03
どうもそれが納得いかない。もしこの女が、それこそ高級娼婦やコンパニオンだったら丸の内のホテルがお似合いなのだろう。ましてやアイドルというのだ。川崎の第二京浜になんかにいてはならない。やはり訳有りなんだ。そして、そんな女を探偵が運ぶ。
血生臭い感が拭えない。望月望のあの逃げるように去る姿もそれを裏付けるというもの。沖縄の事件の折、おれは稲垣陽一を騎士に、自分を従者に例えた。今まさにそれを思い出す。従者は騎士の馬の面倒とか、やらかした失敗を尻拭いをしなければならない。嫌な予感がする。今度は望月望の面倒を見る羽目になるというのか。それも命を掛けて。
よれよれのスラックスのポケットからガラケーを取り出し、望月望に電話をしてみる。案の定、出ない。そっちがその気なら、こっちはこの女をここに置き去りにしてやる。
とも、考えた。振り向いてちらっと女を一瞥する。二十歳そこそこだ。といえども、芸能界という荒波を渡ってきているのだから、おれが何を考えているか分かっていそうなものである。ところが、女の、田中美樹の反応はない。彫刻の像のようにただそこに座っているだけだった。
それにしても意外だった。芸能人だというのに、髪を染めた形跡すら見えない。黒々とした髪で、大きな瞳に、滑るような肌。小柄というのもあるが、それにしても顔が小さい。先ほどの、チラ見だけで、それがおれの瞼に刻み込まれてしまった。
かわいいには違いないが、さて、どうしたものか。ハンドルを握る手が緩む。望月なんてものはいい。やつはおれがいなかったとしても十分やって行けるし、おれと会うまではずっとそうしてきていたはず。問題はこの女だが、「助けて」でもない。「ほっといて」でもない。完全に生殺与奪の権限はおれに委ねられているというのに。
仕方がない。ハンドルを握り直すとアクアを発車させた。第二京浜を東京へ向かい、やがては環八に入る。それから246との交差点で渋滞したものの、後はスムーズに関越道に入ることが出来た。その間、やはり田中美樹はだんまりを決め込んでいて、依然として車内は重苦しい空気に満ちていた。隣の車線を並走するランドローバーの車内が目に入った。ため息をつく。向こうは若者男女が乗り合わせていて皆、笑顔だった。それが濡れた路面に飛沫を上げておれのアクアをぐんぐん引き離していく。
路肩には延々と、寄せられた雪が連なり、フロントガラスには吸い込まれるように飛び込んでくる雪。ワイパーがせわしなく、せかせかと動いている。どこの北国から来たのか、すでに屋根が雪の山となった箱型トラック。
関越道から上信越道に移った。伊香保ルートを使わずに軽井沢ルートで草津を目指す。なぜそうしたかは他愛もない。伊香保ルートは陰気で嫌だった。急ぐにはこのルートだったが、時間は指定されていない。一応、田中美樹に急ぐのかと確認したが梨のつぶてだった。
敢えて言うが、伊香保ルートとは伊香保温泉から川原湯温泉を通り、草津温泉に至る古い街道だ。歴史があるのはいい。だが、この道にお伊勢参りのような馬鹿さかげんというか、人のいい感じはしない。白粉に肌蹴た着物、それにだらりと下がって引きずられる帯や座敷の畳に転がっている徳利を思い起こさせる。そして、砂埃。『座頭市』とか、『木枯し紋次郎』を見過ぎなのだろうか。いずれにしてもあまり健康的には思えない。それに道路工事。首相に群馬県出身者が多いからだろうか、それとも道が悪くて単に整備しているだけなのか、必ずどこかでやっていて片側一車線になっている。もともとクネクネした道なのにそれは危なっかしい。
一方で軽井沢から中軽井沢、北軽井沢を経て、草津温泉に至るルートはテニスやゴルフ、青春に恋愛、オリーブ油に蜂蜜、牛乳たっぷりのアイスクリームが思い起こされる。健康的ではないか。そのうえ、このルートを使う者はあまりいない。後部座席にはいかがわしい女を乗せているので交通量が少ないのは条件的に見てもいい。少し大回りになるのは難点だが、まぁ、たいして時間は変わらないだろう。因みにおれはアクアにカーナビを付けてはいない。去年の夏、沖縄の事件で酷い目にあった。運転するクルーザーのナビゲーションシステムが爆弾と連動していた。
碓氷軽井沢インターを降り、市街地を抜けると通行する車もだんだんと減っていく。浅間山も雪化粧で、畑なのか、牧草地なのか、道沿いのだだっ広い空き地はすでに白銀に覆われていた。
かつて知った道である。いい思い出しか残っていない。デートとかそんなのじゃなく、仕事でだ。後部座席の女のことなぞほっぽいて、溶接したり、ボルトを締めたりしていた頃の自分を思い出す。製品の納入が遅れて現場作業になった。あの時は大変だったが、今となったらクソ笑えてくる。一緒に仕事をした川崎の連中もこの場にいたら、あの時はこうだったとか、ああだったとか、話は尽きないだろう。
もうそろそろ北軽井沢の交差点だというところで、セーブオンの看板を見つけた。時間は午後一時半だった。田中美樹に何も確認はとらず、駐車場にアクアを滑らせる。今日初めての客だったのか、アクアから下りると真っ白な駐車場に自分のタイヤ跡だけがくっきりと残っているし、店に入ると弁当専用の棚もきっちり整然と抜けがない。どれでもより取り見取りだったが奇をてらった、例えば焼き豚おこわ、なんてものは手に取らずに、鮭おにぎりと梅おにぎりを各二つ買った。
「食べな」
運転席から鮭おにぎりを田中美樹に差し出した。予想通り、女は受け取らなかった。仕方なく自分の分を取って、後部座席の空いている方にコンビニ袋を投げた。そこで初めて気がついた。田中美樹の手首に手錠がはまっている。
手錠は右手だけであった。そして、その鎖は黒のアタッシュケースに繋がっている。アイドルだからあんまりじろじろと見てはいけないと思っていたのが裏目に出た。そもそもおかしいと思っていたではないか。思うに、この状況、きっと女は無理やり何かを運ばされているんだ。ぱっと頭に浮かんだのは麻薬。そしてヤクザ。
ハンドルの上でうなだれた。逆にこの女をこのまま草津に連れて行っていいものか。それを思いあぐねた。この先の展開も予想出来ないし、当然その対処なんてものは論外だ。ケース・バイ・ケース。とっさの判断をしていかなければならない。あるいは、女を置き去りにするか。まったく関与しなければ類は及ばないだろう。
が、はたしてそうだろうか。おれはもう、この女に十分関与しているではないか。毒を食らわば皿までも。いきさつを全て聞かなければならない。それによっては何か対応策が浮かぶかもしれない。
「君は、あっと、田中美樹とかいったな。そのアタッシュケースは何が入っているんだ」
「爆弾」
血の気が引いていくのを感じた。爆弾を運ぶのはこれで二度目だ。車内だが、思わず天を仰いでしまった。そして、よくよく爆弾に好かれる男だと思った。
そもそも、あの望月望のあの慌てよう。考えてみれば、まるで逃げるようだった。
「ニッパーで手錠の鎖を切ったらどうだ」
「無理ね。見られているもの」
田中美樹はアタッシュケースをおれの目の前に差し出した。側面の、取っ手を挟んで両側に眼球のようなカメラがあり、きょろきょろと動いている。そこで初めて気付く。これはアタッシュケースではない。アタッシュケースは蝶番で二つに割れるものだが、その開く筋がない。これはアタッシュケース風の箱なんだ。