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 結局、どう考えても不安は拭えない。やつはどんな問題を抱えているのだろうか。それがやっぱり気に掛かる。あまり面倒なことに巻き込まないでいてほしい。それが切実な願いだ。


 ところが、その稲垣はというと、問題を抱えているような風には全く見えない。いや、なにかふっきれた清々しさを感じさせる。あるいは、川崎のマンションで言ったホイールハウスが実現したということを稲垣はおれに見せたかっただけなのか。


 目指す津堅島つけんじまが見えてきた。標高三十九メートルの扁平な島で沖縄県うるま市に属する。別名キャロットアイランドとも呼ばれ、ニンジン畑が島内に広がる。青い空にモンシロチョウ、青い海に熱帯魚。まさに夢の楽園である。


 島を囲んでぐるりと帯状に、海が波立っているのに気付いた。稲垣が言った。


「あの下は長い年月蓄積したサンゴで盛り上がっているんだ。波の内側は水深数メートルで、外側は急激な下り坂だ」


 ステアリングを握った稲垣は白波の帯から十メートルほどの間隔をおいて船を北上させた。


「浅い方がインリーフといい、サンゴ礁の外海をアウトリーフという。それが大潮の干潮の時、境界である箇所のサンゴが波間から顔を出す。つまりインリーフは外海から閉ざされた状態になったということだ。となれば魚たちも外洋に出ることはできなくなる。観察には持って来いで、その状態をここいら辺ではイノーという」


 遥か前方のインリーフを水上オートバイが三台、三つ編みするように走っている。延々と島を縁取る白い砂浜。沢山のパラソル群と人、人。そして、一つのやぐら。波間には黄色いなにかがプカプカしている。バナナボートであろう。


「ヤジリ浜だ。それでむこうがアフ岩」


 ちょっと離れた沖に津堅島つけんじまを小さくしたような島がある。人は、住んでいない。そもそも島だと認定されていないのだ。『アフ』というのは向かい合うの『合う』とか、青色の『青』とかが語源となっている。アフ岩は浜辺がほとんどないが付近は遠浅で、大潮の干潮時には津堅島からアフ岩まで歩いて渡れるという。


 人で賑わうヤジリ浜を横目に過ぎ、アフ岩へ最短距離まで近づいた。だが、上陸するにはまだ遠すぎる。津堅島は浜から約百メートル範囲でリーフを形成する。白波が稲垣のサロンクルーザーを遮断していた。


「船外機付きのゴムボートがある。トランサムステップに降りてリアハッチを開けてみろ。二つのエンジンの間にスペースがある。そこに格納してあるから岩の近くまで行くなら引っ張り出すといい」


 トランサムステップとは大船尾に設置されたステップ床でほぼ喫水線上にあり、構造デザイン上に含まれている物もあれば、折りたたみ式のもあり、後付けのもある。サロンクルーザーと銘打つならば、広々としたトランサムステップ、しかもチーク張りがいい。ボンベを背負って船べりからひっくり返っていては品位の欠片もない。海へのエントリーは軽やかに飛び込みたい。あるいはデッキに腰掛けて足をパシャパシャと波間と戯れるのもいい。まさに、稲垣の船はそういう船であった。


「いいや、遠慮しとく」

「破目を外さないんだな。君は」


「あんたもな」

「そうかい? 君が行くなら僕も行こうと思ったのに。奇麗だぜ、沖縄の海」


 はて、と思った。マリーナで、隣の船の男が言った『女』という言葉が頭に浮かんだ。さては稲垣、その女としょっちゅうここへ来ていたに違いない。その相手は一体どんな女なのか、興味がわく。アフ岩に向けて顎をしゃくった。


「あそこに行ったのか? 女と」


「当然さ。楽しかったよ」


「その女とはどうなんだ?」


 稲垣は笑った。「気になるかい? 君はどうなんだ? 結婚しているのかい?」


「いいや」


「だと思った。君に子供は似合わない」

「あんたに言われなくないね。それでどうなんだ? その女」

「言わなくてはいけないか?」

「ああ」


「あこがれのひととだけ言っておこう」


 あこがれ、とはどういう意味だろう。先ず思い浮かぶのは、生き方にあこがれる。あるいはその美しさに手が届かずにあこがれる。高嶺の花っていうやつだ。もっとシンプルに考えれば、あこがれた女。つまり初恋の人ということになる。しかし、どれもこれもこの稲垣からは遠いような気がする。その稲垣が言った。


「飯にでもするか。うまいパスタを作ってやるよ」


 稲垣はフライングデッキを降りて行った。そして、メインキャビンのキッチンに入ると調理を始める。手慣れた手つきで、ものの十二三分、ソファーの前のテーブルに皿が二つ並べられた。


「モッツァレラとフレッシュトマトのパスタ。で、それに合ったワインはと」 正面の棚の下にはめ込まれたワインセラーを物色しだした。


「あんた、そうやってあこがれのひとに飯を食わせていたのか?」


 きょとんと突っ立った稲垣は、言った。「あ、そうか。君はビールだったね」


「いいや、そういうつもりで言ったんじゃない」

「そうはいかんさ。今日は君がゲストなんだ。缶しかないが、いいかい?」

「十分」


 稲垣は、キッチンの冷蔵庫を開けると手に取ったビールをそこからふわっと投げた。今しがたまでゲストとのたまっていたのが嘘のようだ。弧を描いて飛んできたビールを、パスタがめちゃくちゃにならないようテーブルの上でキャッチする。いい気なもので、稲垣はその場で自分のビールの栓を開け、乾杯のしぐさを見せる。


 飯を食い終わって、稲垣は一冊のファイルを渡してきた。ファイルは厚紙の、A四よりちょっと大きめの、開き止めにゴムを使ったやつだ。開けると中は三方折り返しのフラップ状になっていて一方を持ち上げると他の二つもくっ付いて立ちあがってくる。稲垣は言った。


「僕の会社だ」


 ファイルに入ったA四の用紙の右肩に株式会社INAGAKIとあり、中央上に大きく『概要』と銘打っていた。おれはファイルから書類の束をいっぺんに引っ張り出そうと手をつけた。すると稲垣が言った。


「気をつけてくれ。写真も入っているんだ」


 ああ、それで三方折り返しか。なるほど掴んだ感触で分かる。所々、それも、大きさがまちまちな写真が入っていた。それを落としてしまっては説明の段取りが崩れてしまう、とでも稲垣は言いたいのであろう。おれは書類の一番上から一枚取り出した。用紙の『概要』と書かれているすぐ下の欄。――― 総資産五百億。そこからざっと視線を下へ流す。


 所有する不動産と会社。名だたる会社から聞いたこともない会社まで株式等々。そして、有価証券報告書。事業の状況、経理の状態。会社としては規模が小さいがやっていることはほとんどホールディングスカンパニー。


「そこにある一覧で三百億。いつでも動かせる金が銀行に二百億」


 どうやって稼いだのか。「どうやって?」 

 稼いだのか、という部分は言葉にしなかった。稲垣を穢すように思えたからだ。


「ま、話せば長い話になる」


 笑顔を見せる稲垣の様子から話さないつもりなのだと理解できた。ま、当然と言えば当然。本題は他にある。


「まさか自慢するためにおれを呼んだってわけじゃぁないだろ?」


 一転して稲垣の目は鋭くなった。


「君にこの会社の社長になってもらいたい」







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