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 後で知ることとなったが稲垣は何時間でも腹筋が出来た。もしかして丸一日出来るのかもしれない。たった一晩だが、過去に稲垣のマンションに泊まったことがある。真夜中だった。リズムカルに息を吸い、そして吐く。その単調に繰り返される音におれは目を覚まし、それが腹筋している呼吸音だと分かる。


 気になると寝付けない。文句を言ってもいいが、そうそう長くは筋トレなんてやってられまい。いつかは終わるのだろう。


 そっとしとこう。そんな諦めの境地に一度は達した。ところが以後もまったく終わる気配を見せない。ついには夜が明けてしまった。


 顔を殴るべきだった。一千万受け取るまでのおれだったら、素直に腹でよかったとも思えただろう。意気投合しだんだ。しかし、今は違う。顔を殴れば稲垣陽一と親しくなることはなかった。


 やつと初めて会った頃、そう、二十年前も、JR川崎駅東口を出て五分程度の距離に垢ぬけた通りがあった。映画館二つとライブハウスが並び、祭日休日問わず人が行き交い、多種多様、スーツ姿からその日行われるライブに合わせた奇抜な服装まで、いろんな生き方がそこには共存していた。


 そんな二十年前と今と違うのは、当時、路地に一歩入ればその様相はがらりと変わるということだった。映画館のひとつは総合アミューズメント施設のはしりであり、その一階は白人の女性(おそらくはロシア人であろう)がポニーテールにローラースケートで飲み物や軽食を運ぶカフェであった。アメリカンスタイルとでも言うのだろうか、こっぱずかしくて入れなかった。


 が、その店の真向かいに細く薄暗い路地があった。ほとんどドヤ街で、そこを奥へ奥へ進むとどこからともなく日雇いや失業者がうようよ現れ、例えばこの通りの代表的な店はというと、紙切れ、あるいは新聞を片手にテレビを観戦する賭博場。いや、遊興施設と言った方が良いのだろうか。


 その大人の遊び場の横か、ひょっとして向かいだったか、旨い焼鳥屋があった。そこで偶然にも稲垣陽一と再会した。ピンサロの前で、のされて以来二カ月目のある日だった。


 なんていう名前の焼き鳥屋だったか。いや、名など聞いた覚えがいない。壁がススまみれの、古い温泉街の射的場のような造りの店で、いつも混んではいたが、おれとしては窮屈な思いをした記憶がない。


 というのも、あてにならない換気扇のためか店の引き戸が全て外されていて、そのうえカウンターは道に対面していた。だから、カウンターに並んでいる人の背中が通行人から全て見える。くだんの焼き鳥屋にしてみれば、路地も店の一部だというのだろう。開き直っていた感はぬぐえないが、そこは場所柄。例によっておれは路地で大人しく、席が空く順番を待っていた。


 客が席を立ったのでその席に入れ替わった。それから十五分ほど経っただろうか、十人くらい離れた向こうで、食べ終わった客とひょろっと背の高い男が席を入れ替わった。クルクルカールの髪に、おやっと思ったおれは背筋を伸ばして、前へ後ろへ体を揺さぶり、座ったやつの顔を確認した。


 間違いない。稲垣陽一である。会社の帰りだろうスーツ姿だった。


 じーっと睨んでいたのが稲垣に分かったのか、稲垣は落ち着きを失ったようである。まるでネジでも閉めるかのようにコップをクルクルと、しかし、ゆっくりと回しだした。表情の方はよく分からない。巻き毛が垂れ下がっていて見えないのだ。ただ、その仕草から稲垣がおれに気付いているのは確かだった。ビビっているのだろうなと視線を稲垣から移さずに、手にある焼き鳥をかじって串から剝いでいく。


 どうしてやろうかとそればっかりを考えていた。あまりにその考えに執着していたので隣が勘定を済ませたことも気付かなかった。当然、席を待っていた客が入れ替わろうと入って来る。


