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階段を昇った。またビールを四本持ってスタッフキャビンに戻ってくる。ぐいっとビールを喉に通す。ほっと一息ついた油断からか、また、真っ暗の中での航行を思い出してしまった。あれは一体何だったのか。幻? 稲垣の幽霊? 船の舳先でばさばさ飛ぶ稲垣。それが、ふと、夜中腹筋をする稲垣と重なってしまった。
街灯に群がる蛾を思い起す。ぶつかってもぶつかっても光源目掛けて飛んでいく。
「ちきしょう」 押し殺した声とベッドを叩く拳。
そういえば山下賢治は夢にうなされていた。やつの夢に出てくる稲垣はどんなだったか。まだ聞いていない。
事件には関係ない。だが、昼間の横山の話から稲垣を思うと、山下の夢に出て来る稲垣がどんな姿をしていたか、どうしても知りたい気持ちがおれの中で湧き上がって来る。
午前六時前、メインキャビンに上がった。朝日が地平線から抜け出ようとしている。この船に向かって黄金の道が海面をこっちに向けて一直線に伸びて来ていた。
太陽の光に、心が洗われたがような気がした。胸がもやもやするような、それでいてイライラする気持ち。この、虫が体の中に這い擦るような感覚を陽光が駆除してくれたんだと思った。
だが、そもそも、こんな蹴った糞悪い想いをする必要がおれのどこにあるというのか。稲垣が望んだようにしてやれたのだ。裏切り者の性悪男。皆藤真。それを稲垣が殺し、おれは葬った。喜ばしい夜だったじゃないか。朝日が空に昇っていくのを眺めつつおれは、そう自分に言い聞かせた。
そうさ、悪い夜ではなかった。ただ、イレギュラーがあった。今思うと、四人が各々別れてカップルを造るって言うのは稲垣陽一の計算ではあった。船はそういう部屋割りになっているし、資料なんか配布して二対二に別れるよう仕向けたのもそう。全てが、山下ら四人が間違ってもロアーデッキからメインキャビンに上がってこないようにするため。皆藤真の死体を気付かれずに海に捨てるためだったんだ。
水谷正人は不幸であった。誰かが金に目がくらみ、仲間を裏切るとは流石の稲垣陽一でも、まさか想像出来なかったのだろう。普通に考えれば二対二である。お互い手出しが出来なくなるし、誰一人、他の三人を出し抜くことなんて不可能なんだ。
「随分と飲んだじゃないか」
振り向くとキッチンに山下賢治がいる。シンクに握りつぶされ、捨てられたビール缶。太陽が昇る風景に見惚れているという体裁のおれに、山下はシンクを覗いたまま話しかけていた。
「そういうおまえも眠れなかっただろうに」
「まぁ、あれだ。例のやつな」
訊かずにいられなかった。「で、夢では稲垣はどんななんだ?」
山下は一瞬眉を潜めて、それから言った。「聞きたいのか?」
「ああ」
「言っちゃぁおかしいが、それが笑ってるんだ、あいつ。心底嬉しそうなんだ」
おかしい。おれが見たのは蛾になった稲垣。「あの写真のように、か?」
「そう! よく分かったな。なんでだ?」
「やつの笑った顔で心底笑っているのは、おれの知ってる中で後にも先にもあの写真しかない」
「なるほどね。夢でも花火が上がっているからそうなのかもな。で、なんでそんなこと訊くわけ? まさか昨夜、稲垣の幽霊みたとか」
「いいや」
山下はニヤついた。「そういや、ぼくは狩場さんから訊いてなかったな、幽霊の詳しい説明、姿とか、どんな感じだったとか」
「その前にあんたの話だ。あんたは稲垣が恨んでいたんじゃないかとおれに問うた。それが笑っているなんておかしいじゃないか。が、百歩譲って、笑っていたんならそれはそれでいい」 おれの前に現れた稲垣も笑顔だった。「ホントはどんな姿をしていた。言えよ」
横山加奈子が階段から現れた。タオルケットをポンチョのように肩から掛けていた。「賢治、狩場さんの話、わたしから説明しようか」
