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航海四日目の八月三日、七時四十分。場所は津堅島から百海里南下した経緯二十四度三十九分、経度百二十七度五十四分の地点。計画通り移動を終え、おれはスタッフキャビンの狭いベッドで眠りについていた。全く夢を見ない深い眠り。ノンレム睡眠がレム睡眠に移ろうとする一番深い所で突然、山下賢治に叩き起された。
「正人が殺された!」
揺さぶられるやら、耳元で叫ばれるやら。例えるなら、弛んでしまったゼンマイように緊張感を失っていた大脳、そこに無理やりネジを突っ込まれたようだった。
「正人が殺されたんだ!」
山下の言っている意味は分かるのだが、そのこと自体が理解出来ない。横山と水谷がずっと一緒で、山下と島田が行動を共にしていた。二人ずつ組みとなっていればそういう心配はないと思っていた。それがどういう訳か、水谷正人が殺された? だが、いや、まさか。
まさか、横山が殺したってことはないだろう。とすると横山だ。横山にも被害が及んだか?
「横山は?」
「加奈子は大丈夫だ。ちゃんと話も出来る。でも、言っていることが変なんだ」
山下が言うには、加奈子は七時に起床した。横では水谷が寝ていた。起こさないようにベッドを出ると浴室に入った。シャワーを浴び、髪を乾かし、軽く化粧をした。それが七時三十分。浴室のドアを開けるとベッドの上で水谷が死んでいた。
「僕には分からないことだらけなんだ。狩場さんも聞いてほしい」
人が殺されているのを見るのは初めてだった。交通事故で死んだか死なないかが救急車に運ばれていくのは遠巻きであるが、野次馬の中から覗いたことがある。他人事だったが、水谷正人はまさに昨日、このおれと喋っていた。
その水谷正人がベットで血だらけで、そこに覆いかぶさるように横山加奈子が泣いている。床には血のりがついた包丁が転がっていた。明らかに殺されている。おれは考え違いをしていたのかもしれない。爆弾とか船のことで頭がいっぱいでこうなることへの対処を疎かにしていたんじゃないのか。
いや、おれはちゃんと横山加奈子に警告はした。水谷正人の命を守ってやれと。いい加減な気持ちで言った訳じゃない。だが、こうなってしまった。どこでどう間違ったんだ。
心臓を包丁で一突き。横山が言うには、水谷の顔には枕が被さっていた。おそらく犯人は馬乗りになって枕で顔を抑えつけ、包丁で胸を刺したのであろう。ベッドに乱れがいない。それは水谷がほとんど暴れてないということで、本人はというと、寝入っていて何が何だか分からない内に死んでしまった、と想像出来る。包丁はキッチンにあったのと同形。あとでキッチンを調べてみたら一本無くなっていた。
メインキャビン以外、どのキャビンも外から入れるドアはたった一つ。VIPキャビンも例外ではなく、それが山下と島田が来た時点では開いていた。横山が言うには、そうなったのは助けを呼ぶためにマスターキャビンに駆け込んだからで、普段は部屋に入ると必ず鍵を掛けたし、忘れるはずもない。
確かに、彼女の証言はその通りなのだろう。横山が用心深かったのはアフ岩にスピアガンを持っていったことからして分かろうというもの。横山の証言に頼るしかないのだが、水谷正人が殺された時、間違いなく鍵は掛っていた。つまりは密室。となれば直ぐ頭に浮かぶのは、犯人は被害者を自殺に見せかけようとしていた。だが、この場合、死体の状況がそれに当てはまらない。明らかに水谷は誰かに殺されたのだ。
山下と島田が言うには、マスターキャビンの方も鍵がかかっていた。普通に考えればそれは確かだろう。用心深いというか、誰しも、ことの最中に人が入って来たら困る。二人一緒にベッドで寝入っていて、横山の叩くドアの音で目を覚ました、ということなのだ。
とすると、犯人は横山でしかなくなる、ってことになるのだが、どうだろうか。思うに、この状況を作った犯人の意図は、横山に罪をなすり付けようとしているってこと。ところが、擦り付けようにも肝心な横山にまるで動機が見当たらないし、それは誰もが知るところだ。
当の本人にしてみても、最愛の人が亡くなった未亡人のごとく、暗く沈んでいる。包丁を抜いた時に浴びた返り血は綺麗に拭き取られてはいるが、メインキャビンのソファーに座るその姿は恋多き女と噂された小説家とはほど遠く、髪も乱れ、目も虚ろで、口だけが動いていて、おれ達に聞かれたことだけを答えていた。
かと思えば、島田恵美の、慰めようとする意味で握ってくる手を跳ね除け、拒絶するしまつ。もう誰も信用していないってことなのだろう。分からないわけではないが、たまに見せる敵意むき出しの目。何をしでかすか分かったものではない。
