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 キッチン脇の階段を降りようと足をかけると、山下に呼びとめられた。


「訊きたいことがあるんだ。陽一が恨んでないというなら幽霊の話はなんだったんだ? 捏造したってことなんだろうがどうにも解せない。説明してくれ」


 水谷正人の話によると航海初日の夜、山下は夢にうなされていた。おそらくは昨日もうなされていたのだろう。おれの不安を理解した横山とは違い、山下は心底幽霊はいると信じている、と推察できる。そして、憑いているのは船ではなく己。少なくとも本人はそういう強迫観念を持っている。だが、それも致し方ないだろう。おれ以外、山下賢治はまだ誰にも言っていないようだったが、稲垣陽一が自殺した時から悪夢にうなされていた。


「大丈夫。あんたが思っている通り稲垣はちゃんとここに居るさ。そしてあんたらを説得してるんだ。資料を捨てて厄払いしようとも、今この瞬間、ここでな。それともなにか。この船に出る幽霊はあんたらを脅すためのおれのデマだ、とまだ思っているのか?」


「いいや、狩場さん。あなたは幽霊がいるとは思っていない。陽一が恨んでいないと言ったのがその証拠だ。一般論から言えば、大抵の人が頭に浮かべる幽霊像は恨み無しでは語れない。現に、あなたは僕らをこの船に乗せたがらなかった。それを敢えて恨みがないと言う。おかしいじゃないか。あなたは知っていたんだ。陽一が僕らを恨んでいたことを」


「そうかな。そういって拒絶しているのはあんたらの方じゃないか。気付いてないだろうが昨日、あんたら四人は居ないはずの稲垣と戦っていた。つまりはそういうことなんだ」 そしておれはこう付け加えた。


「めしは自分で作る。決して起こすな。それと話し合い中、金切り声なんて上げるなよ。夜の航行は危険を伴うんだ。あんたらだって、事故でもなったら困るだろ?」






 昼間はいくら青いと言っても海と空との境界は明確であった。夜ともなると下から上まで真っ暗闇で、ライトでの目視確認とレーダーだけが頼りだった。


 あまり安全ではないのだが、夜に移動するという稲垣の計画はよく出来ていると思う。アフ岩に停泊する限り、武内の目からは逃れられない、と稲垣は踏んだのであろう。それはそうだ。稲垣と武内はいつもアフ岩に行っていた。


 にして稲垣は、それほどまでに四人にアフ岩を見せたかったのか。武内との思い出の場所なのにどうかしている。


 いや、武内が現れると踏んで稲垣は敢えてこの場所を選んだ。そもそも沖縄空港で顔を合わすなんて稲垣が計算に入れるはずがない。だとしたら稲垣は、武内忍におれ達五人をよっぽど合わせたかったか。が、それってどういう了見か。ますます分からないが、ま、武内にしてみれば思い出が穢されたことに変わりがない。災難だったろうが、明日もまたやってきてそこで船が消えているのに気付く。さぞかし頭に来るだろうよ。


 だが、そうはいっても実際は、武内忍はもうこの船には寄りつかないと思う。私の出る幕はない、とは彼女の言葉だ。口から出まかせを言うような女ではない。今頃はベッドですやすや寝入っていることだろう。


 船の走行は、暗闇に浮かび上がる銀色の水面を追うようだった。追えども追えども、キラキラと光る水面には届かない。見上げれば降って来そうな満天の星。


 それにしてもあの女、と思った。すやすや寝ているのだろうが、本当のところ一体何をしているのだろうか。不安全な航行であるはずの、真っ暗闇の大海原で、ややもするとおれは武内忍に想いを馳せてしまっている。今日のおれはどこかおかしい。確かにあの体、あの目、人を魅了されるには十分だった。


 そして、考える。稲垣もそうだったのであろうかと。いいや、と思った。やつは変人だし、おれの考えなんて及びもつかない。それを言うなら武内の方が稲垣に好意を持っていた。本人が穢されたと言うのだからまず間違いなかろう。武内にとってこの船は大切な思い出だったはずだった。


 とするならば、武内は望月にそそのかされたから沖縄空港に行ったわけではない。想像するに、彼女はただ単に、稲垣の友達だという人達と会いたかっただけ。恋人が死んだのならそういう心境にもなる、と思う。そして、そのために、横山を知る望月を同道させたのだろうが、それが裏目となった。多分ではあるが、空港から帰って望月は怒られた。あなたはもうしゃべらないでと。それで今日の望月は大人しかった。間違いない。だが、面白いじゃないか。時代の寵児、望月望をつかまえて叱るなんて。


