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返事を待たずして女はおれを素通りしてメインデッキに入っていった。きゅっと上がった形のいい尻が右、左と動いている。
はっとした。なぜかここで我に返った。「武内忍!」
「いい女だろ」と不意に後ろから、連れの男に肩を掴まれ引きよせられた。
おれは男を背にしたまま、振り向いた。「あんたが望月望」
スポーツジムで作った肉体の、いかにもって男だった。身長は百八十ぐらい。ニヤけた唇と少し垂れ下がった目。いたずらっ子を大人にしたような眼差し、とは言いようで、その奥には危険な色気が漂っている。その望月望が、おれの肩を掴んで離さない。武内を追わせないようにしているのだ。
だが、すぐに武内忍は戻ってきた。
「思った通りね」
船を知り尽くしているようだった。それに稲垣の作った資料を持っているはず。ここに来なくとも、あの四人にロアーデッキがどのように使われているのか、分かっていそうなものだ。
そうなのだ。山下らがアフ岩で資料を処分しようとも武内はそれを持っている。本来ならそっちの方の資料を処分するべきなんだ。山下、島田はそういう点からいってまだましな方。これでは水谷と横山は未来永劫、武内に頭が上がらない。
掴まれていた肩を解かれたかと思うとおれは突然、望月に背中を押された。二歩三歩と進む先に武内が待っていた。
「穢されてしまったわ。責任をとって」
言葉が出ない。それが正直な答えだった。
「ま、いいわ。それで、あなたはどうしたいの?」
なるほど、あこがれるっていうのも分かる。秘境に学校を建てるってことを差し引いても、確かにこういう女ならそうなる。だが、臆さない。
「あんたはやり方を間違った。今更話してもしょうがない」
武内は笑った。
「そうね。あなたの言う通り」
何が言いたいか、察したようだ。賢い女だと思った。
「もう、わたしの出る幕はなさそうね。帰りましょ、望月さん」
そう言って武内はトランサムステップから水上オートバイに飛び移った。望月も続く。飛沫をあげて二台の水上オートバイは次々に飛び出す。大きく円を描いてヤジリ浜に向かっていった。
となれば、気になるのは山下ら四人の方だ。慌ててフライングデッキに上がる。
案の定、一目散に戻ってきている。水上オートバイとゴムボートは海上ですれ違った。山下ら四人は唖然としているのだろう、立ち上がって武内らが遠退くその後ろ姿をずっと見送っていた。
果たして、帰ってきた彼らの怒りようはない。横山なぞは、何を話したかと詰め寄るしまつ。当然、話す義理なんてないと考えていたおれだったが、このままで四人が納まるとは思えない。まだ航海の序盤なのだ。あんまり刺激しない方がよい、というのは分かっていた。
「やつらには、今更話してもしょうがないと言ったまでだ」
横山が言った。
「それは手を結ぼうっていうのを断ったということ?」
そう言うことだろうに。「どうにでも取ってくれ」
ムカついて、歯切れの悪い返事になってしまった。
「私たちはあなたを失うわけにはいかないの」
おれというボディーガードを失うのは大きな痛手に他ならない。いざという時に見捨てられたら彼らは海の上だ。絶望的だと言える。
「忘れてもらっては困る。おれの仕事は何事もなかったように、無事航海を終えることだ」
横山はうつむき加減でずっとおれを見ている。おれを信用出来ないようだった。第一、武内忍は、あの望月望の心を奪うほどの美人だ。それに若い。被害妄想か、望月も取られ、おれもハートを射抜かれた、と勘ぐっている。その横山が言った。
「あ、もしかして、ファイル」
山下が言った。
「いま気付いたんだ、加奈子」
考えてもみなかったのだ。だが、当然といえば当然。国際子供救援基金の資料があるのなら、その代表たる武内忍にファイルが手渡されていないはずがないのだ。だったら、水谷正人が五百億勝ち得たとしても武内に強請られる。愕然としたが、それを微塵たりとも見せてはいけない。気丈にも、平然とした素振りで横山はソファーに座った。
山下はというと、ファイルを手にした時点からその事実に気が付いていたようだった。なのに、昨夜はそのことを一言たりとも言わなかった。横山が言った。
「ひどいのね、賢治君。知っていながらファイルを埋めるのに賛成したんだ」
山下の口角が上がった。
「どのみちやつらも、それこそ世間の誰も、僕達には関係ないよ。ファイルを埋めたのは俺達の気持ちの問題。だから言わなかったまで。だってそうだろ? 五百億手に入ったとして他に何が欲しい。何でも手に入る。今ある人生全部かなぐり捨てるさ。それだけの価値はある」
「あなた、なにが言いたいの?」
「小説家なんて辞めちまえってこと。正人だって病院を辞めちまうさ。もしかして家庭も辞めて嫁子供も捨てるかもな」
確かに、という風な顔を横山はした。山下が続けた。
「だけど、それは、五百億手に入ったらの話。逆に入らなかったら悲惨極まりない」
横山は呆気にとられていた。もちろん水谷もだ。さらに山下が言った。
「僕らはそろそろ真剣に話し合わなければならない。そうだろ?」
水谷は横山の横に座った。島田はダイニングに。山下は三人を見渡せる位置、キッチンのカウンターの前にいる。それぞれがうつむき、押し黙っている。
おれは退散することにした。これは彼らの問題なのだ。それについて言うならば、稲垣陽一はさすがに用意周到で、彼らがメインキャビンに居座っても足りないものがないようにしていた。議論が煮詰まってキッチンをひっかきまわす状況にはなり得ない。したがって皆藤の死体は見つからないし、そんな心配をしておれは四人を監視する必要もない。ここに三日で彼らの行動から、それは確信を得ていた。
「おれは今夜、船を動かさなければならない。寝かせてもらう」