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「君に協力してもらう」 メインキャビンのシンクの横で鬼気迫る表情で稲垣が立っていた。


「計画は、ある。完全犯罪だ」


「皆藤って糞はいい。お前がどうなるかってことだ」

「ついて来い」


 キッチンの横に、下に降りる狭い階段がある。稲垣はそこを降りて行った。


「スタッフキャビン。ここが君の部屋になる」


 VIPキャビンとエンジンルームの間にこのスタッフキャビンがあるのだろう、横に細長い部屋だった。トイレ、洗面はドア無し。シャワーも無い。デスクにレターケース、工具棚にミニキャビネット、そして、部屋の雰囲気にマッチした細いベッド。稲垣はデスクに座ると海図を開いた。


「君に十日間、クルージングしてもらうと言ったが、五日目、その日の出までに皆藤の死体を海に投棄してもらう」


 津堅島つけんじまより真っ直ぐ南に稲垣は指を滑らせていく。そして一点、そこをこつこつと爪で打った。


「場所はここ。緯度二十三度四十九分、経度百二十七度五十四分。海流統計図七月から九月のを参考にしている。しかも水深が四五千はあり、さらに海溝にむかって傾斜している。十中八九、死体は海面に上がって来ないし、もしそうなっても海流は東に向かっている。まかり間違って見つかっても太平洋のど真ん中。もし浮かんできても、色々と面倒になることだし拾うやつはなんて、まぁいない。で、そこまでの日程、そして、コースはこうだ」


 稲垣は宜野湾港ぎのわんこうマリーナを指差し、海図の上を走らせていく。


「一日目は宜野湾沖に停泊。山下ら四人の船酔いを馴らすためだ。二日目と三日目は津堅島。つまり今いるこの場所だ。ここで四人には沖縄の海を満喫してもらう。三日目の深夜から四日目の朝にかけて経緯二十四度三十九分まで南下。四日目はその地点に停泊。深夜、また移動。目的地、緯度二十三度四十九分、経度百二十七度五十四分の地点に到着し、死体を投棄。五日目は停泊。注意しておくが、外洋に出れば外国船に気をつけろよ。ぶつかって来る船もいれば、商船に化けた海賊もいる。オートパイロットだからこそ気が緩まるということもある。沖縄本島近辺はいいとして、津堅島を出たらフライングデッキで操舵しろ。くれぐれも辺りに注意を怠るな」


「で、あんたはどうする?」


「僕は君たちがクルージングに出る前に皆藤を殺す。やり方は簡単。この船で大黒ふ頭か、その辺のどこかまで行き、やつをそこにおびき出す。死体はこの船で沖縄に持ち帰る」


「そういうことを聞いているんじゃない!」


 足早に稲垣は階段を上った。「来たまえ!」

 

 上がってみると稲垣はキッチンのカーペットをひっくり返していた。「この床だ。床にやつの棺桶を作った」


 稲垣は取っ手を引き興し、床を引っ張り上げる。一メートル×二メートル角の床板が外れた。


「冷倉庫。チルド室さ。絶対に腐らない」 中に手を突っ込んだ稲垣はスイッチをパチパチっと入り切りした。「設計段階で特注したんだ。食糧庫としてな。で、ここなら他の四人に見つかることはない。スタッフキャビンから直だ。そして、アフトデッキから海に投棄。ロアーデッキを見ただろ? ここは乗船する四人の生活導線とは決して重ならない。夜となれば、言うまでもない」


 稲垣は操舵席に向かった。


「燃料は満タンで二千八百リットル。さっき言ったように二十ノットで走れば燃費は百二十リットル・パー・アワー。つまり効率よく行けばこの船は二十三時間十九分走れる。距離にして四百六十六海里。十日間にかかる行程はというと、宜野湾港マリーナから津堅島まで三十七海里、津堅島から投棄地点までは百五十海里、合わせて百八十七海里、往復にすると二倍、三百七十四海里。燃料には全く問題ない」


「で、あんたはどうするんだ?」


「焼身自殺。家も燃やして何も残さない。僕と皆藤を結び付ける証拠もなくなる。犯人はいない。皆藤の死体もない。な、面白いだろ? 完全犯罪だ」


 かっとなった。我を忘れてずんずん進むと稲垣の顔面に拳を入れていた。「頭を冷やせ! あんたらしくもない!」


 操舵席を背にして倒れていた稲垣がニヤッと笑い、すくっと立った。


「パンチ力、落ちているね」


「あんた! 殴られた意味、全然分かってないだろ!」


 その言葉を無視して、稲垣はソファーセットへ向うとテーブルの上のファイルから書類を出す。


「僕の診断書だ。癌を発見した時の健康診断書、精密検査の結果、治療しなければ半年以内に死ぬらしい。早期発見らしいよ。念のため正人にも会って来た。僕にとってみれば彼は最も信用できる医者だからな。それがこの書類。やつは言ったよ。治るって。だけど僕は治療をしない。親兄弟みんな、再発したんだ。それでも頑張って治療したよ。死にたくない、死にたくないってね。だが、僕は違う。死ぬ日時も死に方も自分で決める」


 手にある書類を稲垣はテーブルに叩き付けた。


「きっとド派手な葬式になる」 


 そう言うと稲垣はメインキャビンを出てフライングデッキに上がって行った。


 唖然とした。家を包む炎。稲垣は自分の死に様をド派手な葬式と揶揄したんだ。―――やつは自暴自棄になっている。


 ふと、だがそうだろうかと考え直す。よく聞くのが自己嫌悪から自己否定、そして、自暴自棄になるという理屈。あるいは、『見捨てられ不安』で人の注目を集めたいという類。稲垣の場合、運命という点において後者とも考えられなくもない。


 だが一方で、復讐という願望がある。―――皆藤真。その踏ん切りが死に直面してついたということか。


 フライングデッキに上がると、デッキチェアで稲垣が腕を頭の下に組み、悠々と空を眺めていた。


「十日間の旅とは別料金だ。謝礼は一千万。投棄するだけだからな」


 その満面な笑みに、おれは言葉を失ってしまった。稲垣が言った。


「晴々しい。……なぁ、こういうのを太陽がいっぱいって言うんだろ?」






 川崎のワンルームの隅でおれはあの日を考えていた。目の前には段ボール箱。依然としてその中には、コピー用紙に紛れて一千万円が入っていた。


 名優アラン・ドロンの映画が、真っ白なフライングデッキに降りそそぐ太陽光の中で青い海と空をバックにデッキチアで横になる稲垣陽一の姿と重なる。―――『太陽がいっぱい』。確かにその言葉はおれへ投げかけられた言葉だった。だが、おれは返す言葉を見つけられず川崎に帰って来ていた。どうしても解せないのだ。


 若かりし頃、稲垣との話題は大抵、映画や小説であった。きっと、昔のように稲垣は、おれが言い返して来るのを待っていたのだろう。相槌でもいい。そりゃ、おかしいだろう、と否定するとか、それこそ質問に質問返しでも良かったのかもしれない。『太陽がいっぱい』。その言葉を、おれは頭の中で何度も反芻する。







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