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 小西明が去った後、それに入れ替わる形で、どういう風の吹き回しか、資産家の中小路雅彦《怠惰》が席を移ってきた。すると田中美樹《姦淫》の顔がパッと明るくなった。中小路《怠惰》もまんざらではないようだった。笑顔を返した。


「お嬢さん。少し狩場さんと話をさせてもらえないかな」


「どうぞ」


 猫なで声である。あれほどおれにはぶっきら棒だった田中美樹《姦淫》が何たる変わりようだ。唖然とした。逆を言えば自分がどれだけ嫌われているか分かるというもの。


 中小路雅彦《怠惰》が言った。


「地震が起きる前に、建設株を買ったのは僕が知る限り、日本人では稲垣君しか知らない。狩場君は稲垣君と友人なんだろ」


 地震とは東日本大震災のことなのだろう。そんなことがあったんだ。稲垣陽一という男―――。あいつはあまりにも純粋すぎた。金儲けをしたがいいが、自分のしたことに罪悪感があったのだろう。そんなことを何回も繰り返し、行動と精神のバランスが崩れた。そして、暴挙に出た。


『沖縄沖遭難殺人事件』。稲垣陽一の自殺から端を発するその事件は凄惨せいさんを極めた。


 ふと、中小路《怠惰》がおれの目に視線を合わているのに気付いた。いつも眠たげで、うつむき加減な中小路《怠惰》なはずだったが、どういうことだろう。稲垣陽一のことがそんなに知りたいのか。もしかして、『沖縄沖遭難殺人事件』の真相を知っているのかもしれない。


 いや、有り得ない。そんなことは絶対にない。


「すいません、中小路さん。あなたと稲垣陽一とはどんな関係で?」


「この業界は君たちは思っているよりずっと世間が狭いんだ。そのうえ、上手いことやるやつはいつも注目の的になる」 


「同業者というわけですか。それで彼とは近い関係で?」


 中小路《怠惰》があまりに力強くおれを見るので、おれは中小路《怠惰》の、少し茶色がかった瞳に吸い込まれていくような感覚を覚えていた。


「違うな。僕と稲垣君が一緒にいたってことになれば、世間はあることないこと大騒ぎだ。だけど僕としては、彼とは、一度は会ってみたかったなぁ、残念だ。せめて君から聞かせてもらえないか、稲垣君のことを」


 語ろうにも、おれはやつについて人に語る言葉は持っていない。世間の尺度で言うと、確かにやつは真っ当ではなかった。おそらくは、やつのとった行動をおれの口から世間に話せば、面白がられて、最後には狂人というレッテルが張られて終わりなのだ。


――― 稲垣陽一。

 

 忘れもしない去年の七月二十日。稲垣はおれの部屋、築二十年のワンルームに、一千万円もの大金を宅配で送りつけてきた。






 *       *       *



 一抱えできる段ボールに貼り付けられた送り状には、送り主の名とともに品名の欄にコピー用紙と書いてあった。


 それがおれの部屋の角にきっちり収まっている。空けるとA四サイズ五百枚梱包が五冊入っていた。一つ一つ取りだしていくと二冊、腰の弱い、端を持つと折り曲がるやつがある。梱包の中央には爪で引っ掻いた跡があり、―――それは不信に思ったおれが届いた五日前につけたものであり、傷ついた梱包の白い紙の間からは黒い印刷物がほんの少し見えていた。柄から明らかに万札。それがコピー用紙の額にぴったりと収まっている。


 一千万円。


 ごくりとノドがなった。確かに一千万円は、まだ消えずにここにある。


 おれは稲垣陽一に、六月末に鉄工所を辞めてすぐに沖縄に来いと言われていた。それでもおれは、やりかけの仕事を放り出すことが出来ず、結局鉄工所を辞めたのは今日、七月二十五日だった。正式な退社日は七月末。山ほど溜まっていた有休をちょこっと使い、その日最後の挨拶を終え、鉄工所をあとにしていた。


