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肩を落とし、そして去って行こうとする佐藤。かわいそうに、と思った。叩き起こし呼びつけたのは他でもない、おれだ。
「お帰りですか?」
佐藤は答えなかった。うつむいて立ち止まっただけ。どうやら穴があったら入りたい心境なのらしい。
「ちょっとそのままそこにいてください」
メインキャビンに飛び込むとワインセラーからワインを一本取り出して、船を下りようとする佐藤の前に立った。
「あのぉ、点検に来るその宮里さん。三時に来ていただいてもどうしようもなかったと思います。点検は今必要なんで、呼んで頂いた佐藤さんには感謝しています」
聞いてるか、聞いていないのか。佐藤はうつろな目をしていた。それがおれの手のワインを見ると豹変する。
「それ、くれるのか?」
おれはうなずいて見せ、ワインを差し出した。まるで赤ん坊を受け取るかのように両手を差し出した佐藤。おれはその手にワインを置いた。受け取った佐藤はラベルをまじまじと見て、そして胸に抱いて、言った。
「有難うございます。で、なんで急いでいるの?」
声がうわずっていると言うか、声色がキモイと言うか、佐藤の変わりよう。酒の力はやはり偉大だ。
「失礼かもしれませんが、佐藤さんの見た人影、幽霊じゃないとおれはみています」
何者かが航海を妨害しようとしていること、それによってその何者かがなんらかの利益を得ようとしていること、そもそもこの航海が稲垣陽一の遺産分配を決めるためであることを説明した。
「それで船を点検したいというわけか」
「そうです。外洋でエンジンが止まったらことですし、それこそ爆弾でも仕掛けられているとなったら洒落にもなりませんからね」
「それは何とも言えないが、あんた、相当うがった見方をしているんじゃねぇか。世の中には理屈では説明できないことが沢山ある。が、おもしろい、ちゃぁおもしろい。徹底的に調べようじゃないか」
機関室の点検は、間もなく来る宮里という男に任せようってことになって、二人は各キャビンを手分けして有るか無いか分からない何かを探す。皆藤の死体のあるメインキャビンは当然、おれの担当である。ロアーデッキは佐藤の担当。
いいなぁ、いい船だなぁと下の階から声が聞こえて来る。佐藤は探すのをそっちのけで船の見学をしているのだろう。
しばらくして宮里が現れた。渡された名刺にはマリーナ専属のメカニックとあった。佐藤を呼ぶ。
三人雁首合わせると、おれはあらためて来てもらった理由を説明した。大事そうにワインを抱いて放さない佐藤はニヤニヤ笑っている。宮里はというと、キョトンとしていておれの言っている意味がよく分からないようだった。佐藤が言った。
「宮里さん。点検の依頼について、稲垣さんはなんと?」
「出航前の点検と狩場さんに船の説明を。稲垣さん、一つ言い忘れたようで」
「忘れた? おれに? 何でしょう」
「バッテリーの件でして。この船はスターターバッテリー二個、ディープサイクルバッテリー二個、それぞれがサブバッテリーチャージャーを使用して主機のオルタネータに繋がっています。スターターバッテリーはエンジンの始動とGPSなどの運航システムに、ディープの方は空調や家電などのアクセサリーに使用しています。稲垣さんはそれらがヘタった場合の切り替え方法とそのスイッチの場所を狩場さんに伝えてなかったとおっしゃってました。それと、発電機の作動方法も、です。六月に陸揚げした際、バッテリーはすべて更新しましたので、たぶん最初の三四日は発電機を動かす必要もないでしょうが、それ以降ともなると」
佐藤が言った。「そりゃ、大事なことだ。海だからJAFは来ねぇぞ」
「分かってます」
「ほんとに分かってるのかぁ。BANを呼べたらもっけものだが、海保だとへたすると救難者扱いだ。で、狩場さん、この船には国際VHFの機械があるけど、免許、取ってる?」
