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三十年も前になろうか。思春期の頃、ダンテもミルトンもチョーサーも読んでいた。デビット・フィンチャーの『セブン』は十五年ほど前にビデオをレンタルして以来、なんだかんだ言って五回は見ている。
それから受けるイメージはどうもおどろおどろしい。沼田光《貪食》が解説に使ったのは、おそらくはチョーサーの『カンタベリー物語』の下巻、教区司祭の話からの引用だ。確か、書かれたのは十四世紀だったと思う。
中世ヨーロッパ。黒死病に、百年戦争、そして、拷問。その言葉には、何か間違いが起こりそうな、暗いというか、人の陰部に働きかけるような力がある。壁に掛かっている農具や大工道具、オブジェのような鍛冶道具に鎧も、バッチリ雰囲気を醸し出している。
いや、恐れることはない。この馬鹿げた狂信者、マスターと呼ばれる男はたらふく金を持っていて、それでもって他人に改心を求めている。逆に滑稽と思わないか。金を湯水のごとく使い、やっているのはこれなんだ。それに、誰かが行動を起こさなければ何のことはない。よくよく考えればマスターと呼ばれる男を一々相手をしていられない。
だが、もしもってことがある。周囲には細心の注意を払わなくてはいけない。沼田光《貪食》が言った『カンタベリー物語』の解説によると殺人者は、『怒り』と『怠惰』ということになる。あるいは、その首領の『高慢』もそれに入るのか。『妬み』なんかは『怒り』の因だとも言っている。『妬み』がどういうタイミングでその属性を転じさせるか分かったものではない。
とすれば、政治家中井博信《高慢》、科学者の橋本稔《妬み》、教育者の間に入った井田勇《怒り》、資産家の中小路雅彦《怠惰》あたりが突飛押しもない行動に出るかもしれない。これはあくまで可能性を言っている。そして、おれに課せられた仕事は探偵というよりボディーガード。芸能人田中美樹《姦淫》について言えば、とにかく守り抜けばいい。
ドアがコツコツと叩かれた。執事の近藤だろう。入れと言ってやった。
やはり近藤だった。「夕食の時間です」。
時計を確認した。太い針は7を刺していた。
ダイニングテーブルにはすでに七人が腰かけていた。ドアから対角の奥、つまり上座には政治家中井博信《高慢》、その横には第一秘書の大磯孝則が座っている。それから席を二つ開けて、実業家の大家敬一《貪欲》、その相棒黒田洋平と新しく仲間に加わった小西明が並んでおり、この五人は窓を背にしていた。
絵が飾っている壁側の方、窓と対面する席の一番奥には、科学者の橋本稔《妬み》がおり、席を空けずに資産家中小路雅彦《怠惰》が腰を掛けていた。芸能人田中美樹《姦淫》はその中小路《怠惰》の横に座った。一つ席を空けて、おれも座る。
ちょうどこの時、教育者の間の居住者井田勇《怒り》が現れた。ドアのところでダイニングテーブルを見渡すと窓側には行かず、おれの横に着く。
大家ら三人は何やらこそこそ話をしていた。聞かれたくないことがあるかのように頭を寄せている。あるいは、小西明が加入したことで、もう仲間割れがおこったのか。
「よかろう」との大家《貪欲》の声。
その言葉を受けて、小西明が執事の近藤に向けて手を上げた。近藤はつつっと小西の後ろに立った。それから二人は小声でこそこそやっていたかと思うと二人そろって廊下に出て行ってしまった。
大家《貪欲》が声を張った。
「執事根性が抜けんのだろ。近藤が仕事をしているのを見ていては、飯が食えんのだとよ」
もめごとではないとのアピールである。
「ところであのデブはどうした?」 この話は終わったとばかりに大家《貪欲》は話を切り替えた。
「全員揃わないと飯は出ないのか?」
確かに、腹が減っているのも事実である。イラストレーターの沼田光《貪食》を抜きに食事を始めたいのは賛成だったが、同意の声を上げても大家《貪欲》が気を良くするかどうかは甚だ疑問だ。なにしろ会ったばかりでどんな人物かは分かりぁしない。こっちはいいと思っていても、相手がどう受け取るか。政治家中井《高慢》の言葉に科学者の橋本《妬み》が賛同した時のように馴れ馴れしく近づいて来たと思われ、逆にすっこんどれ! と恫喝されることもありうる。
少なくとも、誰がどういう人物かを知る必要があるのかもしれない。田中美樹《姦淫》を守らなければいけない。こっちの知らないところで相手の恨みを買ったり、変なことを言って疑われたりは上手くない。ターゲットにされるのはごめんだ。
飯を出す出さないは、まぁ、大家《貪欲》に任せておくとして、よくよく考えたら沼田光《貪食》だ。やつが来ないのはおかしい。
流石に大家《貪欲》もそのことが気にかかったのだろう、言った。
「あのデブは確か、《貪食》っていう罪ではなかったか。だったら、いの一番に来ているはずだろ」
相棒の黒田洋平が、にやにやと笑っていた。
大家《貪欲》がさらに言う。「まぁ、あの像を貰って腹いっぱいになったのだろ。待っていたってしょうがない。近藤! 飯だ」
その声が聞こえたのだろう、一旦消えた執事の近藤がダイニングルームに姿を現す。一礼し、さっそく、と奥のキッチンルームに入っていった。
窓の外は横殴りの吹雪だった。近藤がキッチンナプキン、ナイフやフォークを席に置いていく。その静かな動きと裏腹に、外で吹雪は猛り狂っている。窓から漏れる明かりも効果的であった。夜の真っ黒な空間が窓の形に切り取られ、そこに雪が舞う。白く輝き、無数の筋を造っていた。
殺し合えと言われても、ここでこうして何食わぬ顔で食事をしなくてはならない。沼田光《貪食》のことも気にかからない訳ではない。おそらくは誰に聞いても知らないと答えるだろう。だが、それくらいの方が良い。誰がどうかしたとか、気にかかり始めれば有らぬ誤解も生じよう。おれ達に大事なのは距離感なんだ。
日本原子力開発機構理事長の橋本稔《妬み》が言った。
「近藤さんに一つ尋ねたいのですが、」
執事の近藤が窓側から壁側に移って来ていた。「どうぞ。なんなりと」
「はい。では、お伺いしますが、沼田さんにお会いしたのでしょ、夕食の案内に行かれたはずです。彼はどうでしたか?」