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キッチンのカーペットを剥いだ。棺の扉が姿を現す。死体はこの下にある。
固唾を呑んだ。そもそもどう考えても異様だ。床の下に死体があって、その上で楽しくクルージングをする。キッチンでは四人が往きかい、互いに言葉も弾むだろう。南国の太陽に、空と海。男女が羽目を外し、まさしく生を謳歌する。一方で、死体は暗く狭い冷蔵庫の中で身動き一つ出来ない。皆藤真が悪い奴だったとしても、死者に対してあまりにも不遜である。そして、そんな仕打ちをされようとする皆藤真が今この下にいる。
床に埋め込まれた取っ手を引き起こし、一気に床を引き上げる。一メートル×二メートルの角。フローリングがぽっかり空いた。稲垣が言うように冷凍庫はまさに棺桶そのものだった。プラスチック製の白いフネの中に、厚手でビニール質の黒い死体袋が横たわっていた。
サナギのような、不気味な黒い塊。頭から足にかけて金属のファスナーが走り、スライダーはそのサナギの頭部にある。引き手を摘むと恐る恐るスライダーを下ろしていく。目と鼻、口以外はすべて毛布に包まれている。暗がりでほとんど人相は見分けられなかったが、年齢はなんとなく分かる。六十近いか、あるいはそれ以上か。
稲垣に見せられた写真は何年も前のだったに違いない。こいつが皆藤真。同世代のやつと勝手に決め込んでいたが間違いだった。チャックを引き上げた。
死体だとはいえ、冴えない表情だった。こんなやつ、殺す価値があったのだろうか。蓋の取っ手を握ると床の復旧にかかった。ぐいっと持ち上げたその瞬間、突然携帯が鳴った。タイミングが悪いってものではない。慌てて冷凍庫の蓋を閉めるとポケットを探り携帯を取り出した。携帯を持って十八年、初期のショルダーバックタイプのではないが、家庭用電話機の子機ぐらいのから持ち始めた。以来、深夜に掛ってくる電話は仕事上の緊急電話のみ。その仕事ももう辞めているのだから、掛ってくるなんて毛ほども頭にはなかった。それが間違いだった。電話の相手を見る。番号のみ表示。だが、見覚えのある数字。
山下賢治!
たぶん、それは山下のものだろう。ほとんど直感だが、資料に見た気がする。取ろうか取らまいか迷った。その一方で体は勝手にばたばたとカーペットを直していた。
隣の船で男の叫び声が聞こえた。「だれだ! だれかいるんだな!」
クソ! しょうがなく携帯を通話にすると話しながらアフトデッキに移動した。何食わぬ顔も忘れない。
「狩場ですが、なにか」
「夜分すいません。山下です、今よろしいですか?」
「どうか、なされましたか?」 話しながらアフトデッキに出た。テンガロンハットの男がへたり込むのが見えた。といってもこの時は帽子をかぶっていなかったが、おれを見て、あっ、あんた、あの時の、と言って指をさしている。
一方で、電話の方では山下賢治が言う。
「あのぉー、一緒に飲みに行きませんか?」
「お断りします」
「どうしてですか? わたしはあれを見ちゃったんですよ。っていうか警察に見せられたんですよ。陽一の死体。で、それ以来、夢に出てくるようになってしまって」
「あ、そういうことですか。あなたは会社の件で稲垣に呼ばれてこちらに来られていたんですよね。で、ちょうど居合わせたもんだから、やつは身寄りもないし、あなたはかわいそうに警察に照合を求められた。申し訳ありませんでしたね。でも、おれはあなただけ先に会うってことは出来ませんから、立場上」
「そうですよね、やっぱり。申し訳ありません」
「明日ならいいですよ。それなら他の三人も怒らないでしょうし、あなた、おれと同じホテルに泊まっているんでしょ。一緒にマリーナまで行きましょう、車もありますし。明日午後一時、エントランス前で」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
「大丈夫ですか?」
