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 夫は忙しく、夜も接待で帰ってこない。娘らは自分のことしか興味がなく、親の入り込ませる隙間を作ってはくれない。だだっ広くて薄暗い家の中で一人ぽつんといる。昔はそうではなかった。身の周りは人で華やいでいた。子供会や保護者会、PTAなど島田は率先して人の輪に入っていったし、そうすることを望まれた。


 いまの自分は使い捨て。家族にとっての消耗品。何とかしようと思わないでもない。だが、自分には選択肢はない。不必要にしているのはこちらではなく、あちら側なのだ。それでふと、今になって思う。稲垣なら、と。


 幸せだったか? 暗い部屋の中でそう思ってしまう。アルコールの量が増えた。外出もしたくなくなった。家に籠る。アルコールの量が増える。悪循環。そこに追い打ちがかかる。実家の会社が民事再生法にかかったという知らせだ。ただでさえ家族で孤立感を味わっているのに、どうしろというのだ。

 

 どうだろうか、と水谷が提案した。稲垣が作った資料を明日、アフ岩に埋めようというのだ。さらに言う。確かにぼくらが稲垣にしたことは悪いと思う。だが世の中そんなの、いくらでも転がっている。僕らなんてすれ違い程度だろ? 体を傷付けたわけでなし、故人の尊厳を侵したわけではいない。そういう意味でいうなら、いじめられて手首を切った患者を僕は二人三人見ている。稲垣はそういった子供たちと違うんだ。なにをもってこの資料を作ったのかは知らないが、僕らは稲垣に代償を払うなんてこれっぽっちもないんだ、と息巻いた。


 島田の落ち込みようが四人を結束させたのだろう。稲垣が作った資料では山下のが一番ましだった。ハローワークに提出する履歴書と変わりないくらい薄っぺらなもので、その山下が水谷に賛成したのだから島田、横山は言うまでもない。


 水谷が言った。


「狩場さん、あなたのもお願いできませんでしょうか」


 おれは横山を見た。その顔に有ったのは渡してっていう有無も言わさぬ眼差しであった。


「いいよ」 内容は頭に叩き込んでいるし、別段構わない。だが納得していない。あんたらは誰と戦っているんだ。


「渡す限りは一つ言わせてくれ。稲垣は自分の金をあんたらの名で慈善団体に寄付したかったんだ。ほかでもないあんたらの名でな。といってもあんたらは承知しないだろ? そりゃそうだ。あんたらは単に金が欲しいんだ。だが、考えてもみろ。そもそも五百億はあんたらが稼いだ金じゃぁないんだ。それをあんたらは、まるで悪いやつから金を取り返すみたいに。稲垣をそこまで落としたいのか? いや、あんた達なら稲垣がそうして当然だと思っている。いまの会話だって死んだ稲垣と戦っているようだった。そして稲垣はそういうあんたらを知っていた。ここらであんたらは折れないといけない。なんたってこのざまだ。あんたらはもうとっくに稲垣に負けている。慈善家だと名乗れるだけありがたいと思え」






 山下ら四人は稲垣を煙たく思っていたんだろうな、と思う。ツーカップル・プラスワンってのもよくない。誰かが弾かれる運命であって、それが稲垣か山下かというのは誰でも分かる。当然山下としては率先して稲垣を遠ざけたのであろう。あるいは高校時代からそう仕向けていたのかもしれない。


 日は空高くにあった。昨夜の懺悔大会から一夜明けて、いま思うとあの場に稲垣がいたような気がする。幽霊なんて信じない。しかしあれはまさしく亡き稲垣と四人の話し合いだったのではなかろうか。カールのかかった髪に、指を櫛にして稲垣陽一が言うのだ。


「慈善団体に君たち四人の名で寄付するってことは、ぼくの金は賢治だけのものでもなく、正人だけでもなく、加奈子だけでもなく、恵美だけでもない。ぼくたち皆のものになったってことだからね」


 水谷が言う。「ものは言いようってわけか。そんなことをするために僕たちを金で吊って、しかもあんな資料を作って」


「ぼくは君たちの名で寄付したかったんだ。このままだと国庫に入る」


 横山が言う。「こっちは望んでいない。それよりもこの資料、どうしてくれるの?」


「すまない。でも君たちは金をほしがるだろ? こうすれば三竦みじゃないけど四竦みだ」


 山下が言う。「いいと思ってやってんだろ? あんたのそういうお節介がたまらない」


「悪かった。でもそれほど悪い話じゃないだろ? 賢治だって公人だし、加奈子だって名が上がる。正人だって病院の理事だ。そういう方面に力を尽くしたらいいことだってあるだろ? 恵美は教育に力を入れてた。それに君たちだって揉めなくていいじゃないか。もし四人で分けろってことになったら友達でいられなくなる」


 島田が言う。「友達? そうでしょうよ。あなたはいつもそう」


 甘えるな、とおれは四人に言いたい。だが、人というのはこういうものなんだ。驚くことでもなんでもない。おれは昔からいつもそう思っていただろ、と己に言い聞かす。そして諦めの気持で自分自身に言う。


「やつら四人とおれとは全く関係がない。好きなようにやらせておけ」


 そして実際、山下ら四人は好きなようにやっている。おれの資料も含め、アフ岩に運んで行っていた。八月二日の正午、ゴムボートは津堅島つけんじまのインリーフに入る。


 やがてボートがアフ岩に到達する。彼らは砂浜に降り、穴を掘りだした。アフ岩というだけあって島ではない。ほとんど砂浜がなく、掘り返すのに悪戦苦闘している。船から持って行った斧とスピアガンをスコップ代わりにしているのだが、うまくいかないようだ。掘った傍から穴が波で洗われてしまう。


 おれはフライングデッキでそれを見守っていた。が、ヤジリ浜から一筋に向かってくる水上オートバイに気が付く。二台が並走して走って来ていた。一方は女で、一方は男。


 一人は黒のビキニに、一人は膝上までのブルーの海パン。それが白波の帯を飛び越えて大きくカーブを描く。この船に来る気だ。まさか、島民から観光客へ挨拶ってわけでもあるまい。脇目も振らず向かってくるのにただならぬ気配を感じた。フライングデッキを駆け降り、トランサムステップに先回りする。水上オートバイは減速して海を滑るようにやってきてトランサムステップに横付けされた。


 観光客同士の挨拶であろうとも二人を船に上げるつもりはない。もちろん愛想を振りまく心境ではないのも変わらなかったが、おれの想像が正しければ、これからおれはこの二人の対応に頭を悩まされることになる。が、しかし、黒ビキニの女を目の前にしてそんなこと、おれはすっかり忘れてしまっていた。連れの男がビキニの女の後からトランサムステップに移ったのも目に入らない。女があまりにもいい女だったからだ。手足が長く、首も長い。そして、小さい顔に大きい胸。髪はぐっと後ろに縛っていて一筋だけ乱れて右目の前に掛かっていた。


 印象的な目だった。猛禽類を思わせる逆三角形。きりっとしていて清潔感を覚える。おれはその目に射すくめられていた。


 固唾を呑む。


「あなたが狩場さんね」







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