33
「だから僕は審判に言ったんだ」 井田《怒り》の声である。ずっとしゃべくっている。「おかしいってね。協会は中立なはずさ。でも大会が行われる地元のチームが、ま、十中八九優勝するね。それってのはいかがなものか。狩場さんはどう思う」
喋ってないと不安なのは分かるが、うんざりしてくる。おれが必要以上に人と話さない方だということを差し引いても、こうもまくし立てられてはあまり気分のいいものではない。こっちの気持ちなぞ関係ないようだ。話というのは基本、共感がなければならない。あーそーそー、みたいなことを思わず口走るとか、俺も俺も、みたいな同意がないとつまらない。そんなことあるわけねぇーだろもありだ。そう言われた相手が上手く返せば会話は盛り上がったりもする。
だが、教育者の井田勇《怒り》の話は、県大会に行ったとか、校長に意見したとか、自慢やら職場のネタやらで、つまりは身内話なのである。どうもそれが納得出来ない。いわれもない言いがかりをつけられたり、有ること無いことで貶められたりするのが世間で、その中でなんとか泳いでこそ、本当の面白い話が出来るというものだ。自分だけが面白い話なんて人生を冒涜している。考えが甘いんだ。
それに基本、学校の先生というのが大嫌いだ。如何せんいい思い出がない。
ああしろ、こうしろって命令する学校の先生なんて何を考えているのか全く分からないし、それこそ尊敬なぞは論外だ。彼らがおれに教えてくれたのは、あなたは世間のはぐれ者ですよ、ってことぐらい。おれにしてみれば、その言葉をそっくりそのまま返したいぐらいだ。
当の井田《怒り》はというと、おれがそんなことを思っているなんて、これっぽっちも思っていない。くっちゃべりながら、出されたものに舌鼓を打っている。
やがて食事が終わり、皆はぽつぽつと引き上げ始めた。最初に席を立ったのはやはり、つまらなそうナンバーワンの橋本稔《妬み》だった。次に中井《高慢》に大磯、そして、大家《貪欲》に黒田。最後にダイニングルームを出たのは中小路《怠惰》と田中《姦淫》、それにおれと井田《怒り》の四人だった。
結局、沼田光《貪食》が来なかった。その理由が分からないのには誰もが不安を感じたのだろう、その話題に触れる者はいないし、リビングルームでくつろごうとする者はいなかった。何かあったとは思いたくなかったが、いかんせんあの不気味な悪魔像である。
マスターが世界中廻って集めたと執事の近藤が言っていた。呪いとまでは言わないが、招待客のためにわざわざ部屋に置かれていた。不吉な何かが我が身に降りかかるのではないかと思ってしまう。例えば沼田光《貪食》に何かあったとして、それが自分に降りかかるはずのものだったとしたら、と想像するとぞっとしてしまう。
そうじゃないとしても、沼田光《貪食》がリビングルームにひょっこり顔を出し、この像はやっぱりお返ししますと言ってきたらどうするのだろう。期せずしてルールにこうあった。部屋の持ち主は夕食から十時間、他人の部屋に一歩たりとも入ってはいけない。つまり、今から部屋に籠ってしまえば沼田《貪食》と会うことは決してない。
ぞろぞろとおれ達四人は連れ立って居住区画に入っていく。すぐに大磯孝則が政治家の間の前に立っているのが分かった。井田勇《怒り》は目を合わせたくないのか、大磯の前をすっと抜けて行って、一番奥の自分の部屋に入ってしまった。廊下に立たされた生徒を担任でないからという理由で無視して通り過ぎてゆく教師、それをおれは見ているようだった。
部屋がお向かいとなっている中小路《怠惰》と田中《姦淫》は手を挙げてお別れの合図をし合い、左右それぞれ部屋に入っていった。大磯孝則に訊きたいことがあるおれは、通路に残った。大磯が部屋に入れてもらえず、仕方なく立っているのは一目瞭然なのだ。立たされている大磯の姿が自身の学生時代と重なって、どうも他人事ではないような気がする。訊きたいことよりまずは大磯孝則を気遣った。
「なぜ、部屋に入らないのです?」
「見張り番ということで」と言って、大磯は口籠ってしまった。
「そう命じられたのですか?」
大磯はよっぽど腹が立っているのだろう。下で握ったこぶしに血管が浮いている。
「わたしから中井さんに取り成しましょうか?」
「いや、いいです。ですが、申し訳ない。愚痴を聞いてください。この部屋は中井に与えられた部屋ではないのです。近藤は言っていました、政治家の部屋だと。だったら、間違いなくここは僕の部屋です。中井は、先代、先々代から引き継いだ票田の所有者であって政治家じゃありません。分かるでしょ。あの態度で政治なんかできますか?」
「おれもそう思います」
それがの精一杯の言葉だった。大磯はこれから見張り役を何日もさせられることになるだろう。それも二十四時間。何とも、やるせない思いになる。
「訊きたいことがあるんですが、いいですか?」
「どうぞ。ですが、答えられないことがあるのは承知して下さい」
「分かりました。ではお尋ねしますが、大家さんをご存知ですか」
「なんで僕に?」
「黒田さんが言っていたじゃないですか。政界にコネ云々て」
「ああ、それで。狩場さんのおっしゃる通り、大家さんはここに来る前から知っています」
「井田さんは?」
「知りません」
「では、大家さんのことを教えてください」
「雇いたいって言われれば、やっぱり気になりますよね。いいですよ。大家さんは株式会社大家創業者で、接着剤製造業者です。接着剤の原料として購入した事故米穀を、野上穀販を介するなどして食用米として不正に転売しています。それで農林水産省は、食品衛生法違反(規格基準外食品の販売)の疑いで同社を愛知県警に告発しました」
「そうなんですか。ということは、その筋では結構有名なんですね」
「そう。狩場さんも気を付けてください。あの会社は危ないですよ。誘われても誰が行くかって話です」
「小西さんは行っちゃいましたね」
はっとした大磯は、まずいことを言ってしまったという苦い顔を見せた。告発された云々のことではない。政治家は外面を良くしなければいけない。殊にこれから政界に打って出ようと思っている人間ならば尚更だ。
おそらくは、いや、さっきの苦い顔からして十中八九、大磯孝則もそれを心掛けている類なのだろう。そして、自分こそ国会議員に相応しいとも思っている。
「それに大家さんは、あなたが政界に打って出た時、応援して下さると言っていましたよね」
「その時になったら断ります。ですが、正直、あの言葉は励みになりました」
「そうですか。分かります、その気持ち」
おれは大磯孝則に礼を言って別れると、芸能人田中美樹に与えられた部屋、快楽趣向家の間に戻った。そして、リビングの一番デカいソファーをドアの近くまで引き摺っていく。ドアの抑えに使おうという魂胆なのだが、完全にはドアに当てない。その状態にしといて、今度は寝室の方のドアをノックした。中に籠りっきりの田中美樹《姦淫》に返事はない。構わず言った。
「おれが出たら入口のドアをソファーで押さえてくれ」
出入り口のドアは通路側に開かず、部屋側に開く。ソファーで押さえれば侵入者にとっては、少しは障害となるだろう。何もやらないよりましだ。話を続けた。
「戻ってきたら呼ぶ。必ず入れてくれ。たのんだぞ」