 その理屈から言えば、今日の来訪は空港で会えなかったおれの顔を見に来ただけなんだろう。お気に召してもらえたかな。だとしたら、それもまた笑える。多分だが、そこそこは気に入ってもらえたと思う。なんせその前に会ったのが山下ら四人だったから。


 ま、与太話はさておき、ああいう女は『匂い』に敏感なんだ。直感、インスピレーション。どこが嫌いか好きかなんて理由はない。いや、そもそも理由なんて概念がないのかもしれない。それが証拠にあの性質たちの悪そうな望月望と一緒にいられる。さて、おれはどういう『匂い』だったのか。


 ともかく、あんないい女はそうそういない。なんだろう、きっと魂が特別なのだろうな。そういう想いはおれらしくないかもしれないが、もし神がいて天界があるんなら、あの女は何か使命をもって地上に降りてきた。それ位珍しいし、武内忍にはそう思わせるに十分な容姿と雰囲気があった。おれみたいな人間が彼女と係わってはいけない。


 そうは思うのだが、やっぱりおれらしくもない。横山ら四人に渡したおれのファイルから、武内忍の写真だけは抜き取っていた。あの時は、一生会うことのない女だと思っていた。正直、今になって思うのだが、抜き取っていて良かったのだと思う。


 実のところ、バレないかとひやひやだった。彼ら四人は自分のことで精いっぱいで武内忍の写真なんて全く頭からすっ飛んでしまっていた。おれからファイルを受け取った時、確認したのは自分たちのところだけだった。


 確かに島田恵美なぞは、自分の資料が見れるとあってそれ以外のことは何も頭に入って来ない。見栄か、奥ゆかしいのか、プライドが高いのか、彼女は誰にもあなたのファイルを見せてとはいえなかったに違いない。


 彼女ばかりを責めるつもりはないが、かといって他の三人も似たり寄ったりだったろう。所詮目的は、過去を捨て、四人だけで新たな関係を築こうってことなのだから、そこに武内忍なんて入って来るはずもない。彼らにとってみれば武内は、もう出てくることのない登場人物だったんだ。


 その証拠に山下賢治は、いまだ武内忍を全く気に掛けていないし、横山加奈子にしたって、武内忍が乗り込んでもなおそのファイルの存在に気付けなかった。だが、おれは違う。武内忍と直に会ってしまった今となってはなおのこと、武内忍の写真が海岸に埋められ、いずれ海に流されてしまうなんて考えられない。横山ら四人はともかく、おれまで武内忍をいなかったことにすることなんて出来なかった。


 サーフパンツのポケットから写真を撮り出す。ヒジャブ姿の武内忍。頭髪を隠していてもなお、彼女は美しく、気高い。


 思い上がっているのは望月望だ。武内に付き従うやつは一見マゾだが、相当のサドとみた。きっと、この世の定めに苦悩する武内忍を見てエクスタシーを感じているのだろう。やつの目を見たから分かる。やつはそういう男なんだ。


 良い悪いという尺度で測れない意識の働き。綺麗なものを穢すのもある意味、美とは言えないだろうか。しかも、そこからはエロシズムも感じる。世なれた望月はそういう『狂』の域に達しているのではなかろうか。


 ともあれ、二人の来訪は山下ら四人の心に波紋を広げた。リゾート気分に浮かれていたのが、目の色を変えさせた。彼らは決めなければならない。稲垣の追悼のためにこの船に乗ったんじゃないのだ。五百億の会社の筆頭株主に、誰がなるのか。


 想像するに、今夜は何も決まらず、多分、誰かが断念すると言ってくれるまで互いにだんまりを決め込んだのだと思う。それでこのざまだ。誰かが筆頭株主に決まればこんな真夜中に船を走らせずに済んだんだ。


 ま、それもないものねだりというものだ。クルーズ半ばで間違っても帰港することはないと信じていたし、稲垣陽一もそのつもりだったはずだ。つまりはやつの計画範疇。


 現在の時刻は午前二時。航海三日目の八月二日から四日目の八月三日に変わる午前零時に船を走らせ、床下の皆藤真はというと、順調に目的地点に運ばれようとしていた。







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