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ベッドの下に鎖と錘は用意してあった。アフトデッキにそれを置き、フライングデッキに上がる。目的地点に移動を終えたらキッチンの床下から皆藤真の死体を取り出し、鎖でぐるぐる巻きにしてトランサムステップから投棄。
イメージは出来あがっている。十分ぐらいあれば問題なく処理できるであろう。目的地到着時刻は午前二時三十分。その時間からして誰にも見られることはあるまい。
ただ、昼間はヒヤヒヤしたといったらなかった。死んだ水谷正人には申し訳ないが、正直そんな気分だった。一旦は皆藤真の投棄を諦めた。旅は続けられないのだ。帰港して警察に船を調べられる。すると皆藤真の死体。だが、横山加奈子が遺産相続に名乗りを上げたために旅を続けられた。正直、今回は横山に助けられたと思った。
一方で、大人げなかったとも思う。カッとすると見境が無くなる。四人の懺悔というか、暴露大会のこともある。やつら四人が過去、稲垣陽一をコケにしていたかと思うとスイッチが入ってしまう。水谷正人が死んだあの時点、おれは帰る気満々だった。
ともかく、稲垣のご希望通り、目的地点までは行けそうである。なんとかそれだけでも叶えてあげたい。でなければあまりにも世の中、悲し過ぎるじゃないか。
あとはやつらだ。おれ達に潜む犯人の尻尾をどうやって掴むか。時刻は零時を示していた。予定通り鎖と錘を持ってスタッフキャビンを上がる。アフトデッキにそれを置いて、フライングデッキに移動した。鎖の音は立ってないと思う。あとは運あるのみ。誰かフラッとアフトデッキに出て風に当たるなんてなければバレることはないがその心配はない。なんたって三人とも気持ちが沈んでいて部屋から出て来られそうもないのだ。
真っ暗闇の航行。どこに向かっているのかと考えてしまう。ナビが示す地点。そこには間違いないのだが、違う気もする。驚くべきことだが、目の前で稲垣が手招きしているのだ。真夜中なのもよくない。船の前を飛ぶ稲垣は鳥のような翼を生やしている訳でもなく、妖精のような透明の羽を生やしている訳でもない。
ふさふさした触覚と蝶のような羽だがケバケバしく、しかも軽やかではなく、ばさばさと羽は重そうで、いうなれば夜店の照明や街灯に飛んでいるあれ。
そう、蛾。まさにそんな風体の稲垣が船の舳先で先導をしている。ピーターパンに出てくるティンカーベルは飛んだ道筋にキラキラ光る星を落としていく。それが稲垣の場合、鱗紛なのだ。船のライトに反射してキラキラ光っていた。
冗談じゃない。おれは思わず目を擦った。やはり幻だった。蛾の稲垣は消えていた。額で大粒の汗が一筋滑っていくのを肌に感じる。気持ち悪くて、それを手で拭う。
どこに行くかなんて、おれはなにを血迷っている。船はどこに行くでもなくナビが示す地点、緯度二十三度四十九分、経度百二十七度五十四分に向かっているんだ。
水谷の死と横山の暴露話のせいで頭がおかしくなったと思った。大丈夫。稲垣は彼らを友達だと思っていたはず。その証拠に慈善団体に彼らの名で寄付しようとしていた。
むしろ、誘っているように見せているとするなら、それは皆藤の件でだ。計画通り投棄は出来る。稲垣は喜んでいるに違いない。
だが、そうだろうか。稲垣の姿が幽霊というより悪魔に見えてならなかった。
予定通り午前二時三十分。目的地点に到着し、フライングデッキから降りた。キッチンに入りカーペットをひっくり返す。床に二か所取っ手があり、それを起こす。慎重に引き上げると一メートル×二メートルの床板が外れた。中には刑事ドラマで見られる死体袋が横たわっている。厚手のビニールで、その頭の方を握って全体を引っ張り上げる。
人間の関節の数は二百六十五個と聞いた。それがまるで一個もないようだった。カチカチで、これが死後硬直かと思った。推理小説で知っているだけだったが、実際に触るとやはり驚く。死体は丸太のように硬い。因みに死後硬直のピークは二十℃下で半日から一日の間、夏ならその半分、六時間から十二時間の間がピークだという。
床に引き上げた皆藤真の死体袋を漁港の冷凍マグロのように転がしておいて、キッチン床を元に戻す。水谷の死でバッテリーが心配だった。VIPキャビンはロアーデッキでは一番広い部屋だ。死体が腐らないよう冷房を利かすのに電力を相当消費しているのだろう。ちょっとでも節約したいところだ。
皆藤真を投棄出来るのはその点から言っても喜ばしい限りである。まず、床下の冷蔵庫の電源を切る。確か稲垣はこの辺を触っていたなと、冷蔵庫の中を覗く。スイッチがありそれをオフにする。次に蓋を慎重に閉める。どっかにぶつけて、音を立てては今までの苦労は水の泡だ。
上手い具合に音一つ立てなかった。カーペットを戻し、死体袋を担いだ。まだ腕力も足腰も劣っていない。軽々と肩に乗せる。長年、鉄の塊と格闘してきた賜物だ。
キッチンを出てアフトデッキ、そしてトランサムステップに降りる。事前に置いておいた鎖と錘を取り、鎖の方を死体に巻き付ける。水音を立てないように頭の方から海に浸していき、最後に足を離す。鎖に引っ張られて錘が飛沫を上げない内に、先に錘を海中に送り込む。死体袋が黒かったせいもある。暗い海の中にあぶくを残し、皆藤真の死体はあっという間に姿を消していった。
とりあえずやることはやったと、ほっと一息をつく。アフトデッキに上がって十分か十五分、真っ黒な海を眺めていた。が、メインキャビンに上がって来る者もいず、そうなると不気味なもので世界そのものが音を失ったかのように思える。まるで深い海の底にいるよう。
いや、よそう。おれは変な想像を頭から追い払って、スタッフキャビンに下がった。
寝ようと思ってベッドに座ったはいいが、どうも落ち着かない。胸がもやもやする。ちょっとイラッともしていた。達成感を感じるどころか、嫌な気分になる一方だった。
堪らずに、メインキャビンに上がった。キッチンでビールを四つほど手に入れるとスタッフキャビンに戻って一本、また一本とがぶ飲みした。
どうも面白くない。最低な気分のせいで寝れもせず、だったら別のことでも考えようと頭の切り替えに努める。昼間の水谷殺害を頭の中でおさらいしてみることにした。ああでもないこうてもないと頭を巡らせていると一つ、引っ掛かるものがあった。鍵やシャワーの音を検証するため山下と水谷の部屋を訪れた時、感じた違和感、それを思い出したのだ。
何が問題であったのか。部屋を頭に浮かべてもやはり分からない。とするならば、またそこに行く必要がある。その何かはおそらく水谷殺害を解く大きなヒントに違いない。
そう思うと余計眠れなくなってしまった。ビールは四本ともすでに無くなっていた。またキッチンに取りにいかなければならない。