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JR川崎駅西口からJR尻手駅までに南幸町二丁目の交差点がある。その付近は古ぼけた木造が多かったが、突如消え失せて大きな賃貸マンションが建った。そこに稲垣の部屋はあった。
リビングダイニングキッチン。対面式L字シンクには、バーのカウンターを思わせるテーブルが付いている。だだっ広いフローリングには生活感がない。ソファーもテレビもなく、部屋の中央に大きなデスクとその上に並ぶ電子機械、そして、革張りの椅子が置かれていた。
カウンターテーブルの椅子から部屋を眺める。おれの肘の前に『黒霧島』のロックが置かれた。カウンターの向こうで稲垣が言った。
「プリンター、ファックス、高速インターネット、PC、Eメール、電話、携帯電話、携帯情報端末。どうだい? ここは僕のホイールハウスさ」
「ホイールハウス?」
「ナビデッキと言った方がわかりよいか」
「あんた、船が好きなのか?」
「分かるか! もしかして君も船に興味があるとか」
「まぁ、分からなくはない。船はおやじが持っていてな、小さなやつさ。唯一の道楽だけど使う時はお付き合いで、結局は仕事だった」
「でも、うらやましい」
「そうか? おれは面白くなかったぜ。無理矢理やつに小型船舶一級を取らされたんだ。もちろん、初めは取る気なかったんだけど、考えてみれば東京湾から見る夜景、そりゃぁ、絶対にモテる。車の免許なんてほっぽいて必死こいて勉強したさ。それでなんとか合格して、狙っていた女も吊りあげたんだけど、いざ海の上でやろうと思ったらその女、ゲーゲー船酔いで、ざまぁない。見苦しくてその女も船も嫌いになった」
「ふふ、面白い話だね。参考になったよ。恥ずかしい話だがね、僕はいつか船を買おうと思っている。五十フィート級のやつだ」
「サロンクルーザーってやつか」
「そうさ。そのために僕はこれで金を稼ぐ」 稲垣はデスクに目をやった。「株の仲介屋を始めた。もちろん、おいしい株は僕も押さえておくし、売ったりも買ったりもする。それに力を貸してくれる人もいるしね」
「へぇー、思っていた通り、あんた、頭がいいんだな」
「そういうのは止めてくれ」
「頭いいと褒められりゃ天にも昇る気になるやつもいるし、あんたみたいなやつもいる。世の中、まったくやりずれぇ。で、どうなんだい。その、力を貸してくれる男ってぇのは。なんだかやばい感じがするが」
「君が言う『頭がいい』云々のやつさ。で、ご想像通りそいつは性悪だ。隙を見せたらこっちが危ない」
「じゃ、なんでそいつとなんだ」
「だからさ、だから儲かるんだ」
「いよいよ分からなくなってきた」
「いいや、君はよくわかってるはずさ。独りでやってるんだろ? 見てたらわかる。客の弱みに付け込んで工賃を挙げる。で、悪い奴とも手を組む」
「そんなこともあったが、おれの相手は所詮小物だったよ」
「だが、それでやってきた」
「ああ、おれは誰にも従わない。って言いたいところだが、おやじに謀られた。バイトに行っていた鉄工屋なんだけど、そこの社長とおやじが繋がっていてな、初めはほんのたまにの手伝いだったが、あとはもうずるずるべったり。気付けばこのざまさ」
「というと?」
「勤め人になったってことさ」
何かを言おうとしたようだ。が、稲垣は口を閉ざした。おやっと思ったがそれもつかの間、見たことのない満面の笑みで言った。
「いい親孝行じゃないか」
「そうか? つくづくいやな野郎だぜ、親父は」
その夜、おれは稲垣の部屋に泊まった。そして、一睡も出来なかった。原因は例の『腹筋』だ。だが、奇行とは思わなかった。大抵、人は自分をまともだと思っている。ところが他人から見れば変だったりする。あるいはまともだと言うやつに限ってそうなのかもしれない。
例えば自らの誠実をアピールするのに、“正直者は馬鹿を見る”と自分自身を皮肉ったやつがいたとする。おれはぜったいにその男を信用しない。正直者だと主張するならまだしも、馬鹿を見るとそこまで言えば悪意を感じる。腹の中に不平や不安をぎっちりため込んで誰かにぶつけるその機会を狙ってやがるんだ、と思ってしまう。
その点からいえば、稲垣は内に籠るタイプだったと思う。だから、鬱憤は発散し得ない。それでたぶん、溜めた不平か、不安かを夜中繰り返す腹筋で昇華させようとしているのだろう。
ともかく、何も言わないつもりだったが、心配は心配であったので一言二言声をかけた。どういう返事が返って来たのかよく覚えてない。確かなのはそれ以来、稲垣の姿はぷっつりと川崎の町から消えてしまったということだった。
稲垣の声を聞いたのはそれから十二三年経ってから。いきなり電話があった。沖縄からかけてきているという。それまでは、電話や手紙のやり取りした覚えがない。飯に通う店だけがお互いの接点で、おれの住所も電話番号も知らないはずだった。そして再会は、昨年の六月のあたま、その沖縄で、である。