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それが根底にあったにせよ、会いたくない理由は、親子喧嘩の口汚い罵り合いでの父親から放たれた言葉にあった。ところが、ふと思い起こされるその言葉が、四十歳を超えてから以降、意図して思い返さなければ出てこない。四十五にもなるとひどいもんだ。強引にひねり出そうにも出てこない。もう記憶から削除されてしまったのだろうか。ただ、反目する習慣だけが残っていた。
田中美樹《姦淫》の場合も、きっと父親を憎んでいるのだろう。自分と照らし合わせると彼女は今まさに自分が父を憎んだ最高潮の時と同じぐらいの年齢だった。一筋縄にはいかないのは重々承知のうえだ。それでも、その田中《姦淫》に一つ、提案をしなくてはならない。それが受け入れられるかどうか、心配でならなかったし、案の定、部屋に戻って来るなり田中《姦淫》はキレてしまっている。
「犯人の目星が付いているって?」 あきれ顔がなんとも憎らしい。「この際、言っとくけど探偵小説みたいに、討論をして、目の付けどころがいいとか、推理の道筋が間違っているとか、えらッそうなことを言わないで。それで馬鹿みたいに犯人に殺させるだけ殺されておいて、土壇場になって皆を集めて、犯人はこいつだなんて熱弁を振るうなんてことも絶対にしないで。誰が犯人かなんてこの際どうでもいいし、そんな馬鹿なことをやっていればこっちが真っ先に狙われるわ。大家らもデスゲームだと言っている。あなたの仕事は探偵じゃなくてボディーガード。わたしの言っていること、分かるわよね」
言い出すのも恐る恐るだ。「分かっている。それで相談なんだが、大磯さんの代わりをしようと思っているがどうかな」
あきれ顔の田中《姦淫》は一変、顔面朱に染めた。何を言い出すのかと身構えたが、田中《姦淫》は踵と返すと寝室へ向かい、ドアのノブを握った。そして、おれに見向きもせず、背中越しに言った。
「どうぞ、ご勝手に。ただし、私の部屋の前から動かないこと。例え犯人がここ以外のどの部屋に入ったとしても」
「ただ見ていろと」
「悲鳴が聞こえてもね。動く時は私の命令か、わたしもそこへ一緒に行く」
「一々お伺いをたてるのか?」
「悔しいけど、わたしはあなたを失うわけにはいかないの」
そう言うと寝室に閉じ籠ってしまった。
窓の外は相も変わらず吹雪であった。天はマスターと呼ばれる男に味方しているとしか思えなかった。脱出するにしろ、救出されるにしろ、条件が悪すぎるのだ。それに先ほどのフェアープレイ精神の話。どっかの名探偵みたいに、興味深い、と思わず口走りたいほど妙だった。
マスターと呼ばれる男もこのゲームに参加している? 広義で言えばそうなのかもしれない。だが、果たしてその言葉通りにとっていいものかどうか。大家《貪欲》もそこに引っ掛かったようだった。その彼らにしてみても、この事柄にどれほど突っ込んで考えているのか分からない。おれからみれば、マスターと呼ばれる男も我々の中にいて、ゲームを楽しんでいる、とまで想ってしまう。
だが、そうは言っても、おれの推理はルールの壁を乗り越えないでいた。犯人は確かに『夕食からの十時間』の内、何時間かは他者の部屋にいたのだ。
政治家の間の前にある、大磯孝則が座っていた椅子を快楽趣向家の間の前に運んだ。そして、椅子の上に置き去りにされた『仮面山荘殺人事件』を手に取った。
「縄を解いてくれー」 井田《怒り》の声である。
さっきからずっと部屋の中から通路に響き渡っていた。おそらく井田《怒り》は、おれか誰かが通路にいるのを物音か、気配で察していたのだろう。残念だが、勝手に縄を解くことは出来ない。かわいそうに、とは思う。が、自業自得なところもある。話合いの最中に、拳銃に手を掛けたんだ。普段、井田《怒り》が口酸っぱく指導しているだろう集団生活とはなんぞやが、教師のご都合主義だったのは否めない。それを井田《怒り》に分からしてあげたいとの気持ちが無いわけではなかった。