「あ、いや、話してなんだか気持の方も落ち着きました。では明日」
携帯を切って、テンガロンハットの男に向けて頭を下げた。「すいません。明日、船を出すんで食糧とか確認したくて」
「驚かせるなよ」 テンガロンハットの男はむくっと立ち上がった。「って、船を出すの?」
「はい」
「よした方がいいなぁ。その船、危ないよ」
「それはどうして?」
「取り憑かれているんだよ。幽霊に」
「幽霊?」 なるほど。それでおっさん、船上で大きな顔をしていなかったのか。隣の船に出る幽霊に怯えて毎晩自分の船のどこかで隠れるように縮こまっていたんだ。
テンガロンハットの男が言った。
「その顔。あんた、俺を信用していないな! 実際に人影を見たんだ、ここ何日も。稲垣さん、自殺したんだろ? きっとあれは稲垣さんの幽霊に違いない。あんたら海の底に引きずり込まれるぜ」
それならば、それは稲垣のではない。皆藤のだ。「逆にそいつを今度の航海で海に捨ててきますよ」
「なに言ってんだ」
「まじで言ってます。あなたは明日からはぐっすりと寝られるっていうことです」
「ふん、そう願いたいね」 アフトデッキのソファーに、男はもぞもぞっと横になって、落ちていた麦わら帽子風テンガロンハットを取るとその顔に被せた。
「だがそううまくいくかな? なめない方がいいぜ、海を」
* * *
資産家の中小路雅彦《怠惰》という男は、不思議な雰囲気を持っていた。ゆっくりとしたテンポで話すのだが、おれはまるで催眠術にかかったようにいつのまにか、沖縄での記憶をたどらされていた。いつもの悪夢のように幻を見せられていたかのようだった。
そのおれを現実にもどしたのは、代議士中井《高慢》の第一秘書である大磯孝則だった。張りのある大きな声で演説を始め、おれはそれで、はっとした。
「皆様、お聴きください。私の考えによりますとマスターと呼ばれる人物は自分の方から我々に危害を加える気が無いように思われます。問われるのは我々自身の行動です。どうかパニックにならずに。この二、三日の辛抱、きっと助けが来ます。何といっても我々には中井がいますし、橋本さんもいます。この国がほっとくわけがありません」
ここで言葉を止めた。大磯は拍手喝さいを待っているようだった。ところがいつまで待ってもそれが来ない。それどころかかえって場は白けていた。互いに会話が弾みかけた矢先なのである。それが大磯には分かっていない。反応が悪いのでさらにまくし立てた。
あまりにつまらない。皆、閉口した。というか、政治家に向いていないとさえ思えてしまう。大磯本人としては実業家、大家敬一《貪欲》におだれられてその気になったのだろうが、こっちとしては付き合ってやる義理はない。
それでも、黙って聞いていた。相手を不快にしたくはないし、やらせておけばいいと、ほとんどあきらめの境地である。ところが、若者は怖いもの知らずだ。アイドルの田中美樹《姦淫》は演説の途中にもかかわらず席を立った。と、なればおれとしても続くしかない。二人してリビングルームを去り、与えられた部屋、快楽趣向家の間に戻った。
といってもおれは、そこではリビング止まりだ。奥の寝室には入れてもらえない。まぁ、それは当然のこととして、問題は入浴時である。浴室に入るにしても一旦はおれのいるリビングを通らなくてはいけない。その時はどうしたらいいのだろうか。ソファーに寝ころびながら考えた。寝たふりでもするか。
部屋に帰って来てから五分ほど経ったのだろうか、時間は午後四時ニ十分になろうとしていた。壁に掛かっている振り子時計の針がそれを示していた。果たしてドアを閉める音がちらほら聞こえ出す。リビングルームの連中が引き上げて始めたのだろう。田中美樹《姦淫》が口火を切ったとして、あの演説を聞かされたらしょうがない。
それにしても、ろくでもない連中だった。まっとうに生きている者はだれ一人としていない、それは宗教家沼田光《貪食》の言葉から間違いはないだろう。何と言っても、七人は悪魔になぞられているのだ。そして、七つの大罪。