国際VHFとは、国際条約に則って外国船との衝突回避や遭難信号に使われる無線である。稲垣の船には国際VHF機器が備えてあった。
「いいえ、でも使えるんでしょ」
「まぁ、機械があるんだからな」
「そんなことより宮里さん、さっき陸揚げしたって言ってましたよね」
「あ、はい。その時に燃料タンク内とフィルターの洗浄、インペラ、Vベルト、コンパニオンフランジの交換、ミキシングエルボは交換だけでなくその周りのコネクターや管もくまなく点検しました。あとポンプのボルトの緩み、プラグコード、キルスイッチの接触不良や配線の劣化状態も点検済み。すべて良好です。あっと、バッテリーターミナルはすべて変えさせてもらいました。ちょうどバッテリー本体を変えたことだし、ちょっとでも悪かったら替えてくれとの稲垣さんの要望でして」
「じゃぁ、隅々まで見たと?」
「ええ。船底はもちろん内装もヘタっているのは修復しましたし」
「今見たら、その時と変わったところが分かりますよね?」
「あ、はい、そりゃぁもう」
早速リアハッチを開け、機関室に入った。宮里が言った。
「エンジンはボルボ製、船を造った会社はフェレッティのリーバです」
佐藤が言った。「アラン・ドロンやカーク・ダグラスが所有していたという?」
イタリアの高級ボートブランド、フェレッティグループ。その傘下にリーバがある。海に出るならリーバだと世界の成功者に言わしめるほど高い品質とデザイン性を誇っていた。
「アラン・ドロンか」 それで、太陽がいっぱいか。あいつは子供の頃からずっと憧れていたんだ。
一方で佐藤はというと、機関室を出てトランサムステップにいた。自分の船にペコペコと頭を下げている。
「ビーナス。僕の船よ、僕の妻よ。悪かった。ちょっとでもおまえ以外を美しいと思ったぼくは何て罪深い男なんだ。このとおり許しておくれ」
宮里は佐藤を放っておいて、稲垣が言い忘れたという件の説明を始める。左舷の壁に二つの操作盤があり、その一方を開け、これがスターターバッテリーの操作盤です、と前置きする。縦向きのレバーがあり、その上と下にインジケーターがあった。№1、№2とそれぞれ表記されている。
現状、インジケーターの上下共、ランプの色は緑だった。宮里は、一航海ごとに№1と№2を切り替えるのが基本ですが今回は二日目安で切り替えて下さい、と注文を出す。№1主機系統のバッテリーと、№2とを交互に使おうというのだ。
「インパネの方でもこれは確認できますが、そのインパネのインジケーターが赤になったら半日だろうが一日だろうが切り替えて下さい。GPSも電圧が落ちると電力低下の表示が出ますのでその時も同じです。スターターバッテリーは特性上、電気を使いきってしまうと元の性能には戻りません。だから、絶対にお願いします。ディープサイクルの方は空っぽにして一から立ち上げても問題はないです」
宮里はもう一方の盤を開けて、ディープサイクルについても注意をうながす。
「だた、アクセサリ用のディープサイクルはインパネでの確認は出来ません。一日二度はここのインジケーターを見て下さい」
やはり縦レバーの上下それぞれにインジケーターがあり、上下とも今は緑色を示している。空調とか家電とかに使うディープサイクルの方がスターターと比べ、№1と2の交代サイクルが早いのは確かに道理だ。
「何か問題があって両方とも使い切ってしまったら発電機を回すように」
と、宮里は指図し、発電機の作動方法をやって見せる。そして、ディープサイクルバッテリーが満タンになるまではこの発電機をアクセサリー用に使って下さい、と言っておいて、よっぽどおれが不安そうな顔をしていたのだろう、微笑みかけて来た。
「六月七月は二週に一回、陸電でバッテリーの状態を確保しました。エンジンもその時に動かしています。良好でしたよ、すこぶる。それにその時、掃除のおばさんも入ってもらっていたし、心配しないでください、この船は大丈夫ですし、これから来るお客さんにもこの船での旅は気に入ってもらえます」