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 ともかく、大磯がいるのだからと、おれは寝ることに努めた。いざという時は腹をくくって挑まなければならない。ロケットランチャーなぞを持つ相手は、いずれにしても反政府組織なんだ。行動の選択肢に入れてはいないが、逃げるとなればまず間違いなく、派手なことをしなくてはならない。


 体力の回復は最優先なのだ。望月望もちづきのぞみは頭に来るが、そのことは一旦忘れることにしよう。


 だが、はたと気付いた。快楽趣向家の間にある唯一の窓はこのリビングにある。ふぶく雪が窓明かりに照らされ、漆黒の闇を灰色に変えていた。そういえば、ダイニングルームで食事していた時も雪を見ていたが、幻覚は見なかった。


 昨年の夏、沖縄の海でおれは小説家森つばさ(横山加奈子)にこう教えてもらった。ヨーロッパの言い伝えでは、蛾は死者の魂の化身だと。死んだ人の口から生まれたり、それこそ幽霊の周りをひらひらと飛び回ったりするとも言う。


 確かにその迷信は、あながち間違ってはいないのだろう。稲垣陽一が夢の中で蛾になって舞うのだ。夜の海を走るクルーザーを先導するように、舳先で大きな羽を羽ばたかせ、クルーザーはというと、その鱗粉に包まれている。そして蛾は、時折振り向いておれに向かって笑顔を見せる。


 そうなんだ。幻覚だけではない。雪を見れば必ずその夜は悪夢を見る。そのことをすっかり忘れていた。だが、それは仕方ないことだ。いきなり爆弾付の娘を預けられ、群馬くんだりまで来させられ、ロケットランチャーがぶっ放される。しかも、七つの大罪ときた。もう、むちゃくちゃとしか言いようがない。


 沖縄の海もそうだった。一生に何度も起きてはいけないことなのに、それが去年今年と立て続けなのだ。我ながら呆れ返る。悪魔に幽霊、なんでも来いって感じだ。一体おれに何をさせたいのかと神様に問いたくなる。そして、言いたい。いたいけな無神論者の一般市民ではなく、こういうことはあなたの可愛い信者、エクソシストに頼んでくれと。


 とこかく、幻覚を見なくて安心はした。悪夢も大丈夫だろう。目を閉じると、疲れもあってかすぐに寝入ってしまった。そして、淡い期待はあっさり裏切られ、悪夢はちゃんと現れた。芸能人田中美樹《姦淫》を川崎で車に乗せた時、死体袋がアクアのボンネットに落ちて来た。黒光りするビニル質の死体袋、そのファスナーのスライダーがジジジと誰の手も借りず、自らの力で動き出す。


 ファスナーの全てのエレメント(務歯むし)が解き放たれようかと思った瞬間、おれは目を覚ました。時刻は午前二時だった。汗びっちょりで、我ながら言うのもなんだが、恐怖のほどがうかがい知れる。もう寝る気も失せて、体を起こしてソファーでぼーっと座っていた。それが午前三時になって、はっとする。また中井《高慢》と大磯だ。


 見張りをしていた大磯が寝てしまっていたようだ。それを中井《高慢》に見つかって叱られている。他の連中もこの声に起こされているんだろうなと思った。ドアの向こうから中井《高慢》の声がガンガン聞こえてくる。そして案の定、助け舟を出す者は誰もいない。係わりたくないのだろう。それはそうだ。相手は衆議院議員なのだ。普通だったら大家敬一《貪欲》が、うるせぇーって怒鳴っていいもんだが、やつにはやつの事情がある。無事、皆で帰れたとして、ここで衆議院議員と喧嘩するのは得策ではない。


 言いたいだけ言って、中井《高慢》の怒りも納まったのであろう。これでも読めという声が聞こえてきた。本? 読めと言っているのなら本なのだろう。


 凶器になり得る、この館の外から持ち込んだものは没収というルールがある。本は当初の身体検査で見逃された、ということか。考えてみれが寝室に聖書があった。流石の中井《高慢》でもそれを読めとはまさか言わない。かえって寝てしまうのだ。十中八九、中井《高慢》は本を持ち込んだ。


 衆議院議員がどういう本を読んでいるのか気になるところだったが、やはり心配なのは大磯だった。見張りなのだから寝るなと言うが、そんなの土台無理な話なんだ。彼もくたくたに違いない。本なんて渡されても何の足しにもならないだろうに。


 目を擦った。大磯が寝られないことを考えたら、なんだか眠たくなってきた。悪夢もあったが、どうせ逃れようもないんだ。幻覚がないだけまだましだと思えばいい。ここは大磯に甘えて、眠らせてもらうよ。すまないね、とおれはソファーに横になった。






