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心配なのはそういうことじゃないんだ。
「そこじゃありません。さっきも言ったようになんか変わったものが既存の機械に付いていたり、あなたが見たことのない艤装品が付いていたりするか、ってことです。どうです?」
「どうですって言われましても。ですが、わかりました。早速、見てみましょう」
が、結局、変わったものはなにも発見されなかった。佐藤はというと、いつの間にか機関室に戻って来ていて興味の任せるまま見学している。宮里が言った。
「キャビンの方もみましょうか?」
「お願いします。時間も気になりますし、メインキャビンは見ましたのでロアーデッキの方を」
三人はキャビンの隅から隅をあたった。だが、出てくるものは何もなかった。ご満悦に佐藤が言った。
「な、だから言ったでしょ。あれは幽霊だったんさぁ」
宮里が言った。
「もういいですか? 狩場さん。そろそろ出航前の点検をしないと」
納得するしかなかった。これだけ探しても不審な点が見つからないのだ。この船を隅から隅まで知り尽くしている宮里がいてもだ。
エンジンを始動させ、宮里は機関室に戻った。動いてみなければ分からないものもあるのだろう。だが、五分後には戻ってきて、快調です、と言って帰ってしまった。
気付けばもう二時五十分。そろそろ山下らがこぞってやってくるころだ。茫然として、メインキャビンのソファーに腰を下ろした。
どうすればいいのだろう。思い悩んでいると、なぜかワインを抱いた佐藤がおれに続いてソファーに座った。たぶん佐藤はワインのこともあって、落ち込んでいるおれにさよならを言いづらいのだろう。
二人の間に妙な空気が流れ始めた。いたたまれずにおれは言った。
「持ち歩いていてはワイン、割れてしまいますよ」
「すいません。じゃぁ、お言葉に甘えて」 佐藤が立ち上がった。が、また、腰を下ろした。
「他人の不幸に付け込んだようでなんだか後味が悪い。ワイン、返します」
と言いつつも、佐藤の手はワインを離さない。思わず笑ってしまった。
「そんなことは言わないでください。佐藤さんは十分助けになりました。それはお持ち下さい。それにほら、まだいっぱいある」 ソファーから立ってワインセラーを開けて見せた。
「そうですか?」 佐藤ははにかむような笑顔を見せた。
「ところで、あなたの船、ビーナスっていうんですね」
「いいましたっけ?」
「さっき、謝っていたじゃないですか、自分の船に」
「あ、あれ? お恥ずかしい。嫁みたいなもんですからね、あの船はぼくにとって」
「なんで謝っていたんですか?」
「稲垣さんの船が美しいと思ったからです。エレガントで、キュートで。それに比べ家のビーナスは古女房、怒らせたら目も当てられない」
「佐藤さんは詩人なんですね」
「いえいえ、ただの酔っ払いです」
「ところで、エレガントで、キュートなこの船、一体なんていう名前でしょうね」
「あ、そういえば稲垣さんから聞いたことないな。宮里さんなら知っているかも」
佐藤はガラケーを手に取った。
「いや、いいんです。聞いてみてがっかりすることもある。案外、男の名前だったりして」
二人は笑った。
桟橋から、幾つもの足音とキャスターの転がる音が聞こえた。サイドウィンドウからビーナス号越しに四人の姿が見える。先頭を山下賢治、次に横山加奈子と水谷正人、その後ろに島田恵美がいた。なぜか、その表情は一様に不機嫌そうだった。BMWカブリオレはなにをしていたのか。全く役に立たなかったと見える。
果たしてぞろぞろと稲垣の船に上がって来たかと思うと四人の中の一人、横山加奈子が脱色したソバージュを振り乱し、火を噴いた。
「あんたねぇ、私たちの敵なの? 味方なの?」
小柄だが、その大迫力に圧倒された。どういうことか? 面食らって頭の中が真っ白になった。横山加奈子が続けた。
「陽一君に何を聞かされたか知りませんがあなた、賢治君に幽霊が出るとか変なこと吹き込んで、それでなんなの、あの国際子供なんとかっていうやつ。武内って女、ずうずうしいっていうか、ムカつく!」
稲垣の幽霊なんてあまりに出来過ぎで、四人がおれを疑うのは必然だといえる。しかも、おれは出航しなくてもある程度の金が入って来る。稲垣の造った仕組だった。
それにしても、と思った。ずうずうしいってどういうことだ? おそらくは、武内忍とこの四人は空港で出会った。それしか考えようもない。
横山加奈子が言った。
「答えなさいよ! あなた!」
その言葉で、おれはブチっと切れた。「あんたねぇ、その言いようだと山下さんを待っている間、その国際子供なんとかの武内忍と茶店で一緒にお茶したってことになる。本来のあんたなら、武内見るなり追っ払ったはずだ。が、そうしなかった。理由があるのだろうけど、それをおいといておれに文句を言うってのはお門違いというか、馬鹿としかいいようがない」
図星のようであった。横山加奈子は口をつぐんだ。が、怒りはさらに燃え上がったようだ。満面朱にそそぐありさまで、それを見かねたのか、島田恵美が口を挟んできた。
「狩場さん。TeLEXって会社、ご存知かしら」
どいつもこいつもムカつくが、目の前にするとやはり島田恵美は抜群にかわいい。っていうか四十五にもなる女にそんな評価を下していいものだろうか。
童顔というわけでもないし、メイクも凝っているわけでもなく、世間で言う美人なわけでもない。天然とか、不思議ちゃんっていうのとも違う。あ、そうか、こういうのを男好きする顔っていうのか。
決して美人の条件に入らないやや垂れ下がった目尻。母性をくすぐるとは良く言うが、この場合、父性をくすぐるってことなのか。なんたってまた唇が魅力的だ。厚いのにいやらしくない。吸い付きたいというより、指先で感触を確かめたいって感じだ。
そうだ。おれは島田恵美に質問されていた。「モバイルのポータルサイトの会社だろ。それがなにか?」
「では、そのTeLEXの社長をご存知ですか?」
「ご存知って、誰でも知ってんじゃない、そんなの」
「それはニュースのコメンテーターでとか、雑誌の記事でとか、という意味ででしょ」
「でしょって、あんた、おれがあの有名な望月望と会った、ってな言いぶりだな」
「そうです。そういう意味でご存知かとうかがっております」
おりますって! 「ないね」
「じゃぁ、森つばさが何度かTeLEXのサイトに電子書籍で取り上げらているのはご存知で?」
「『森つばさフェアー』とか? それってもしかして『それぞれの翼シリーズ』を電子書籍でもう一回売ろうっていうの? 切創がないというか、あれをまた売ろうってぇのか。冗談じゃない」
『それぞれの翼シリーズ』とは、大学を卒業したばかりの若者らが会社に入って恋をし、社会の壁にぶつかって乗り越えていくというラブストーリーのシリーズで、十年くらい前に横山加奈子改め森つばさはこれで一世を風靡した。おれはそれを馬鹿にした。当の本人、横山加奈子がそれを許せるだろうか。案の定、言った。
「冗談じゃない? あんた、絶対許さないわ!」