そうだ。おれは幽霊なんていないと言った。今となっては隠す必要もない。おれは口を挟まず、横山の言うがままに任せた。
「ああ、頼む」 山下は冷蔵庫からリンゴを取り出した。
まるで山下が居ないかのように、自然にキッチンに入って来て横山が湯を沸かす。
「狩場さんはこうなるのを予測してたの」
「なるほど。つるんでいたわけか、お二人は。それで縄を解いたってことか。で、幽霊の説明は?」
山下はリンゴを齧った。
「隣の船主が幽霊を見たって言ったでしょ。狩場さんはそれを生きた人だと思ったの」
「それでスピアガンを手放さなかったわけか」
「そう。あなたしかそんなこと出来る人物はいなかったでしょ、沖縄にいたわけだし」
「あんまりだな。が、それはぼくじゃない」
「じゃぁ本当に幽霊がいたってあなたは言うわけ?」
「どうだか。狩場さんに聞いてみな。どうやら狩場さん、その幽霊を見たみたいだぜ」
横山の強い視線が投げられた。まさか蛾の姿をした稲垣が飛んでいたとは言えない。かといって、見ていないと言えば嫌味な山下のことだ、面白がって事あるごとに突っ込んで来るだろう。おれもいつかは自棄になってキレてしまい、その逆上する様子からおれは、重大な事実を隠していると誤解され、最悪、横山からも目の敵にされてしまう。この話はこれで終わりにしたい。
「船の舳先に蛾が跳んでいた。それだけだ」
「ライトに照らされて来たの? こんな海の真ん中で?」
「そうさ。それも走る船と同じ速度で飛んでいた」
横山は笑った。「それは面白い話ね。ヨーロッパの迷信では、蛾は死者の魂の化身だとなっている。死んだ人の口から生まれたり、それこそ幽霊の周りをひらひらと飛び回ったりするともね」
迷信にある? じゃぁ、あれは幻ではなかったということか。横山が続けた。「でもね、正人は生きた人に殺された。分かってるわね、お二人さん。本当に蛾が船と一緒に飛んでいたのならむしろそれは正人。犯人を突き止めなければ正人は浮かばれないわ」
言葉自体は丁寧に発せられた。だが、西洋の迷信を話した時よりもそれは格段に低いトーンだった。さっきの笑いにしても、馬鹿にされているんだ、私、という己を皮肉った笑いのようだった。無理もない。幽霊なんていないと言ったのはこのおれなんだ。
それなのになんてざまなんだ、おれは。幻に惑わされて、狼狽えている。気をしっかり保たなければ。
「それについては考えがある。もう一度、君の部屋を調べさせくれないか?」
「考えとは?」 キッチンを出た横山はアルコール類の棚へと向かった。
「なにか大事なことを見逃しているような気がするんだ」
横山はブランデーを取ってきて、キッチンに戻った。「どうしてそう思うの?」
「稲垣に六月、この旅のレクチャーを受けた。その時と何かが違う。VIPキャビンの何かが」
「いいわよ。願ったりだわ。だれが犯人か早くはっきりさせましょ。で、賢治。こんな時にわたしがあんたらの心配するのもおかしいけど、あの酔っ払い、ほっといていいの?」
横山はカップに紅茶を注いだ。
「起こしてこようか?」
「そういう意味じゃなくて、あの子、キッチンドリンカーじゃなくて」
「まさか」
驚いた。「キッチンドリンカーって、アル中ってことか?」
「どう見たってそうじゃない。ま、起きてこないところを見るとアルコールはまだ切れてないみたいね」
横山は紅茶の入ったカップにブランデーを注いだ。普段なら少し垂らす程度なのをどぼどぼと入れる。それはほどんどブランデーの紅茶割りのようである。
「部屋に行く前にゆっくり飲ませて。体を暖めたいの」
ところがだ。そこで異変が起こった。紅茶に口を付けたかと思うと横山が苦しみだしたのだ。カップは床で割れ、倒れた横山はというと、床でのたうつ。あまりに突然過ぎて、もがき苦しむ横山をおれ達二人は茫然と見送ってしまっていた。彼女が動かなくなって、ようやく我に返った。おれ達は横山の耳元で彼女の名前を呼ぶ。だが、反応はなかった。横山加奈子は息を引き取ってしまっていた。