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「中井は午前三時まで生きていたんだよな」 大家《貪欲》が言った。「それをその目で見たやつはいるのか?」
面々は顔を見合わせた。声は聴いても誰も中井《高慢》の姿を見ていないのだ。某有名推理小説でも被害者がまだ生きているかのように犯人は、被害者の声真似をしていた。
「だろぉ」 大家《貪欲》は言った。「あの吹雪だ。館内もヒューヒュー相当響いていたぜ。それに中井さんの声は壁越しだろ。その実、誰の声か分かったもんじゃねぇ」
小西が言った。
「大家さんに考えがあると見受けられますが」
「問題はルールなんだろ? 連れ出して殺せばいい」
橋本《妬み》が笑った。
「それでも、政治家の間に入らないといけない。中井さんの死体は窓から投げ捨てられたんだ」
「そうかな。花瓶はフェイク。そして政治家の間は二階だ。だったらその下の一階ではどうだ?」
小西が手を打った。
「なるほど、中井さんの部屋の下は、一階通路。そう、玄関ロビーから使用人専用階段への抜けるあそこには窓が並んでいる。それなら雪の上の血は可能だ。で、大磯さんの狼狽えようは、どう説明します?」
「確かにやつは驚いていた。中井さんが部屋を出て行ったことを知らなかった証拠だ。犯人はどうやったか分からないが、大磯を出し抜いて、中井を部屋から誘い出したに違いない」
だが、そのどうやったかが分からない。大家《貪欲》のみならず誰もが無言となった。懸命に思考を巡らせているのであろう。吹雪の甲高い音が面々の間を駆け抜けていく。
小西が言った。
「では、花瓶のトリック。犯人はなぜ、あれを行わなくてはならなかったのでしょうか? 大家さんはフェイクだと申していました。ですが、中井さんを誘い出すにしろ、少なくとも犯人は、花瓶のトリックを施すために一度は中井さんの部屋にいたのです。一方で、大磯さんの協力があれば沼田さんの部屋であろうと、それこそ中井さんの部屋であろうと、どこへでも入れたという議論があります。ですが、あのとおり中井さんに限っては部屋に入れてくれそうにもない。大磯さん自身の命に係わりますからその点で言うと大磯さんは必死です。それにルールです。これが問題だ。夜は他人の部屋に入れない」
橋本《妬み》が言った。
「さっき言ったじゃないか。それは私らだけの話だろ。黒田君も小西君も狩場君もどの部屋だろうと入れる」
「ですから中井さんに限っては、私たちでも入れないと」 小西は、政治家中井博信《高慢》の性格を言っている。やつはおれ達を自分と同等に扱ってない。現に、自分の第一秘書でさえ部屋に入れなかった。
大家《貪欲》の相棒、黒田が言った。
「どうやって入ったか、そんなの簡単だ。井田がここにいるんだ。井田に訊けばいい」
「なにぃー」と、井田《怒り》は一吼えすると黒田を指差した。「覚悟しとけよ!」
「はぁ? 今のは宣戦布告と受け取ったぜ。暴れてもいいよな、皆様方よぉー!」
「ちょっと!」 小西が言った。「あなたたちがやろうとしているのは自滅ですよ。これじゃぁ犯人の思う壺じゃぁないですか!」
大家《貪欲》が言った。「黒田、止めとけ」
その一言で、今にも飛び出しそうな格好の黒田は椅子に腰と落とした。だが、目だけはまだ交戦状態のままだった。眼を飛ばしているというか、依然としてぎらぎらとした視線を井田勇《怒り》に投げかけている。
「井田さん、」 おれは見逃さなかった。井田《怒り》はテーブルの下で、何かを握っていた。「大事な銃弾だろ?」
井田《怒り》ははっとして、持っていた物を腹に隠そうとした。ところが手が震えていたのであろう、銃身がジャージのウエストゴムに引っ掛かって、物は床に落ちてしまった。
