51
気持ちは分かるのだが、やっぱり馬鹿じゃないかと思った。要は怖気ついてしまったということなのだろ? それならそうとはっきり言えばいい。それに橋本稔《妬み》は、中井博信《高慢》の時に分かったはずだ。苦労して部屋を調査しても、結局はリビングルームで公表するんだと。部屋の間取りや装飾はどれも同じ。報告された中で理解しがたい事が有りはしまい。
一方で、教育者の井田勇《怒り》は違う。分かっていた。やつの目的は真実でもなんでもない、拳銃なのだ。中井《高慢》の時も拳銃を懸命に探していた。もし、誰にも知られず、どさくさ紛れに銃弾を手に入れられればこれ以上のアドバンテージはない。だから、どうしても宗教家の間、沼田光《貪食》のところへ行かなければならなかった。案の定、井田勇《怒り》は言った。
「僕もこの目で真実とやらを確かめたいと思う」
なんにしても、これで決まった。井田《怒り》、小西、おれの三人で宗教者の間に向かうことになった。その間、他の五人は互いが互いを監視するという理由からリビングルームを離れないと申し合わせていた。
で、沼田光《貪食》のことだが、十中八九、殺害されている。もちろん、そうでないと思いたい。そして呪いの言葉、『この中に犯人がいる』にあらがいたい。だが、現実は直視しなければならない。状況を見極め、全てを明るみにし、おれを含め八人からしっかりと膿を出す。助けを待つにしろ、脱出するにしろ、それは必須なのだ。
それにしても代議士の中井《高慢》だ。不可解だとしか思えない。犯人にとっては大変な労力だったろうになぜ『失踪』を装う必要があったのか。他に何の意味があるのか。考えられるのは銃弾だ。つまり失踪ではなく、銃痕を隠したとしたならば。あるいはその逆で銃痕がないのに有ると見せかけたいのか。
おろらく犯人は、銃弾の使用不使用を煙に巻こうとしているんじゃないか。もし使用していたのに、していないと皆に錯覚させることが出来たなら、銃を見せただけで十分脅しにはなるし、その逆はというと、相手を油断させて銃弾を撃ち込むってことが出来る。事実はどうであれ、迷わされるだけでも各々の思考が混乱させられるし、それでもって八人の分裂も誘える。犯人はそういった効果を狙っているのではないだろうか。
おれたち三人はロビーから階段を昇り、居住区画に入った。宗教者の間は政治家の間の隣で奥側。その先は雇人専用の階段があり、さらにはどん詰まりとなる。
ドアノブを握った。考えてみれば、マスターと呼ばれる男はすでにこの中で何が起こっているのか分かっているはずだ。各所に配置された監視カメラ。そして、例の塔に送られる映像。衆議院議員中井博信《高慢》にしたってそうだ。死体が切り刻まれていく様はマスターにとって血沸き立つというか、胸がすく思いだったのだろう。せせら笑っていたに違いない。
ともかく、ドアを開けなくてはならない。教師井田勇《怒り》もミステリ好きの小西明も固唾をのんで見守っている。ノブをひねって、押した。
死体がそこにあるのは大体予想は出来ていた。中井博信《高慢》の遺体が切り刻まれていく光景もリアルに想像しえた。だが、現実にそこにあるのは違った。
まず、鼻をつく異臭がした。次に死体である。首がない。パッと見、仰向けかうつ伏せか分からなかったが、腹の部分が山になっているので仰向けなのだろう。死体の周りの床は赤く染められ、古くなった塗装のようにカビカビになっている。なにより、恐ろしいのは悪魔像だ。死体から均等の距離で円を描いて七つ置かれている。
目を見開いて、おれら三人はその光景を凝視していた。が、それも一瞬だったのだろう。脳内ホルモンが脳の時間認識を破壊したに違いない。随分長い間、沼田光《貪食》の死体を見ていたような気がする。
そのくぎ付けになった視線を外させたのが、またもや体の反応だった。唐突に込み上げてきた。胃の腑にあった朝食だ。それはおれだけではない。ドアの前にいる全員が全員、目を背けて反対側の井田の部屋、教育者の間の壁に手を付けて、おう吐した。
あれは一体何なんだと思った。ドアを開けるまで中井博信《高慢》のこともある、色々想像したし、心の準備をしていた。だが、現実はそれをいとも簡単に飛び越えていった。これはそう、まるで悪魔の儀式。
「近藤! 近藤!」
廊下を這うようにして、おれは開いたドアノブに近付いていった。執事の名を連呼しつつ、ドアノブを握ると後ろに転げるように下がる。ドアはおれを追うように動いて、閉まった。
あまりのショックに、仕切り直しが必要だった。ここに来た時の、正常な精神状態に戻さなければならない。いや、そもそもが正常とはどんなのだったろうか。
そう、口生意気なイラストレーター沼田光《貪食》は殺されているんじゃなかろうか、そんな風に思っていたんだ。それで証拠をつきとめて、結束を守るために不穏分子を排除しようとしていた。が、のっけからつまずかされた。相手は一筋縄でいかないどころか、完全に頭がイッちゃっている。
いやいや、そうじゃない。このショックはイカレ野郎云々ではない。魂が慄いている。震えているんだ。誰しも死んだら天国に行きたい。雲の合間から光が差し込み、エンジェルと戯れながら天に昇って行く。ところが、ドアの向こうではそれが全否定されている。悪魔が現れて沼田光《貪食》の魂を喰らう。そして、悪魔に望みを問われる犯人。あるいは、悪魔像の円の中に地獄の亡者がドッサリ現れて、沼田《貪食》の魂を奪い合う。はたまた火車が、もうもうと炎を巻き上げ走って来たかと思うと沼田《貪食》の魂をガバッとラチって消えていく。あるいは、あるいは、あるいは。
「どうかなされましたか?」 近藤である。いつもと変わらぬ微笑をたたえている。
どうかなされたかって! 「部屋を見てみろ!」
「どなたの部屋ですか?」
唖然とした。
「てめぇは知ってんだろ!」
「はい。存じ上げています」
「じゃぁ、なんで!」
「明確に御指示を頂かないと、わたしとしても動くに動けませんので」
「もういい!」 何を言ってもふにゃらふにゃらと返答されるだけだ。
「あ、吐かれたのですね。こんなに汚してしまって」
「後で掃除する。だまってろ!」
「それは私共の仕事ですが、よろしいのですか。無理なさらずにお言いつけ下さい。で、今からにしますか? それとも後で?」
「じゃぁ今すぐだ。今すぐやれ」
近藤は言った。「かしこまりました」
ポケットから呼び鈴を取り出し、近藤はそれを振った。館内のどんよりとしていた空気を浄化するかのように高く鋭い音色が館の隅々まで伝わっていった。
すぐに黒覆面が二人現れた。それが何をすべきか分かっているらしく、指示がなくても通路と教育者の間の壁を掃除し始めた。おそらくは例の塔で、モニターしていたのであろう。
おれたち三人は腰が抜けたように通路に座り込んで、それを眺めていた。ものの十分ぐらいか、壁もウールの敷きものも、見事に奇麗にした。それで黒覆面二人は去っていった。
近藤が言った。
「他にご用は?」
とぼけやがって! いい加減頭に来た。近藤の胸倉に掴みかかった。
近藤が言った。「それはいけません。わたしに歯向かうことはマスターに歯向かうことと同じになります」
クソ! 胸倉を掴んだ手を捨てるように離した。
「もういい! 返ってくれ!」