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脳裏に浮かんだことがある。蛾の稲垣は武内忍を守ったわけでない。そう、武内忍がこんなことをするはずが絶対にないんだ。きっと稲垣が武内忍に憑依していて操っていた。明晰な頭脳。恐ろしい死にざま。そして、やつなら、死してもそれぐらいのことはやりかねない。
ステンドグラスは割れてなく、さっきと同じように、神々しいまでの光がそこから注がれていた。
これこそが稲垣の策謀。『沖縄沖遭難殺人事件』の関係者で生き残っているのはおれのみ。おれはもう耐えられない。
我ながら笑ってしまう。何が生きて行くことは傷付いていくことだ。啖呵を切った相手は稲垣ではなくて、誰でもなく、自分自身。えらっそうにおれは何様のつもりだったのか。ほとほと自分が嫌いになってしまった。
「さぁ、やってくれ。おれはもう疲れた」
「そうですか。では、お休みなさい。稲垣陽一の従者狩場大輔」
透き通るように白く、ほっそりとした武内忍の人差し指。それが拳銃の引き金をゆっくりと絞る。おれは死ぬ。固唾を呑む。
銃声。
「人は傷付いて、また傷付いて、それでも生きて行く。あなたがそう言ったようにあなた自身もそうやって生きていくの、狩場大輔」
その言葉を、死んだはずなのに、なぜかおれは聞いていた。だが、どうして。何が起こっている。武内が続けた。
「気分はどう? 少しはすっきりしたかしら」
―――おれは死んでいなかった。
どういうことだ? 状況が掴めない。
望月はおもむろに、拳銃を自分のこめかみに押し当てた。おれから奪ったものだ。
「止めろ!」
おれの制止に構わず望月は引き金を引いた。
銃声が鳴った。
が、望月は笑顔を見せた。
「空砲だ」 おれの手に銃を戻した。「僕らは咎人だ。だが、誰かに罰せられる謂れはない。君自身もこの四日間でそう思っただろ? もちろん悔い改めはする。だけどそれは今じゃない。敗者になった時だ。僕たちは行かなくてはならないところがある。悲しいけどそこまでの道のりはトーナメントなんだ。で、どうだい、気分は? 呪いは解けたか?」
嬉しそうな顔をしていたのだろうか。あるいは、晴れ晴れとした顔をしていたのかもしれない。いきなり望月に、完治おめでとう、と言われ、抱きしめられた。
武内忍が言った。
「メリークリスマス」
「メリークリスマス!」 黒覆面の男たちが覆面を天井高くに投げた。田中もいた。井田もいた。沼田もいたし、橋本もいた。だれも死んでいなかった。
おれは望月に肩を抱かれて階段を降りていた。黒覆面に変装していた面々から拍手が送られる。呆然として、おれはなされるがままであった。階段を降りてロビーをあとにし、リビングルームに入るとすでにそこはパーティーが始まっていた。
おれは拍手をもって迎え入れられた。大家も黒田もいる。中井と大磯も二人並んで笑顔で手を叩いていた。
大きなモニターでロビーの様子が映し出されている。
リビングルームの男たちは皆、タキシード、女らはドレスだった。中小路はその色とりどりの女に囲まれていた。それがおれに向かってシャンパングラスで乾杯という仕草を見せる。その後ろには小西。ニコッと笑みも見せ、軽い会釈をした。
望月が耳元で言った。「ドッキリだったんだ」
そして今度は、リビングルームの皆に向けて声を張った。
「もう一度、狩場君に盛大な拍手を」
観客は拍手を惜しまない。鳴りやまない拍手。
「これで狩場様も私たちの仲間入りですね」
近付いてきた執事の近藤にシャンペングラスを手渡された。
望月が言った。
「今夜は乱れよう。さぁ、音楽を」
指した先はロビーだった。すでに楽団が準備を終えている。中小路が女を何人も引き連れ、おれの前に立った。
「国際子供救援基金への寄付を受け取れない。あれは稲垣君の金だ。それに僕らは彼に頼るほど落ちぶれちゃぁいないよ。ぱっと使い切った方が良いんだ。供養にもなるしな。で、クリスマスに騒ごうってなったんだ。だけど望月のやつがそれでは面白くないってな、君をだしに遊ぼうっていうんだ。ただ騒ぐならいつでもやっているし、盛り上がらないのは目に見えている。稲垣の供養だから何か特別なことをしないとな。皆、張り切ったよ。色んなものを調達したり、セリフを覚えたり、ほら、学園祭みたいだろ?」
中小路の後ろで控える小西が言った。
「一日目の夕食後、狩場様は近藤さんに会うため部屋を出ましたよね。大磯さんの他に誰かが気付いてもよさそうなものなのに、誰も気付いてはいなかった。特に田中さんは狩場さんを毛嫌いしているという設定でしたからねぇ、言い出してもよさそうなものです。なのにそれを次の日の話し合いでは田中さんはおろか、全員がスルーした。稲垣様があなたの立場だったらおそらくは、そこでおかしいと思ったでしょうね」
中小路が言った。
「言うな、小西。狩場君はつまらない男じゃない」
そう言ってロビーに向かった。
「が、花がないのは問題だな」 独り言のように言うと立ち止まり、振り返った。「今夜、ダンスを指南しよう」
ロビーに次々と料理が運ばれていく。中井と大磯もロビーに移動しようとしていた。二人そろっておれの前までやってくると中井の方がおれに握手を求めて来た。
「楽しかったよ」 満面の笑みである。あの中井とは思えない。「で、どうだった。僕の犯人役。よかったかい?」
おれは未だに動転していて答えることが出来なかった。
「次は探偵役をやりたいね」
大磯が笑った。「中井さんが探偵役ですか。じゃぁ僕はワトスン役ですね」
望月が指差した。「ほれ、あいつらを知ってるか?」
四人の若者に目を止めた。川崎に送ってくれた若者らだった。タキシードを着ているから見違える。グラス片手に四人が盛り上がっていた。
望月が言った。
「脚本も演出も僕さ。夜中に指示を飛ばしたりもした。どうだい、『七つの大罪』のミスリード。君は頭に来ただろうがあれはヒントだったんだよ。上手くいったろ?」
ここへきて、やっと全てが把握出来た。おれはハメられていたんだ。
「『仮面山荘殺人事件』もお前の仕業か?」
「ノコギリもヒントだったんだが、それで気付くのはちょっとコクだと思ってね。実は始めから沼田の部屋にだけはノコギリが置かれてなかったんだ。つまり、殺人なんてなかったということ。ま、そっちのヒントよりお前には、『仮面山荘殺人事件』の方がピンと来ると思ったんだけどな」
そう言って望月はおれの肩に手を置いた。ロビーに行こうとうながす。
「腹へったろ?」
テーブルには肉やパスタ、サラダが並ぶ。ビュッフェスタイルで、ステーキの前に三、四人が列を作っていた。望月はその後ろに並ぶ。おれもその後ろに付いた。
「で、これはどういう集まりなんだ」
「見りゃ分かるだろ。クリスマスだ」
「そうじゃない。そんなこたぁ、誰だって分かる。ここにいる者らがあんたのお友達だってこともな」
望月は、フフッと笑みを漏らした。
「そうだな、僕らにはキャッチフレーズがある。A rogue rescues the world」
「ア・ローグ・レスキューズ・ザ・ワールド?」
「あ、そうか。忘れてた。君は英語が全然ダメだったな。僕としてもそれが今回の一番の難点だったんだが、見事に謎を解いた。やっぱり君は素晴らしいよ」