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なるほど、護身用ってわけか。水谷の手の平にスピアガンを置いた。それからゴムボートを機関室から引っ張り出し、水谷に船外機の使い方を説明した。
二人はアフ岩に向かった。フライングデッキからそれを見守る。無事、白波の帯を抜け、アフ岩に上陸する。
気付けば山下賢治と島田恵美がアフトデッキからその光景を眺めていた。言葉を交わしているようには見受けられない。暗く黙しているその雰囲気はぎくしゃくしている感じにも見えるが、二人は寄り添っていた。
一方、アフ岩では年甲斐もなく横山ら二人が浅瀬を走ってはしゃいでいた。
昼ごろになって横山らは帰ってきた。昼食は島田が用意していて、その姿を見るや横山や水谷はダイニングテーブルに当たり前のように座った。島田はさすがに主婦だった。キッチンに立つ姿が板についている。ワイン片手にちゃちゃっと進めていく一方で、ダイニングで待つ他の三人との会話のキャッチボールも、もちろん忘れない。
食事中、水谷はシュノーケリングの体験談を得意になって話した。砂地からひょっこりと頭を出している長細い魚。何匹も並んでゆらゆらと揺れていた。見た目、ムーミンのニヨロニョロだという。因みにその正体はチンアナゴである。サンゴ礁の砂地に生息し、潮の流れに乗ってくる動物性プランクトンを捕食するために、しっぽを砂に埋め込んで、口を開けて待ち受けている。
ユーモラスといえばモンガラカワハギだ。背びれと尻びれをパタパタと動かしている。尾びれは舵のみで、上下のひれで推進力を得ているのだという。
しかし、南の海と言えばルリスズメダイだ。色とりどりのサンゴの森と強い日差しのグラデーションに、負けずとも劣らない鮮やかなブルー。イソギンチャックと共生するクマノミもまた、南国の海には定番。オレンジの地に白のストライプとか、赤の地にほっかむりをしたような模様とか色々いるが、イソギンチャックのグロテスクな触手にその身を任せ、まるで揺り籠にあやされているように南国の海に揺れていた。
そんな水谷の話に、島田が見たいということになって、今度は四人でアフ岩へ、ってことになる。横山はというと、山下らと一緒は嫌なのだろうが、それは一切顔には出さない。
島田が水着に着替えてくると四人はゴムボートに乗り込んだ。島田の水着は緑地に水玉、臍の上あたりに涙滴型の穴があり、胸にフリルが着いたワンピース型だった。ところが、後ろ姿はまったくのビキニである。三十年以上、海水浴をしていないおれが言うのもなんだが、さほど珍しい水着ではないらしい。モノキニといい、おれはというと、その存在すら知らなかった。島田のゴムボートに乗り込んでいる背中を見て、エロいというかかわいいとうか、と不覚にもそう思ってしまっていた。
四人がアフ岩に向かってから、おれはロアーデッキに降りた。目的は稲垣の本棚である。記憶では専門書や洋書のほかに文庫本がどっさり詰まっていた。気兼ねして降りられないロアーデッキで鬼の居ぬ間に文庫本を物色しようというのだ。
手に取ったのは短編集『剣客群像』。それを持ってフライングデッキに上がった。アフ岩辺りでシュノーケリングを楽しむ四人を見つつ、デッキチェアで寝そべりページを捲っていく。
初めて沖縄を楽しんだ気がした。精神の開放。沖縄の空はだだっ広く、それを阻害するものはなにもない。青い空をスクリーンに、本の中のイメージが際限なく膨らんでいく。
一つ短編が終わるたび、山下らを見た。ゴムボートから飛び込んだり、列になって泳いだり、同じシュノーケリング目的の、他の観光客ともコミュニケーションを図っている。
本もあと二編となった頃、遊び疲れたのか四人は帰ってきた。フライングデッキから降りたおれがゴムボートをリアハッチの奥にしまっている間、騒がしく、アフトデッキの簡易シャワーで順に潮と砂を落とす。一人、二人とロアーデッキに下がっていき、残ったのは横山だった。スピアガンと青いブダイ二匹を手に持っていて、はいっ、イラブチャー、と元気よく言って、おれに差し出した。
「イラブチャー?」
「そう、イラブチャー」 横山はくすくす笑って、メインキャビンの奥の階段をロアーデッキへと降りて行った。
メインキャビンに、四人とおれがいた。ダイニングテーブルに並ぶのはイラブチャーのムニエル。アフ岩から戻って一旦、部屋に戻った四人は疲れたのか、二時間ほどは静かであった。お昼寝タイムだったのであろう。イラブチャーは、その間、おれが三枚におろし冷蔵庫に入れておいた。それを先に起きてきた島田がムニエルにしたというわけだ。
ディナーを前にして、四人は話に花が咲いた。だいたい、シュノーケリングで魚を仕留めるのはルール違反だというのは山下の意見だった。だが、横山らしいとも誰もが言う。元来、横山は田舎もんの野生児だった。取ったドーって言いたかったのでしょ、とは島田の意見だ。ちょっと古いが、島田がそれを言うとかわいらしい。
目の前にはサラダにパスタ、例のムニエルも置かれている。フォークを漂わせ、あるいはビールを口に含みながら、おれは本を読んでるふりをしていた。というか、始めは本気で読むつもりでいた。だが、気が散ってなかなか文章が頭に入ってこない。
山下の声だ。「恋愛ものといえば乾くるみの『イニシエーション・ラブ』だな」
横山の声が聞こえた。「なによ。恋愛ものをばかにしてんの?」
「してないさ。主人公のマユは恋人のたっくんに借りた綾辻行人の『十角館の殺人』をあの時点で、つまり小説の途中ってことな、最後まで読み終わってない。ぼかぁーそのことが気にかかるんだ。衝撃のラストを迎える前に『十角館の殺人』を読み終えたか、はたまたほっぽり出したままだったのか。『十角館の殺人』自体は『イニシエーション・ラブ』の本筋には全く関係ないからな。いずれにしても『十角館の殺人』を最後まで読んだらマユはどう思うかって」
「だからぁ、わたしの前でなにミステリー、かたちゃってんの」
水谷の声である。「衝撃のラストって? 『イニシエーション・ラブ』ってミステリーなの? おもしろい?」
「あんたまで何言っちゃってるの」
まだ水谷は続けるらしい。「ぼくは十人ぐらいが一つのところに閉じ込められて一人ひとり死んでいくっていうのが好きなんだ。あっちもこっちも殺人事件なんだけど実は繋がりがあった、みたいなのはあんまり好きじゃぁない」
「じゃあ、まさにこの『十角館の殺人』がおすすめだ。本屋に行って講談社の棚を見つけろ。探すのには全く手間がかからない。作者があ行だからな」
恋愛小説家は、たまらないようだ。「頭痛くなってきた」
やはり、水谷はまだ言うらしい。「で、『イニシエーション・ラブ』は?」
「まず、『十角館の殺人』を読め。そのあとで『イニシエーション・ラブ』。続けて読んだ方がいい」
「でも、名前からして『イニシエーション・ラブ』だろ。なんだかなぁ、恋愛ものだっら最後まで読めないかも」
「あー、今度は寒気がしてきた」
「恋愛ものは嫌いなんだ。それも全部、加奈子のせい。一度ぼくをネタに小説書いただろ。不倫する大病院の御曹司。『きらきら』っていうやつ。結構売れたようだしな。おかげで嫁に小説家の友達がいるって自慢できないんだ。わかるだろ」