 *      *      *



 沖縄のホテルは角部屋だった。ずっと前に一度、なにがしかというビジネスホテルで幽霊らしきものに出くわしたことがある。廊下へのドアが勝手に開いたかと思うと鼻歌らしき音が聞こえ、その音だけが部屋の中に入って来て電気ポットの前で止まる。姿なき者の鼻歌はそこでも止まず、さらには水の沸騰する音が鳴り、次いで聞こえたのがパッチっというスイッチが跳ね上がる音。


 真っ暗闇の中、恐る恐る向きを変え、ベッド脇のデジタル時計の数字を確認する。緑色に光る数字はきっかり二時。そして、頭によぎったのはこのホテルには幽霊が出るとの噂。


 といっても本心、幽霊なんて信じていない。訳が分からないだけでしっかり調べれば原因が特定できると考えていたし、事実、偶然であるがひょんなことから真相を得られた。数年後に泊まった別のホテルでポットの注意書きにこうあった。水を入れておけば突然湧き出すことがある。


 つまり、有り得ないとの思い込みが幽霊を作り出した。夢うつつだったこともある。あるいはそれが丑三つ時、幽霊が闊歩すると言われる二時だったことも影響したのだろう。始めに幽霊ありきで、ドアが開いて鼻歌が聞こえたのくだりは二時という数字を見た後での辻褄合わせ、脳の勝手な創作である。


 訳が分からないことがあると平静を保つために誰しも、目に見えない何かのせいにしたことがあるはずだ。今回の場合、稲垣の船に幽霊が出ると聞いたのが悪かった。モヤモヤ感はぬぐえないし、正直に言おう。納得がいかないのは何も稲垣の船に出る幽霊だけではない。


 この部屋にはベッドが多すぎる。六月に滞在したときだったが、その数を数えてみた。三つだ。でっかいダブルが一つに、普通のダブルが二つ。ぱっと来て、ぱっと寝たい。シンプルライフ。条件反射。大体おれは寝るためだけに家に帰っているふしがある。そういう習慣の持ち主が寝る前に、ベッドをどれにしようかな、なんて考えたがるだろうか。イチ、ニィ、サンとベッドに向けて指を差す。二歳児でも出来るその事柄が何とも難しく、そして、情けなかったことか。


 コーナースイート2ベッドルームと言うらしい。角部屋を売りにしたその部屋に入るとおれは手前のベッドルームのドアを開けた。右手にダブルベッドが二つ、正面にはバルコニーがあり昼間なら、ガラスサッシから青い海が目に飛び込んでくるっていう寸法だ。因みにもう一方、奥のベッドルームは壁の二面にガラスサッシがありそれぞれにバルコニーがある。


 謎だ。一人もんのおれになんでまたこの部屋なんだ。服を脱ぎ、二つある手前のダブルベッドにシャツ、ズボンと投げていく。素っ裸になって、リビングダイニングを横切りバスルームに向かう。


 ともかく、幽霊なんていやしない。いや、それは言い過ぎかもしれないが、稲垣の船の幽霊はやはり、解せない。シャワーを浴びながらおれは、山下賢治を考えていた。テンガロンの男が言った人影は幽霊じゃなく、やつだったら。そしてもし、やつがあそこにいたとして何が目的であったか。


 皆藤の死体か? だったら稲垣が山下賢治に何もかも話したということになるが、あり得るだろうか。

 

 可能性として考えうるは、航海に当たっての山下賢治の悪巧み。罠か、なにか仕掛けを施していた。いつから沖縄に滞在しているのかは知らないが、山下賢治は少なくとも稲垣が死んだ七月二十七日から今日、七月三十日までの間、船に上がれた。


 あるいは弁護士の緒方。やつは稲垣の自殺の後始末をしていたとして時間的に、人影には十分なりえたであろう。だが目的は? 


 あの船に死体があるのを何となく察しているようだった。死体を警察に差し出す? いいや、死体はまだあったし、もし確認に来たとしてそれは一度で事足りる。そして警察に通報したとしよう、死体がありますよって。必然、今頃は大騒ぎになっていた。


 だが、そうはなっていない。もし、一度ではなく何度も来なければならない理由が緒方にあったとする。テンガロンの男は人影を何度も見たと言っていた。あいにく今のところ、緒方に何度も船に上がる理由は見当たらない。


 あるいは国際子供救援基金の武内忍たけうちしのぶ。先に上げた二人以外で、この航海とその目的を知っているうえ沖縄にいるだろう人物。動機は十分。なにしろ船が沈んで皆死んだら、稲垣の金はおれの分を差し引いて全てが彼女のものになる。何日もかかるような巧妙な仕掛けを船に施してもなんら不思議ではない。だが、武内忍は女。いくらテンガロンが酔っ払いであろうとも人影が男か女かは見分けられるはず。


 やはり、山下賢治か。バスルームを出るとラタンの籠にタオルを投げ入れ、バスローブを羽織ってベッドに雪崩込む。


 もしやつなら、『爆弾』は、ない。が、やつから絶対に目を離さない。それと明日は船の点検。それも自然に、そう、ぎこちなさを見せてはいけない。注意するに越したことはないんだ。








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