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「そういうご質問には、お答えできません」
そう言って、橋本稔《妬み》のナイフやらフォークやらを整えると近藤は、資産家中小路雅彦《怠惰》のセットに取り掛かった。誰もが黙ってそれを眺めやっていた。動きが流れるようで、美しいのである。だが、完全には心を奪われていない。皆の頭の中は、イラストレーター沼田光《貪食》でいっぱいになっているはず。なにかおかしいぞ、という不安がその表情から読み取れる。
かといって、沼田光《貪食》を呼びに行く気遣いもなければ勇気もない。おれとしてみても、それは同じだ。細長いグラスにシャンペンが注がれていく。そして、前菜。一口大の三種類の品が細長い器に乗せられ運ばれてきた。
一つは、餃子の皮のようなものをコーン状に巻いて揚げ、その中にモッツァレラチーズを詰めて、キャビアを乗せたもの。
一つは、松葉のような二股の串が刺さっている田楽。一つは、炙った皮付きの白身魚にキャビアを乗せたもの。近藤は給仕を一人でこなしていた。動きに無駄がないのだろう、苛立たされることはなかった。
確かに、沼田光《貪食》について言えば呼びに行くにしろ、なぜ自分が嫌な目に合わなくてはいけないのかと考えないわけではない。最悪、死体を見る羽目になるのだ。いや、それは考え過ぎなのかもしれない。沼田光《貪食》は疲れてしまってぐっすり眠入っているだけで、夕飯の時間を忘れているとも考えられる。シャンペンを口に含み、まずコーン状の前菜を口に放り込む。
うまい。
キャビアとモッツァレラの相性はばっちりだった。思わず笑みを作ってしまう。芸能人田中美樹《姦淫》と資産家中小路雅彦《怠惰》も楽しげであった。二人はいい雰囲気と言わざるを得ない。中小路《怠惰》の年齢はおそらく四十半ば。おれとさして変わらない。対する田中《姦淫》は二十歳前後。まぁ、中小路《怠惰》は金を持ってるし、カップルとしてはありか、などと思うのである。
前菜を終えると皿は下げられ、口の広いボール状のグラスが運ばれてきた。そこに白ワインが注がれる。甘口であったが、新たに運ばれてきたフォアグラがそれによく合う。濃厚なうまみに甘いワインの相性はどうかなと思っていたが、間違っていた。相乗効果でうまみが口いっぱいに広がった。
にしても、田中美樹《姦淫》はアイドルと呼ぶには薹が立ち過ぎているのではなかろうか。タレントとしては、やって行けるだろう。だが、いずれにしても、おれは田中美樹という芸能人をテレビで一度も見たことはない。実際彼女は何をやっていたのだろう。ふと、その疑問が頭をよぎる。オタクでイラストレーターの沼田光《貪食》が言っていた。
「あんたはアイドルと称して淫売を生業としているのみならず、友達を売ってピンハネをしている」
沼田光《貪食》は自身のブログにイラストを載せていたそうだ。間違いなく、ネット民だ。ネットの中ではテレビでは到底知り得ない情報が飛び交っている。信じられないガセから真実まで。
多分、沼田光《貪食》は芸能人田中美樹のあることないことをネットで面白半分に見ていたのだろう。
それを言えば、おれとしても面白くない。『川崎愛人殺人事件』ではマスコミに騒がれたが、誹謗中傷の的になって、ネット民にはいい想いがない。『沖縄沖遭難殺人事件』の時もそうだ。生きているのが悪いみたいなことになっている。
まぁ、馬鹿にされたり、蔑まれたりは慣れている。が、身内がそうされるのを見るのは耐えない。世間からの誹謗中傷を止めさせるのは無理でも、せめて田中美樹《姦淫》だけは絶対に無事、東京に返したい。
テーブルをぐるりと見まわした。こいつらが大人しくしていてくれればいいが。大磯孝則は雇主である中井博信《高慢》に胡麻をするのに余念がなく、二つ席を空けて実業家の大家敬一《貪欲》と相棒の黒田はというと、「今度の契約はなぁ、色々と………」などと仕事の話をしている。おれと同じ並びの中小路《怠惰》と田中《姦淫》は言うに及ばす、べったりである。必然、原子力の橋本稔《妬み》と教育者の間に居住する井田勇《怒り》が浮いてしまう。
当人たちもそれが分かっているのだろう。それに、食べ物には目がなさそうな沼田光《貪食》が来ないのだ。二人とも相当不安になっているようだった。井田勇《怒り》にしてみても、ちょうどいいことに誰にも相手にされない者がもう一人、横にいる、とでも思ったのだろうか、おれに話しかけてきた。因みに橋本稔《妬み》は中小路《怠惰》の向う側で、角である。ひとりぼっちは如何ともしがたい。
井田勇《怒り》の背は百七十五センチくらいか。代議士の中井博信《高慢》やおれとそうは変わらない。肩の筋肉が盛り上がっているので、普段から運動をしているのはうかがい知れる。ジャージを普段着にしていることからも、体育の教師だというのは想像出来る。
酒は、赤ワインに替えられた。それに合わせた料理は仔羊の背である。西オーストラリア産だと近藤は言ったが、そのソテーが滅茶苦茶うまい。ラム肉は好き嫌い別れるというが、目の前に出されたこの仔羊を嫌いだという者はまずいないだろう。松坂産の牛はビールを飲ますと聞く。西オーストラリア産とは何ともおおざっぱな物言いであるが、そこにはそこの肉を美味しくする飼育法を持っているのだろう。柔らかいし、臭みもまったくない。
そういえば、とおれは隣の井田勇《怒り》と前の中井博信《高慢》を見比べる。体格的に言って中井《高慢》は井田《怒り》にまったく見劣りしない。ジムにでも行って、しっかり健康管理しているのか。筋骨隆々の肩と二の腕がスーツの下にあることが想像出来る。もし、敵対したならば。
そんな目でこのメンバーを見たのは初めてだった。身体能力が高そうなのは、井田《怒り》と中井《高慢》。二人とも年齢は三十半ばとみた。あとはどれだけ修羅場を潜り、経験を積んでいるかだ。
だが、十中八九、喧嘩となったら強さを見せるのは大家敬一《貪欲》と黒田洋平だろうと思う。彼らはきっと古い仲で、若い時はスナックかなんかで、酔って暴れたのではないだろうか。沼田光《貪食》が『貪食の罪』について説明していた時、まるで我がことではないかという笑いを、二人してしていた。おそらくは、喧嘩なんてものはお手の物なはずだ。そして、当然強いのだろう。実際、こういう息の合った者らが大勢と喧嘩しているのを見たことがある。一人で三人を倒すより、二人で十人倒す方が簡単だと、その時は思った。
逆に、この中で最弱なのは原子力の橋本稔《妬み》だろう。もし沼田光《貪食》がここにいて二人が戦ったらば、片や五十五から六十歳、片や二十代前半。年齢の差からも言って、沼田光《貪食》に軍配があがろう。二人ともメタボなのが身体的特徴で、戦うとしたら、いずれにしてもブービー賞狙いといったところか。
芸能人田中《姦淫》について言うとすれば、どちらかというと大家敬一《貪欲》側の人間なのだと思う。肝の座りよう、望月望のところへ一人で行った物おじしない行動力からしても、そうだと言える。いざとなれば、自分の身は自分で守ってしまうのかもしれない。