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いずれにしても、水谷正人は横山加奈子が味方に付いていて、それが無条件であるというのは大きい。多数決とするならばこの利点を、敵対する山下賢治や島田恵美が見逃すはずがない。ましてや公金を横領している山下だ。きっと気付かれないように金を返し、訳のわからない内に県庁を退職したいのであろう。もしそのまま仕事を続けていて金を返したはいいがなにかの拍子で、例えば不倫相手が口を滑らせたとかで明るみになったら最悪だ。五百億。手に入った金はある。ならばさっさと消えてしまうのが一番だ。
状況からして、是が非でも山下賢治はINAGAKIがほしいはずだ。一体どんな手を使ってくるのだろうか?
いや、待てよ。島田恵美の場合、本当に金が欲しいのは恵美本人ではない。実際に金が必要なのはその家族で、話し合いの妨害も考慮に入れる必要がある。とするならば、そういう意味において海上という選択肢を選んだ稲垣は良く考えていると思う。島田の家族は手も足も出ない。やはり、考えを元に戻さざるを得まい。―――山下賢治がキーマンだった。
そんなことを考えつつ、おれは山下賢治の資料に目を通した。そして一つ、気が付いた。横領した事実が記載されていないのだ。当然といえば当然で、もし証拠もあり記載されていれば山下賢治は大きなハンディを負う。
が、しかし、そもそもこの資料は皆に配布されているのであろうか。ファイルの裏に狩場大輔と名前が入っている。これはそういうことなのか? もしそうならば、彼ら四人はカードを見せあってポーカーをするようなもの。そして、横領が記載されていない山下賢治は誰よりも大きなアドバンテージを得る。やつは役人なのだ。
欲に縁遠い、自分を捨てて公のために身を尽くすという模範的人物。そういったイメージを作れる。そのうえ稲垣は、四人のうちこの優良市民、山下とだけ事前に会うと言っていた。善意なのかもしれないがそれはまずい。山下賢治は議長気取りで話し合いを取り仕切るだろう。さて、どうしたものか?
突然、携帯が鳴った。
慌てて、ポケットをまさぐる。手に取ったガラケーを親指で弾いて開くとディスプレイに表示された数字に息をのむ。
――― 緒方さん!
通話のボタンを押して耳に当てる。弁護士が電話して来たってことは。
「緒方です。今、よろしいですか?」
「はい」
「稲垣さんが亡くなりました。家が全焼で、警察は事故でなく、どうも自殺と断定するようです」
固唾をのんだ。稲垣はド派手に死ぬと言った。「焼身自殺、……ってことですか?」
「はい。病気を苦にってことだそうです」
正直言って、狂ってる。もうそれ以外に何も考えられない。いや、大事なことを忘れている。皆藤真!
「早速ですが、遺書。狩場さんもご覧になったでしょ」
「遺書というか、財産云々のやつ」
「そう、それです」
「自殺予告状ともとれますよね」
「そこはなんともお答え出来かねますが、とにかく一両日中に死体は帰ってくるそうなので引き取り次第、お骨にします。葬儀をせずに、永代供養してくれるお寺にお骨を持っていきます。稲垣さんの指示ですので。狩場さん? 狩場さん? 聞こえていますか?」
頭にあるのは皆藤真の死体である。あの船には間違いなくそれはある。「あ、はい」
「狩場さんは予定通り、七月三十一日に船を出して下さい。あと、わたしは居ませんが、東京のわたしの事務所に一度、顔を出して下さい。稲垣様の車のキーを事務所で預かっております。車自体は沖縄にあるので自由に使えとのことです」
「分かりました」
「それでは」
「いや、ちょっと待って、緒方さん!」
「はい? なにか不都合でも?」
「そうじゃないんです。この前、おれに言ったあれ、彼らを守ってくれっていうあれはどういうことなんですか?」
「そんなこと、いいましたっけ」
「いいました。いいましたよ。長いエントランスで。ホテルのレストランでの帰り際です。おれがタクシーを拾えるとこまで送って行こうとして、稲垣が先を歩いていて、あなたが横にいて」
「憶えにありませんが、……すいません」
完全に口止めされている。「で、では、もうひとつ。手渡されたファイル! これは皆さんに渡されたのですか?」
「ええ。裏を見て下さい」
名前があることは分かっていた。「関係者全員に配布した。これはそういうことですよね」
「はい。ただし、ご本人の資料は省かせて頂いております」
「とすると、横山さんと水谷さんの不倫の証拠。あれは山下さんと島田さん、あ、今は結婚して中川さんだっけ、その資料に入っているってことですよね」
「はい」
「本人のは省くって言ったって横山さんも水谷さんもほぼ同じ資料になるわけで」
「それには全く問題は御座いません。信用なされているんでしょうね、お友達を」
「どういうことですか?」
「お二人の仲は、お友達の間では公認でして、ご存知で御座いましたよ、すでに」
不倫を知られていない水谷正人が絶対有利と考えていたが間違っていた。世間に発覚すれば横山加奈子は有名人だし、水谷正人は病院経営から外されるだろう。脅しとしては十分。いや、待てよ。弱みならおれにもある。あの船のキッチンの床に死体がある。知られてないだけだ。ならば山下! やつはどうだ?
「逆に書いてないのは?」
「はい? どういう意味で御座いましょう」
「例えば文字にするにははばかれるような事柄。それは口頭だけとか」
緒方が笑った。「法に触れるようなこと、ですか? あの四人にかぎってそんな事実は御座いませんよ」
つまり、山下のことはおれにしか知らされていない。
「じゃぁ、質問を変えます。資料にある以外のことをあなたは話さなかった。そうですよね?」
「はい? あ、はい」
知られていないという点に関してはおれと山下賢治はイーブン。だがおれは当事者じぁない分、詮索される恐れはないし、逆におれは山下賢治の秘密を知っている。これを上手く使えばやつはコントロール出来るかもしれない。
いや、待てよ。緒方は信用できるのか。いや、そこから疑ったら何もかもぐらついてしまう。猜疑心の塊となって何も見えなくなってしまう。
いいじゃないか、間違えばそこに戻れば。小説でもある。刑事が捜査に行き詰まり、言う。原点に戻ろうって。そん時まで緒方は信用しようじゃないか。いやいや、待てよ。緒方は関係者全員に資料を配布した、と言った。とするならば。
新たな不安がよぎった。ファイルから資料を一枚、手に取った。「国際子供救援基金。そこにも配布したんですか?」
「代表者の武内様にお会いしまして、資料も手渡してまいりました」