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無気力な島田が狂ったように、やめて、やめてと山下に懇願した。ならばパスワードだと山下は島田に迫る。しかし、島田は言わない。ただ泣きじゃくって山下に懇願するばかりなのだ。
しょうがなく山下とおれはトランサムステップに二人の遺体を並べた。アフトデッキから島田に見下ろされる格好になっている。山下は、まずは水谷正人を海に流した。海面にふわふわ浮いてなかなか沈まず、船の縁から離れない。
気分が悪くなってきた。あまりにむご過ぎるのだ。
おれの方のが、どうにもこうにもアルコールが欲しくなってきた。となればアルコールに依存している島田恵美である。精神肉体のダメージは計り知れない。狂ってしまうだろう。
「パスワードを教えろ」
そう言って山下は島田を睨んだ。泣きやんだ島田は憎しみのこもった目を山下に返した。山下が言った。
「いいか。誤解するな。これは僕の意思ではない。君が僕にやらせているんだ」
山下は容赦がない。横山加奈子の死体を海に向けて転がした。水谷の目線は空を向いているが、転がって海に落ちた横山のは海中を見ている。胸が痛んだ。せめて横山のも空を見せてやってもいいじゃないか。山下は、島田にやらせられているとは言っているが、違う。最大限、島田に苦しみを与えてやろうとしているのだ。これは間違いなく、山下賢治の意思。
山下はアフトデッキに上がった。そして、島田をアフトデッキの手すりに縛り付けた。
「二人は流れていかないようだ。ここで見ていろ。パスワードを教えたくなったら足をバタバタしろ。床を叩く音ですぐ来てやる」
そう言って島田にまた、猿ぐつわを噛ました。そして、メインキャビンに入っていった。おれとしては気持ち悪くて堪らない。海への流し方もそうだが、いまだ横山だけが下を向いているのだ。幸いにも死体は手の届くところにある。我慢ならずにおれは引き寄せ、上向きに変えてやった。水谷も横山も並んで空を向いている。波に揺られている彼らを見ているとおれは、今度は別の衝動にかられた。
並んでいる今はまだいい。各々別のところに流されて行って、重たくなった方から順次沈んでいく。おれはアフトデッキに上がるとロープを三十センチほど切り、それを持ってトランサムステップに戻った。まだ二人の死体は潮の加減か、船の縁にへばり付いている。目一杯手を伸ばし、二人の手を取る。そして、互いに手を握らせ、その二人の手首をロープで固く結んでやった。
これで胸のつかえは取れた。見上げると島田が泣いている。
「パスワードを教えてくれたらすぐにでも引き上げてやる。爆弾を解除できれば燃料がフルに使える。走行でも電気を貯められるし、発電機も回せる。二人が沈まない内にな。分かっているだろ?」
おれはトランサムステップをあとにした。
メインキャビンで山下が待ち受けていた。
「ずるいな。抜け駆けですか?」
答えなかったし、答える必要もないと思った。
「でも、あなたならそうすると思ってましたよ。実際、狩場さんはやさしいんだもん」
もう喋る気すらならない。
「誤解しないでください。ぼくらの目的は恵美をいじめることじゃないんです。パスワードを知ること。ぼくが恵美に辛く当って、あなたがやさしくする。恵美はどちらかにパスワードを教えます」
唖然とした。完全に心が病んでいる。こいつはもともとこんなやつだったのか?
平然と山下が言った。
「ぼくたち、いいコンビになりそうですね」
* * *
通路での夜明かしは、思いのほか快適だった。何より窓がないのがいい。快楽趣向家の間だったら、監視カメラのせいで照明は消されることが無く、その窓明かりが舞う雪をイルミネイトする。窓から見えるそれはもうすぐ来るクリスマスにうってつけの幻想的な風景であったが、やはり海底に降り注ぐマリンスノーを連想してしまう。
マリンスノー。それは夜な夜な夢に出る風景で、おれにとっては悪夢のなにものでもなく、深く考えてはいけないのだと分かってはいた。夢を見て、夢を思い出しては考え、それによってまた夢を見て、思い出しては考える。悪循環とはこういうことを言うのだろう。完治なぞ、おぼつかない。
時間を確認するために快楽趣向家の間から、振り子式の壁掛け時計を持ってきていた。その時間を刻む音をBGMにし、中井代議士の第一秘書大磯孝則が残していった小説を読む。執事の近藤は二十四時間営業だった。呼ぶと何時でも現れ、注文すればなんだって持ってきた。といっても、アルコール類は頼まなかった。コーヒーやら、チョコレートやら、敵でありながら重宝した。
薫り高いコーヒーのせいか、神経が過敏になっていることを自覚する。川崎の事務所では、コーヒーの香りに気を止めることはなかった。普段はぼーっとしているのだろう。セレブの家に行くと飼い犬がソファーの上で寝転がって腹を見せている。川崎ではきっと自分もそういう状態だった。ならば今の自分を例えると玄関前に繋がれた番犬。
風鳴り以外、水を打つほど静かであったし、自分以外誰の気配も感じられなかった。これを平和だと受け取っていいものだろうか。いや、油断ならない。胃の腑は落ち着いていても、館にピンと張りつめた静けさが、神経をむやみやたらに刺激する。
没頭できない読書も飽きれば、この洋館で起こった殺人のことを考えた。相変わらず五月蠅い四匹の謎が頭の中を駆け巡っていて、追っかけまわしても追っかけまわしても、一向に捕まえられる気配はない。
稲垣だったら疾うに正解にたどり着いていただろうな、となぜか、そんなことを思ってしまう。今頃やつは蛾の姿でどこぞの空で羽ばたいているのだろう。もしかして、この洋館の上空を飛んでいるのかもしれない。
吹雪なんて目じゃない。台風の中でも飛んでいたんだ。沖縄沖に木の葉のように揺れる自分のクルーザーに向けて、大きな団扇のような羽をはばたかせ、風にも流されず、豪雨にも打ち落とされず、覆いかぶさって来る波を突っ切って真っ直ぐ進んできたではないか。そして、クルーザーのフライングデッキで孤軍奮闘するおれの後ろに舞い降りて、おれの肩に触れたではないか。
やつは不吉を運んでくる。
いや、それは夢だ。沖縄沖への航海を経て、瀕死の状態で病院に担ぎ込まれた後に見た夢。だが、思う。やつが引いたレールをおれはいまだに走っているんじゃないか。
「お前もいつかは稲垣みたいに自分を殺してしまうぜ」
それは望月望がおれに言った言葉だ。
いや、よそう。『仮面山荘殺人事件』の続きを開いた。稲垣のことを考えるのはよくない。うまいことに、稲垣を忘れられる小説が手元にある。結末は分かっているがいい小説は、ここにもヒントがあったんだ、みたいな伏線を確認していくだけで面白い。
それにしても中井博信《高慢》という男はどういう神経をしているのだろうか。手錠につながれた爆弾を片手にこの洋館にわざわざ東野圭吾を持ってきたのだ。いや、それを考えれば実用本もないか。生きるか死ぬかの時に、仕事が出来る男はモテる、てな本を持ってくる方がどうかしている。
ふと、雇人専用の階段を近藤が上がって来ていた。宗教家の間と政治家の間を除き各部屋で、食事の時間を報せていた。当然、椅子に縛られている井田《怒り》の部屋のドアも開ける。そしてその最後に、近藤はおれの前に立った。
「朝食の準備が整いました」
「ああ、田中には伝えておく」 それはそうと、「井田さんの様子は?」
近藤が笑みをこぼした。「お答えできません」