拳銃である。誰もが青ざめた。一触即発。銃撃戦になっていたのかもしれない。床で鈍く光る銃に、皆の視線が釘付けとなった。井田《怒り》はばつが悪くなったのか、転がった銃をひったくるように拾い上げた。
開いた口がふさがらないとはこのことだ。こんなことなら、おちおち話も続けられない。悲壮感が皆の表情に広がっていった。
小西が言った。
「今まさにわたしたちは壁にぶち当たっているというわけですね。だが、それを乗り越えなければなりません。マスターと呼ばれる男が作ったルール。近藤さん! ルールは本当に守られているんですか?」
近藤が言った。
「はい。監視カメラで全て把握しております。お望みなら、ですが、最後に残った方には全てお見せしましょう」
皆、唖然とした。誰が好き好んで死体をバラくのを見たいと言うのだ。帰れるとなれば、だれもがここの記憶を抹消したい。
小西が言った。
「となれば、考えるのは三つ。中井さんの部屋に犯人はどうやって入ったか。どうやってルールの抵触を回避したのか。失われた一つのノコギリとこの二つの事件の関連性。因みにノコギリは決定的な証拠になり得ます。我々の犯人捜しは推理のみですから、硝煙反応とかDNA型鑑定とか決定的な証拠がありませんし、自白も難しいでしょう。真相にたどり着けるかもしれないのが、宗教家の間から消えたノコギリなのです」
大家《貪欲》が言った。
「俺ぁ、やっぱり中井さんは誘い出されたと思うぜ。それでのこのこ着いていくとなれば大磯の手助けがいる。花瓶なんてもんは俺達を呼び寄せるための偽装。どうせ犯人の野郎は大礒の目の前で割って見せたに違いない。難しく考えるこたぁねぇよ」
井田《怒り》が言った。「まだ俺が犯人だと言ってるんだな!」
「ノコギリは一個のみ失われているんだぜ。つまり犯人は二つの殺しに関与している。大磯と組んで沼田を殺したのもあんただ」
「大磯さんと組めばいいというのなら、僕じゃなくてもあんただってやれるだろうが。現に大磯さんを勧誘していただろ?」
「いい度胸してるな。言っとくが、ここは学校じゃぁねぇんだぞ」
これ以降は水掛け論であった。少なくとも大磯の証言が取れれば議論の展開は変わっていたのだろう。そんなことを考えつつ、おれは快楽趣向家の間にいた。リビングルームは疾うに解散し、ドアに寄せたソファーの上でおれは横になっている。気圧の関係だろうか、横になって急に偏頭痛が襲ってきて、それが今でも続いている。窓の外はあいかわらず吹雪である。収まるどころか、ひどくなる一方だ。
衆議院議員、中井博信《高慢》が怪しい、とおれは思う。だが、それはリビングルームでは言えなかった。小西明の言う通り、ルールの抵触が壁だったし、ノコギリの件もクリア出来ていない。そして窓の下の血と足跡、それに大磯の死が問題であった。
どれもこれも、どうなんだと問われれば、明確な返答は出来ない。だが、あの密室において、中井博信《高慢》を殺すことが出来た人物、言い換えれば政治家の間にどうやって入ったか、を散々、論じてきたはずだ。あの部屋には誰も入っていない。おれの考えでは、中井博信《高慢》自身でしかなかった。
午前三時。大磯孝則が眠ったと言うので中井《高慢》の怒りをかった。それからして一見、いや、一聞と言おうか、中井《高慢》が部屋から大磯の様子を覗き見て、このやろぉ寝てやがる、ってな姿を想像してしまう。だが、そうではなかったとしたら。例えば、沼田光《貪食》の部屋、宗教家の間から通路を覗いて、大磯が寝ているのを中井《高慢》が確認していたとするならば。それで、さも、自分の部屋から出てきたようにして大磯を叱り飛ばしたとしたならば。