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まだある。昨日午後三時四十五分、沼田光を除き全員がリビングルームに集まった。それから十五分後の四時に中井博信《高慢》一人が部屋に引き上げたのだが、残りが引き上げ始めたのは午後四時十五分。その間、居住区画に居たのは沼田《貪食》と中井《高慢》の二人だけだった。
沼田《貪食》を殺し、一旦は部屋に戻って、午後七時に夕食をやり過ごし、午後十時に足が痛いと騒いだ大磯に椅子をリビングルームに取りに行かせた。この時に中井《高慢》は沼田《貪食》の部屋、宗教家の間に移ったのだろう。因みに宗教家の間と政治家の間は同じ列にあり、隣であった。
さらにはその一時間前の午後九時に頼んだウイスキー。注目すべきは、アイスペールである。蓋付ステンレス製の二重構造であった。氷の状態を長時間維持するのだろう。実証実験したいところだが残念なことに我々にそんな余裕はない。中井《高慢》にしたって二重構造のアイスペールを見て、ホッとしたであろう。氷の状態で最悪、氷の注文にもう一度、近藤を呼ばなければならなかったからだ。
つまり、アイスペールからして、さも花瓶を落とそうっていうのがありありなのだ。しかも、頼んだのは偽者でも何でもない中井《高慢》本人。あるいは用意周到に、氷の状態が朝まで持つような容器で持って来い、と第一秘書の大磯孝則に注文を付けたのかもしれない。今となっては確かめようがないが、それがなんとも引っ掛かる。
その中井博信《高慢》が部屋から煙のように姿を消したのは、確かに花瓶をテーブルから落とす仕掛けによるものだろう。それに、政治家の間の位置。宗教家の間と隣り合わせていたが、その反対側の隣は玄関ロビーへのドアスペースで広間になっていった。政治家の間に駆け付けてくる誰よりも早く、そして、誰にも見られずロビーに抜けられる。やつはまだ生きていてこの洋館に潜んでいる、としか思えない。
だとしたら、失われたノコギリを中井《高慢》は、どうしたのだろうか。それを手に持ち、居眠りしていた大磯孝則の前に立ったとでもいうのか。ノコギリなんてどの部屋にもある。それに政治家の間の窓の下の血。想像するにあれは沼田《貪食》の頭の血なんだ。それも、わざわざ沼田光《貪食》の部屋から持って帰ってきたんだ。そして、自分の部屋から投げ捨てた。
沼田《貪食》の部屋、宗教家の間の下はというと、ただ真っ白な雪で足跡一つなかった。死後、時間が経ち、積雪に消されたと思っていたが、違う。もともと無かったのではないか。宗教家の間の窓格子には血と皮膚が付いていた。それはゴリゴリと頭を擦り付けただけの跡だったんだ。つまり、そこに捨てたという偽装。それと同時に中井博信《高慢》はノコギリと沼田光《貪食》の頭を手にして、居眠りしている大磯の前に立ったということになる。
しかし、それは幾らなんでもあり得ない。居眠りしていた大磯が中井《高慢》に起こされ、目を覚ました時に驚かないはずはないのだ。あるいは大磯を起こす寸前、ドアを開けてノコギリと首を自分の部屋に投げ込んだのか。そうすればドアの音で中井《高慢》はあたかも自分の部屋から出てきたような錯覚を大磯に与えることが出来る。まさに一石二鳥だ。
そして、その首とノコギリ。首は窓から投げ捨てたとして、ノコギリはまだどこかにある。銃弾の有無でおれ達をかく乱させるために沼田《貪食》の頭を切り取ったとしたなら、これからの犯行もノコギリは必要となってくる。各部屋にノコギリはあるのだから、窓から捨てたとしてもおかしくないと反論があるかもしれない。だったらこう答えよう。ではなぜ中井《高慢》の部屋のノコギリは消えていなかったのか。犯人はそれを証明するかのごとく新たな殺人を犯すだろう。そして、その部屋にノコギリは残されている。それで皆は再確認する。ああ、これは沼田《貪食》からの一連の事件で、連続殺人犯は銃弾を増やしていると。
と、するならば、なぜノコギリなのかが問題だ。凶器は鈍器か、鋭利な刃物なんだ。直接死に至らしめた何かを持ち歩く方が犯人のアピールにつながるはず。なぜ犯人はノコギリを、敢えて選んだのだろうか。いや、もしかして計画外、橋本稔《妬み》のご高説通り、犯人はヘマをしたのかもしれない。だとしたら、そこから犯人の尻尾を掴めるかもしれない。
いずれにしても、大磯孝則が生きていれば、その証言で何もかもはっきりしたはずなんだ。部屋のドアの音で目を覚ましたのか、それとも中井《高慢》に声を掛けられて起きたのか。それだけでも中井《高慢》が生きているか生きていないかが分かるというのに。
そう思うと歯がゆくなる。その大磯は死んだのだ。黒覆面の男に、見せしめかと思えない方法で、だ。それはまさしく、衆議院議員中井博信《高慢》が死んだのを物語っている。もし中井《高慢》が生きていたなら、それは絶対にあり得ない。それがルールなのだ。
ルールというなら、それだけでない。おれの考えが正しければ、夕食から十時間、他人の部屋に入ってはならないという規定に中井博信《高慢》は抵触したことになる。一方でこういう考えもある。大磯孝則が殺されたのはそのためだったと。
例えばだ。まずは中井《高慢》がルールに反し制裁を受け、それで大磯が殺された。中井《高慢》が逃げたのは午前六時。それから午前七時の朝食が終わるまで、つまり、大磯孝則が殺されるまでの微妙な時間差。それはおれ達が知らぬところで繰り広げられた逃亡劇が原因だったのではないか。
いや、それは考え過ぎかもしれない。もしそうであれば、西田和義がロケット弾に吹き飛ばされたように、雪の中を死に物狂いで走る中井博信《高慢》がスノーモービルに追われつつ、自動小銃で蜂の巣にされて断末魔を上げる、そういった光景をリビングルームに集められておれ達はまざまざと見せつけられたはずだ。そしてその光景をバックに、逃げたらこうなるんですよ、って近藤が凄んでいる。
現時点、それは現実となっていない。あるいは、逃げおおせたのかもしれない。どちらにせよ、気になる時間差ではある。従者は主人が死んだらゲームオーバー。マスターと呼ばれる男は、近藤の口ぶりから分かるように、ルールに厳格なようだ。それが悠長に朝食後ってのは、なんとも滑稽だ。もし時間差がマスターの個人的な理由だとしたら弛んでいるとしかいいようがない。だが、そんなことはありえるのだろうか。
ルール。ノコギリ。大磯の死の理由。それがおれの頭の中で、蠅のようにブンブン飛び回っている。これらのどれか一匹でも捕まえることが出来れば、頭痛も少しは楽になるだろうに。
だが、まるで捕まえられる気がしなかった。新たなヒント、それも蚊取り線香のようなじりじりしたのではなく、キンチョール級のが必要だと思った。これ以上、おれは偏頭痛に耐えられそうにない。
突然、男たちの言い争う声が飛び込んできた。多分、声の主は大家《貪欲》、黒田、井田《怒り》だろう。飛び起き、ソファーを退けると通路に出た。
通路の一番奥、雇人専用の階段の手前、宗教家の間と通路を挟んで真向いに井田《怒り》の部屋があった。教育者の間、そのドアが開けられ、通路に橋本稔《妬み》が立っている。おろおろとしていたのがおれの姿を見るなり、走り寄ってきた。
「大家さんらが、教育者の間を占拠しています」