時刻はもうそろそろ、昼食の時間になろうとしていた。井田《怒り》は昼食を与えられないだろう。精も根も尽きるはずだ。訴える声も、長続きはしないだろう。
マスターと呼ばれる男。やつは一体どんな男なんだ。ヒントは七つの大罪。総じて思うに、それは金のない者、権力のない者、そう、持たざる者、ではない。どちらかというと、中井や中小路らと同じ罰を受ける側の人間なんだ。大体、『高慢』やら、『妬み』やら、『怒り』やら、『怠惰』やら、『貪欲』やら、『貪食』やら、『姦淫』やら、おれたち底辺には関係がない。生きるだけで精一杯なんだ。
だが、そうなのだろうか、とも思う。望月望が言いたいことも分かる気がする。やつはおれにこう言った。
「外が戦争でドンパチやっているのにお前だけ核シェルターか? そこに籠って自分だけ助かった気でいるのか? 罪から逃れたと思ってるのか?」
確かに、おれは罪深いところから逃げていたようだが、罪を負っていないとは思わない。別にわざわざ罪を犯せとは言っていない。人生とは、そう簡単なものではないのだ。親父のこともしかり。稲垣のこともしかり。
「お前は泥丸けだったんだ」
そうだろうなと思った。
いや、よそう。そんなことを考えている余裕は、今のおれにはない。頭の中で飛ぶ迷惑な五月蠅い三匹、『ルール』、『ノコギリ』、『大磯の死』、に新たな謎が加わった。マスターだ。やつがどのようにしてゲームに係わっているのか、それも尽き止めなければならない。
五月蠅い四匹の謎は頭の中をブンブン飛び回り、井田勇《怒り》はというと、すでにこの時、叫ぶ気力も失っていたのだろう、館の通路は、吹雪の唸りだけが響いていた。
* * *
真っ青な空の下、おれは船を走らせた。やはり、気が急いていた。昨夜はほとんど寝れていなかった。半ば期待していた稲垣の幽霊は出て来るはずもなく、興奮状態からは抜け出せていない。
GPSスピードメーターの指す針は二十ノットをキープしている。とはいえ、潮の加減で速度は多少前後にブレる。行ったと思ったら針は戻る。
行ったり来たり、行ったり来たり。それはもちろん、おれが速度を制御しているためなのだが、当然メーターの針は先に進もうとしない。その様子に速度を上げたい衝動にかられる。この旅を早く終わらせたかったのは否定しない。だが、船を早く動かしたとして、時間は先には進まないのだ。
速度の自由が利かないと、時間を追い立てているつもりがおかしなもので、逆に追い立てられていて逃げているような感覚に陥る。目に入るパラダイスも、首都高で渋滞に嵌まった時に見える美しい夜景となんら変わらない。一分、いや、一秒たりとも早く渋滞を抜け出して家に帰りたい。
自由にならないとそんなものだ。開放的な南国にいて、おれは太い鎖でグルグル巻きのようであった。時間が解決してくれる、そんな類の問題ではないのは承知していた。なにか行動を起こさなければならない。しかし、打つ手は全て打ち尽くした。新たに打とうにも、今はその糸口すら見えない。
燃料メーターの赤い目盛。
いつみても、やはり赤かった。船には、問題はなかった。プロの目が証明したのだ。と、するならば夜な夜な現れたという人影は一体何であったのか。
心ここにあらず。オートパイロットの操舵で船は進み、気が付けば、津堅島に到着していた。手動に切り替え、速度を落としアフ岩に近付く。
アウトリーフとインリーフの境目に白波が立っていた。それは数百メートルの距離で島をぐるり一周しているという。サンゴの障壁で遮られている目一杯のところまで来て、おれは船を止めた。
それからしばらくはソファーでビールを楽しんでいた。すると腹も減って来る。例によってコーンビーフサンドを作り、ソファーに戻らずにキッチンで、ビール片手にかぶりつく。
階段の奥から横山加奈子が現れた。しかも、ご無沙汰だった水谷正人も一緒であった。