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 スピードメーターを見た。針は二十を指している。時速に直せば約三十七キロ。稲垣が言った。


「この船は、このスピードが最も燃費がいい」


「今日は無風で潮流もほとんどなさそうだな」


「湾内はな。だけど、この辺の海は沖縄本島にそって南から北への潮流がある。速さは一ノットくらいか。それに逆らって行けば十九ノット。乗って行けば二十一ノット」


「燃費はどれくらいだ」


「百二十」

「百二十リットル・パー・アワーってことか」


「自慢じゃないが、あまり燃費はいいほうではない」


 ――― メインキャビン。稲垣がいうホイールハウスを見渡した。人がゆったり座れる大仰なソファー、重厚感のある木目の棚。「無駄なものが多すぎる、だろ?」


「乗せたいものが次から次に出てくるんだ。それでどれを乗せたらいいか判断がつかなくなって。この下のロアーデッキなんかはこんなもんじゃない」


「燃料タンクは?」

「二千八百リッター入る」 稲垣は指先で、燃料メーターをコンコンとこついた。


「つまり、効率よく走って二十三時間とちょっとということだな」


「四百六十六海里。キロに直せば約八百六十ってとこだ」

「考えてみればそう悪くない。沖縄近海で遊ぶには十分だな」


 稲垣はフフフっと笑った。「この船、ほんとうは君好みではないのだろ」


「あんたらしくないってこと。優雅に遊んでるイメージが出来ない」


「僕も変わったのさ。いや、変わらざるを得なかった」


「あれから十年以上たっているからな。いろいろあったというわけか」


「君はどうだい」

「おれも変わったさ。部下を持って柄にもなく技術指導なんてこともしている」


「で、行きたいところは?」

「あんたの行きたい所へ」


「いいのかい」

「もちろん」


「お勧めは津堅島つけんじまのアフ岩だな。あそこはいい」

「どの辺だ?」 ディスプレイを覗き込む。


「ここのマリーナから言うと本島を挟んで向こう側、」 稲垣はディスプレイをタッチしてGPSに行き先を示した。


「距離は三十七海里ってところだな。平均二十ノットで一・八五時間」

「一時間五十一分。約二時間ってわけか」


「フライングデッキに行こう。沖縄の海を楽しもうじゃないか。っとその前に」


 ステアリングホイールをほっぽいて稲垣は移動し、酒の入っている棚を開ける。おいおいと慌ててステアリングホイールを握った。


「大丈夫だ。オートパイロット。飛行機でよく聞くだろ、それだ」


 恐る恐る手を離した。黒霧をキッチン台におくと稲垣は二つのグラスに氷を入れる。「勝手にステアリングが動いているだろ」


「ほんとだ」 


「さぁ、フライングデッキに行こう」


 アフトデッキへ出て階段を上る。メインキャビンの上、屋根に当たる部分だが、そこでも操舵、通信などが出来る。フライングデッキといい、中央にはアニメの某少佐専用モビルスーツの鶏冠を思わせる形のレーダー柱があり、前方には操舵席と五人掛けソファーがある。後方はというと、リゾートで見られるようなデッキチェアが二つは並べられていた。


 やはり沖縄はどこもかしこも青かった。上空からみればこの船は、まるでファスナーのスライダーのように見えるだろう。大海原を二つに割って行くようだ。船が通った後だけが真っ白に、しかも裾を広げるように白波を立てている。


 通常、大海原で目的地に向かってまっすぐ進むのは至難の業である。風や潮の影響を受ける。なにより道がない。


 インパネに手をつき、前かがみになっている稲垣の懐では、ステアリングが小刻みに動いていた。GPSによるNAVIオートパイロットである。設定したコースに従って風や潮から受ける影響を自動修正しながら最小燃費で目的地を目指してくれる。


 航海は順調であった。乗り心地もいい。潮風は生臭くなく、さわやかで『香り』と言っていい。風を切っていくのも爽快だった。


 だが、楽しくはなかった。大海原で二人っきり。巻き毛を風になびかせ水面を眺める稲垣の横顔。そこに表情がないのがおれを不安にさせる。この男は一体なにを考えているのであろうか。


 確かに十二三年の月日は大きい。その間一度も会っていないのだ。それに別れの言葉も何もないっていうのがなんとも気持ち悪い。


 例えばある男に何年も会っていなくて街角で偶然顔を合わすとしよう。あ、○○さんとまずは驚く。それで、どうしてた? なんて話に移る。さもなくば、驚いただけでまたなと声を掛けて別れる。今回の場合、呼び出された。航空券、ホテルの代金、なにからなにまで稲垣が用意してくれた。何かあるとしか思えない。しかもだ、どうやって突き止めたかおれの住所や電話番号を稲垣は把握している。


 つまり再会はおれにとっては恐る恐るってことになる。おそらくは、おれの笑顔がぎこちなかったであろう、それを稲垣は見抜いているらしく、再会の笑顔というより、おれの素振りを見て笑っているようだった。大丈夫、取って食いはしないよ、とでもいうのだろうか。


 それがさらに不安にさせた。この年になってそうそう人間を信用できるものではない。それに稲垣は遊びの相手にするためにおれを沖縄くんだりまで呼んだりするような男ではない。船を自慢するためなんてのも論外。会いたかったら、やつの方からその身一つで川崎に来た。


 過去一度だけでしかないが、稲垣の家に行ったことがある。あの時も誘われた。あれは部屋を自慢したいわけではない。いま考えると理由がさっぱり分からない。しかも、それ以来会っていないのだから、それを含めよくよく考えると怖くなる。


 あるいは、いや、考え過ぎか。やつも人の子。人恋しくなったのか。『親兄弟も死んだ。どうも癌の家系のようだな』 多分、呼びつけたのはそこに集約する、とも思える。最後に会ったあの晩の会話―――。稲垣は個人経営者となり、おれは勤め人となった。生き方のすれ違いというのであろうか、あの時は稲垣も若かったというわけだ。つっぱったんだろう。


 だが、なぜおれなんだろうか。こんなサロンクルーザーを持てる稲垣陽一なら、ほかにもいそうなものだ。


 光栄だが、それがかえっておれには稲垣が思いもよらぬ大変な事情を抱えているように思わせてならない。おれと稲垣との接点は、世間的の尺度で言うと、存在しないも同然なんだ。







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