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「それで稲垣は夜な夜な夢に現れて、あなたは苦しんでいる。だがなぜ、あなたなのですか? 稲垣は別の人のところへ行っていいものでしょ」
「稲垣は僕に言いたいことがあると思うんです」
言いたい? なるほど、島田恵美か! この男、それで負い目を感じている。って、そんな風にも取れるが、揺さぶってみるか。
「あなたのその話、話す相手が違ってるんじゃないですかね、おれじゃなくて」
「話す相手?」
「ちょうど今日、四人揃う。このことを他の三人に話してみてはどうですか?」
案の定、山下賢治は言いたくないようだった。口ごもってうつむく。これをどう取るべきか。山下の心に何があるのか分からないが、稲垣に罪悪感を抱いていて、そういう人間だからこそ弱い部分を仲間に気取られたくない。周りから人が離れて行くなんて耐え難いことなんだろう。そして、これがもし芝居ではなく率直な反応だとしたら、見栄っ張りで気持ちの弱い、いわゆる一人では何もできない人間だ。
あるいは、船に幽霊がいると信じ込ませるための前振り、つまりはミスリード。ってまさかな。船の人影自体は誰にも気付かれたくないと思っているに違いなく、おそらくは誰にも気付かれていない、とでも思っているはず。だが、あえてぶつけてみるか。何か分かるかもしれない。
「実はね、これから航海する船に稲垣の幽霊が出るって話があるんです」
「え、それはほんとですか」
「隣の船主が見たそうです」
「稲垣の船ってどこですか?」
「マリーナに真っ直ぐ桟橋が延びているでしょ。そこからまた右、左と桟橋が延びている、ほら、魚の骨みたいでしょ。稲垣の船は左側の小骨、その一番先」
指を指す。「突端のあれ、あれですよ」
並ぶクルーザーの中でも一番に目を引いた。他より一回りも二回りも大きく、デザインもどこか垢ぬけている。船体は重厚感を覚える一方で、上部構造は流れる雲のようだった。山下賢治は言った。
「行きましょう、あそこに」
予想外の反応。「稲垣が夢に出てくるんでしょ。幽霊、怖くはないんですか?」
「稲垣が僕に何かを伝えたいのなら聞いてあげなくては」
あれほど怖がっていたのに?
この男は五百億争奪戦が有利に働くよう同情をかおうとしている。あるいは、稲垣と一番親しかったのを誇示して正統な後継者を気取るのか。それとも、幽霊を怖がらないのを見せつけ、罪悪感なぞ微塵もないよと他の三人に示そうとしているのか。
いや、そうじゃなく、幽霊がいたということにして人影は実在の人物じゃないとしたいのか。いずれにしても、稲垣の船に夜な夜な現れる人影が何であるのか、おれに言い当てられないのはなんら変わりない。
少なくとも、山下賢治が幽霊を恐れて、帰る、といいだしたなら、人影は山下賢治ではない。五百億の権利を放棄したことになるのだ。そういうやつが船に細工はしない。そこなのだ。幽霊がどうのこうのではない。船が無事帰って来られるか。
ともかく、山下がボロを出さないか、船へと上がる山下の反応をうかがう。と、いうおれの目を知ってか知らずか山下賢治は、これが稲垣の船か、とあちこち歩き回った。
「家もすごかったが、ここもすごい」
稲垣の家の立地面積は七、八十坪ほどか。鉄筋コンクリート二階建ての立法体で窓が規則正しく配置されていた。漆喰とかガーゴイル像とかの装飾はないのだが、ただ、木製の玄関ドアが来る者を驚かせた。西洋の古い教会の扉を思わせる、馬鹿でかく、高さでいえば一階を突き抜け二階まで達する扉だった。実用的とは言えず片手での開閉は到底無理で、体重を預け、足の筋肉をフルに使って開け閉めしなくてはならない。だから、風の強い日には動かせず、そんな時のために人ひとり通れるドアが扉についている。言うなればペットドアの人間版か。
片開き三尺間口でそれを開けると室内は吹き抜けである。一階は大空間で、浴室、トイレ、化粧室、衣類専用の部屋が奥に固められ、それ以外にはまったく仕切り壁がない。
二階の方はというと、玄関に向けてコの字型に床を張り出していた。まるでバルコニーのようである。一階同様仕切りのないデザインで右からぐるりと見渡すと、寝室スペース、キッチンリビングのスペース、そして、躯体側の壁が本棚の仕事兼書斎のスペース。玄関ドアを囲んでそれぞれが配置されている。因みに山下賢治はその家に泊まらなかったという。
家自体が一つの部屋というか、客が女だったらいいだろう。それならば大きさはともかく、大学生が独り住まいに女を連れ込むのに似ている。実際は互いにいい年こいた男二人なのだから照れくさくいというか、山下賢治にとっては一晩を明かすにはつらすぎたのだろう。その気持ちは分からない訳でもない。実際おれも泊まるのを断ったんだから。
船の、メインキャビンからロアーデッキ、アフトデッキからフライングデッキへと歩き回る山下賢治に不審な点は見当たらなかった。この男が毎晩この船に来ていたとして、果たしてこんな風に、初めて来たたような、自然な芝居が出来るだろうか。だとして、それが本当に芝居だったら、相当なトレーニングを積んでいたはずだ。始めてきたという体裁をこの山下賢治は完璧に演じ切っている。
だが、そんなことがあろうか。まずいな、と思った。山下賢治が人影じゃなかったとして一体だれがそこにいた? それが分からないまま、おちおち航海なんて出来やしない。
いや、まだ方法はある。船に仕掛けられた罠を発見することだ。何の意味もなく人影は何日もこの船には来まい。きっと目的があったはずだ。そっちの方を当たってみるか、と頭を切り替えた。先ずは山下賢治を追い払う。こうなることも想定していた。追い払う方法もちゃんと用意してある。
「狩場さんはどう思います?」
いきなりの山下の質問に、ぎょっとした。「どう思いますって、なにが?」
「陽一がここにいるのを感じるかってことです」
おれは美輪明宏じゃないってぇの。が、一応、幽霊がいるってしていた方がこのあとの展開には都合が良さそうだ。
「やっぱり、やつがいるとしたならこの船だな。船が好きだったし、ずっと前からこんな船を買いたいって言っていた。そのためにサラリーマンを辞めたようなもんだしな。ま、結果的にはやつは必要以上に稼いでしまったがな」
「狩場さんは陽一をよくご存じなんですね」
人当たりのいいところがこいつのいいところか。そりゃ、女を奪われてしまうってぇの。なぁ、稲垣。
「いいや、そんなには知らない。やつは自分のことを話したがらなかったし。それより山下さんの方がよく知っているんじゃない? いろいろと」
「え? いろいろと、とはどういうことでしょうか」
どういうことかって。おれとしたことが逆に揺さぶりをかけらている。全員に配布されたファイルのこともある。おれがあんたらに反感を抱いているかどうか、確認したいという訳だ。
「おれはあんたらと違って稲垣の笑顔を見たことはない。そういうことだ」
上手く誤魔化せたのか?
「稲垣の笑顔。写真、ですか。花火の?」
うなずいて見せた。
「あの時はたのしかったなぁ。狩場さんもそういう時、あったんでしょ」
四人に批判的なところを今ここで見せてはいけない。
「ないね。ずっと一人だ」
「まじですか。そりゃ、すいません」
「いいえ。それよりも他の三人、彼らを迎えに行ってはどうだ。車はほれ、乗って来たのがある」