「ちょっと待った」 と、なぜか、稲垣が入ろうとした客に声をかけた。「こっちに換わってくれないか。向こうの男は僕の友人なんだ」


 ビールびんを掴み、空いたもう一方の手で皿とコップを取る。移動してくると滑るようにおれの横に入った。


「このまえはどうも」


 見向きもしない。おれの視点は正面のカウンターにあった。「覚悟はできてるっていうわけか」


「そういうわけじゃないんだけど、この前、先に突っかかって来たのは君なんだ。僕は自分の身を守った」 そう言って稲垣がおれのコップにビールを勝手に注いだ。


「稲垣陽一。幸区に住んでる」


「ああ? ばかにしてんだろ?」


「まぁ、聞いてくれ。君にも事情があったんだろう。たぶん、あの女は性悪だ。君が倒れてうつろに視線を漂わせていると見るや、助けたこの僕をひとりほっぽいて消えて行ってしまった。きっと警察沙汰になりたくはなかったんだろうな。思うにあの女は君に何かをしていたし、そういう点から言うと僕もあの女の被害者と言えなくはない」


「ふーん、いっしょに女を探そうってのか?」


「いやいや、それはいいんだ。そんなことより君、僕と会うのは二回目とか、そう思っているだろ?」


「違うか?」


「それは間違い。君とは何度も会ってるよ。この店、よく来るだろ?」


 そういうことか、と思った。が、それがどうしたというんだ。「なるほどな。ずっと顔見知りっだったっていうわけか。だがな、今の気持ちをいうと、おれはあんたのことをただ、ぶん殴りたいだけだ」


「殴って済むならそうしてくれ。だけどそれはお門違いってもんだ。だってそうだろ? 僕だって被害者なんだ。それにこの店だけじゃない。どういうわけか君とは趣味が合っている。他の店でも会ってるよ。で、僕は考えたんだ。ここは勇気を振り絞って君と話をしなければってね。でないと川崎で飯が食えなくなる」


「知ったことか」


「ま、いずれにしろ君は僕を殴ろうと思えばいつでもできる。君が僕と会いたくないって言うなら別だ。君の方が別の店に行くんだな」


 稲垣は、財布から一万円を出すと店の親父に渡した。「この人の代金もいっしょに。つりはとっといて下さい」


「待てよ。逃げんのかよ」


「あわてなさんな。楽しみは後に取っておくもんだ」


 そう言って稲垣は去って行った。


 大抵、この手の約束は信じた方が馬鹿を見る。ばっくられるのがオチなのだ。しかし、稲垣に漂う雰囲気というか、なにかが、おれを信用させた。たぶんではあるが、稲垣は独りで飲み食いするおれの様子をずっと見ていたのかもしれない。どういう男なのかと興味を持っていたのだろう。じゃないと人、人、人の都会で人ひとりの顔を覚えてはいられない。おれにしても稲垣のたたずまいから嫌いな男ではなかった。それに、覚えてしまった親近感はどうしてもぬぐえない。


 実際に、いつでも会えるという稲垣の言葉に嘘はなかった。それからちょくちょく顔を合わせることになる。焼鳥屋はもちろん、JR川崎駅西口側のドヤ街、幸消防署南河原出張所近くの焼き肉屋、東芝柳町工場近くの食堂等々、他にもいくつかあった。


 不思議な感じがした。稲垣はおれの姿を見ると大抵は軽く手を挙げて挨拶するだけだが、ときどきは席を移って来た。そして愚にもつかないこと、ほとんどが映画や小説だったが、よもやまばなしに花を咲かせていた。


 それでも、おれは自分自身をさらけ出さなかったし、稲垣もそうだった。内容はさして重要ではない。その距離感が心地よかった。


 それから六七年経ったか。何の前触れもなく稲垣は川崎から消えた。半年は見なかったかと思う。どうしたのだろう、車にでも撥ねられたのだろうかと心配しだした矢先だった。南川原の焼き肉屋でばったり出くわした。いつもの奥の席に座っていたのだが、おれが席に着くや否や、飛んできて相席したかと思うと満面な笑みで言った。


「これから僕の部屋に来ないか? 君の好きな黒霧もあるよ!」


 黒霧とは『黒霧島』という芋焼酎のことで、いまでこそよく知られるがその頃にちょくちょく世間に出始めていた。ほとんどビールばかりだったが、ある時カウンターの向こうに並んでいるその姿が気になって魔が指した。以降、焼酎も飲むようになる。


 といっても、晩酌はまだほとんどビールだった。言いたいのはのこのこ付いて行った理由が『黒霧島』ではないということだ。満面な笑みに、おやっと思ったんだ。稲垣らしくない。あまり感情を表に出さない男だったゆえ、かえっておれは心配になった。







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