 まだ信じられない想いだった。札束が収まったコピー用紙の梱包。おれはそこから金を抜き出すことが出来ず、送らて来た時のようにまた丁寧に段ボール箱の中に納め直した。考えうるに稲垣陽一は、間違いなく皆藤真かいどうまことなる男を殺した。そして、今更ながらこう思う。あいつならやりかねないと。


 稲垣に初めて会ったのは二十年ほど前になる。場所は川崎の堀之内から少し離れた怪しげなピンサロの前だった。その日はまったくもってついてなかった。建設現場で元請会社の監督に言いがかりをつけられて退場処分をくらっていたし、どうして入ったのか今になっても首をかしげるのだが、どう見てもやばいだろっていうピンサロでぼったくられていた。思うに、認めたくはなかったが、あの時は現場監督にののしられて自虐的になっていた。


 初めに五十歳くらいのばあさんがついた。安いから仕方ないかとズボンを下げたらどういうわけかそのばあさん、おれのズボンを引き上げた。


「後でナンバー1が来るから待っててね。それまで飲みましょ」


 それを三回くらった。入れ替わり立ち替わり、四、五十のばあさんが来たんだ。時間が迫っているところに悶々とした気持ちはどうしようもなく、延長しますかとの声に応じてしまっていた。それからさらに三回回転してやっとそのナンバー1が来たのだが、忘れもしない、おかめちゃんだった。しもぶくれに凹凸のない顔。ところが、腕の方、いや、口の方は確かで、終わった後には訳のわからない達成感を覚えてしまった。


 それを例えて言うなら詰まった配管に水が通った。すっきりはしたのだろうが、心身ともに満足したかと言えばそうではない。金を払って店を出た途端、突如湧き起こった怒りに身が震えた。そこに絶妙なタイミングである。いや、間が悪かったのか、見覚えのある女が通りかかった。


 二三カ月程前、同棲していた女に二百万ほど持ち逃げされていた。驚くことにその女が目の前を歩いているのだ。いま思うと女は堀之内に出勤するのだろうが、その時はどうでもよかった。反射的に飛びかかっていた。


 ひっ捕まえるなり泣き叫ぶのを構わず殴り蹴りする。それがどういう拍子か、おそらくは振り回した勢いだろう、女はおれの手を離れ偶然通りがかった男にぶつかった。ひょろっとした長身に長い手足、Tシャツにデニム、生まれながらの巻き毛なのだろう、髪の毛はボサボサで、あっちこっちにひっくり返っていた。


 その通行人こそが、稲垣陽一である。


 咄嗟に、女は稲垣の後ろに回った。稲垣に、どけと言った。ところが稲垣は応じない。ボーっと突っ立っている。それだけでも腹が立つのに、こともあろうか稲垣陽一は一瞬、おれに向けて薄笑いを見せた。


 プッチンきれる音がした。宣戦布告なしに手を出していた。怒りにまかせ、稲垣の腹にこぶしを入れた。これをくらって倒れなかった者をおれは知らない。


 二十年ほど前には、建設現場ではガス瓶を担いで階段を上り下りする職人はもう見られなくなっていた。それを年齢の若い、昔を知らないはずのおれは悠々とやってのける。二十階は一度も瓶を下さずに行けた。実家は町の鉄工屋だったんで担ぐコツは掴んでいたし、それで鍛えられた足腰はずば抜けていると自負していた。


 その足腰から繰り出されるパンチ、その破壊力たるや川崎の不良のトップとやり合った喧嘩を思い起こされる。今や語り草となっていた逆転のこぶし。当時はもてはやされたもんだ。川崎の不良の間ではボディーブローが流行ったという。そのこぶしを稲垣の腹に入れた。が、どうもおかしい。今までにない感触。野球の練習でタイヤにバットをぶつけるのがある。振ったバットがタイヤにバンッと弾かれる、それに近いイメージであった。


 果たして、稲垣の反撃に転じるすばやさ。おれは上から頭を押さえつけられ、下を向かされたかと思うと顔面に衝撃を受けた。稲垣の膝である。自慢のおれの足腰は、まるで熱で溶けていく鉄筋のようにぐにゃぐにゃと折れ曲がり、挙句、おれは仰向けに空を見る羽目となっていた。






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