その横山のそばに島田を置いといて、おれは山下を誘い、VIPキャビンに向かう。横山の証言を検証したかったのだ。まず、ドアの鍵。誰が持っていたかを確認する。山下は持っていないというし、おれもそうだった。稲垣から渡されたのなら、持っているのは事前に会っているおれたち二人以外考えられない。つまり鍵は無かったということになる。となればロック出来るのは部屋の内側からだけだ。あるいは、閉め忘れたか。
だとして、閉め忘れているのを誰が知るのであろう。たまたま犯人が来てドアが開いていて、水谷が寝ていて、そばに誰もいなかったから衝動的に殺害に及んだ。なんせ山下にも島田にも動機がある、と結論立てるのは愚か者のすることだ。逆を言えば犯人がなぜ、部屋に入れたか。そして、その時間、水谷が寝ていて、横山が浴室に入っているという状況を犯人はどうやって知り得たか。それが分かれば、全てが解決する。
難しい話ではない。ドアロックのオス側とドア枠のメス側を確認した。こじ開けた形跡は見当たらない。念のためドアにロックを掛けてみる。ノブを押しても引いてもドアはピクリとも動かない。さすがはリーバ製。ピタッと張り付くようでガタつき一つない。とすると、防音性も非常に高いのではないか? ここに来た目的のもう一つはシャワー音が室外に漏れているかどうかである。
シャワーを流し、浴室のドアを閉め、通路に出て部屋のドアを閉めた。やはり全く聞こえない。VIPキャビンの浴室に隣接するゲストキャビンの壁にも耳を当ててみた。が、聞こえなかった。
もし、水谷正人殺害の犯人が横山でなかったら、考えうるのは鍵を持っていて、しかも内部の様子がドアを空けなくても予想出来る人物。繰り返すが横山には動機がない。それどころか水谷を守ろうとしていた。横山は犯人ではない。
取り敢えず、行方が分からない鍵の件は措いておくとして、内部の様子が分かる人物という線から考えてみる。外部からシャワー音の漏れを聞くことが出来ないのを加味し、横山らの行動パターンを知る人物とは誰か。
横山の場合、朝に仕事をする習慣を長年続けてきた。一方の水谷は寝起きが悪い。そして横山は七時半ごろ、メインキャビンに上がってくる際にも髪を整え、化粧もしていた。―――森つばさという小説家のイメージを崩さないため。シャワーを浴びるかどうかは別として、逆算して七時から数十分、洗面台のある浴室に横山が籠る。つまり、犯人はそれを知っている人物。
まずいことになった、と思った。それは他ならならぬ自分である。山下が鍵を持っていたとするならば話は別なのだが。
自分で言うのもなんだが、動機がない。とすれば可能性として山下が鍵を持っていて水谷を殺したって考えられないか。が、山下が横山を観察し、その行動パターンを読んでいたとは思えない。それに水谷正人一人のみが犠牲になったっていうのが引っ掛かる。なんなら犯人は、水谷と横山を一緒に殺しても構わなかった。だが今回の場合、たまたま水谷だけが一人ベッドにいて、横山は浴室の鍵を閉めていた。
鍵は鍵穴の無い、内側から掛けるタイプで、外側からはコインなどを溝に当てて捻れば開く、一般的に言うトイレ錠だった。外から鍵を開けようと思ったら簡単に開けられる。そもそもが、横山が鍵を閉めていたとは思えない。水谷正人とは学生時代から肌を合わす仲なのだ。つまり、犯人には水谷正人一人だけを殺す理由があった。あるいは、真綿で首を締めるように犯人は、恐怖を与えつつおれ達を一人ずつ殺していく気なのか。
問題は犯人が山下だとして、同室の島田だ。彼女は気付くはず。二人はマスターキャビンで一緒に寝ていたのだ。一人がベッドを抜ければ一方は気が付く。もしかして薬。山下は島田に睡眠薬を飲ませてVIPキャビンに忍び込んだか。
いいや、この二人が共犯だと言うこともあり得る。この状況で二人はめっきり有利となったのだ。とすると、気に掛かるのは昨日の話し合い。それがどうなったかを聞く必要がある。多分四人は二手に分かれて激論を繰り広げた。
遺体の保存状態も気にかかった。レジスターから給気される冷気に手を当ててみた。電力が落ちていないか確かめる。バッテリーの点検をしなくてはならなかったが、昨日五時間走行したのだ。当分は電力の心配はなかろう。
ベッドに横たわる水谷の遺体。真っ赤だったベットのシーツが黒く変色しだしていた。それでも、状態としては良い方だと思う。現場保持が原則と探偵小説にはある。横山が水谷から包丁を抜きはしたが、部屋の方はむやみやたらに触っていない。もし現時点、警察が乗り込んで来たとしても、そんなに問題は起こらないだろう。