》は、カッケー、これまじ本物か、撃ってみてぇ、とでも思っていたんじゃなかろうか。やつは撃つ気まんまんだった。いや、『怒り』に我を忘れていたんだ。
おれはノブをゆっくりと捩じって、押した。ドアはおれから離れて行った。井田《怒り》の姿は正面、リビングの真ん中にあるはずだった。ブラインドだったドアが視界から消え、やがて井田《怒り》の状態を明らかにする。
果たして、井田《怒り》の姿は無かった。縄は解かれ、椅子にだらりと垂れ下がっている。殺され、バラバラにされて窓から捨てられたのか、あるいは、逃げたのか。
おれの後ろから、七人がどっと部屋に押し入った。小西が部屋を手早く確認して行く。点検項目は小西の頭の中で出来上がっていたのだろう。バスタオルの匂い。ノコギリの有無。窓の鉄格子の状況。因みに拳銃はすでに井田《怒り》から取り上げられ、橋本《妬み》が身に着けているか、あるいは自室の、科学者の間のどこかに隠してあるか。
あれほど吹雪いていた雪はすでに止んでいた。小西はどうやら窓の下を覗きたいようだった。唯一、鉄格子に頭を通せる井田《怒り》はもういない。手鏡を取り出した。近藤に命じて用意させていたものなのだろう。それで窓の下を確認する。おれは言った。
「井田さんは、死んだとは限らない」
もし井田《怒り》が失踪していたら、つまり生きていたなら、それはおれにとって都合がよかった。そうでなく、死んでいたら、大家《貪欲》らによって、田中《姦淫》がマスターに仕立て上げられてしまうのは目に見えている。
昨日の夕食に来なかったのはおれと田中《姦淫》だけなのだ。それに橋本稔《妬み》の推理。マスターは従者でなく、七つの大罪と烙印を押された者のうち誰か。と、なれば最悪、田中《姦淫》は殺されてしまう。何としてもそれは避けなければならない。おれにとって真実なぞもうどうでもよかった。
「ううむ」 おれの言葉を受けてか、唸った小西は鉄格子から手鏡を抜く。「死体が見当たらない。足跡や血は雪に消されたか。あるいは失踪か。して、ノコギリが壁に掛かっているのをどう見るか」
死神が持っているような大きな鎌が壁に掛けられている下に、ノコギリはある。中井《高慢》の遺体がバラバラにされ、窓から捨てられたと仮定して、井田《怒り》も同じ目にあったとは言えまいか。とすれば、ノコギリは沼田《貪食》の首を切った物で、中井《高慢》の遺体をバラバラにした物。それを犯人が後生大事に持ち歩いている。小西でなくとも、誰もがそう思ったろう。
「バスタオルは微かに匂った」 小西が言った。「中井さんや沼田さんの部屋で嗅いだ匂いと同じだ」
犯人は全裸になり、血を排水溝に流しつつ、遺体を風呂場で解体したのだろう。だが、おれは言い逃れをしなくてはならない。死んでいることが事実だったとしても、井田《怒り》が死んでいては困るのだ。
「中井さんの殺され方に似せた。そうすれば井田は自分が死んだように見せかけることが出来る。井田は生きている。おれ達をけむに巻こうとしているんだ」 ハッタリである。
大家《貪欲》が怪訝な顔を見せた。
「つまり、井田が真犯人? あんたが真犯人でもなく、田中がマスターでもないと?」
ハッタリだったが、カモフラージュは考えるに足りる推理であると大家《貪欲》らは思ったようだ。以降押し黙っている。田中《姦淫》はというと、己に降りかかろうとする不幸に脅えているのか、柄にもなく中小路《怠惰》の胸にうずくまって震えている。
「もし、そうだとしてだな、」 橋本《妬み》が言った。「井田はどうやって縄を解いたんだ?」
「縛る前に身体検査をしたのか? もし足のすねにナイフ、そうだな、食事に使うナイフだ、それをしこんでいたなら。井田は上体だけを縛られていた」
前腕は肘掛に縛らていたし、肩と腹は背もたれに固定されていた。だが、足は完全にフリーだった。ナイフはガムテープですねにつけとけば落ちることはないし、縄を切ろうとしたなら足を上げて手にナイフを握らせばいい。
大家《貪欲》が言った。
「近藤に調べさせよう。無くなったナイフがないか」
おれはすばやく対応した。「井田さんがマスターとして、従者はだれだ? 近藤ってこともあり得る」
咄嗟に出できた言葉にしては上出来だった。我ながら驚いた。次から次によく出てくる。
「なるほど、さすが探偵ですな」 橋本が言った。「しかし、実際、近藤が中井さんや沼田さんを殺したとなると問題がありませんか? 第一、大磯さんが見張る中井さんの部屋にどうやって入ったか。第二に近藤は食事の間はずっと誰かといた。例えば昨日の夕食はわたし達といたし、離れたとしてもあなたのところだ。あなたはそこに居たはず」