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 ポルシェは環八に入り、練馬を目指した。今日来た道を今まさに戻っている。どこにいるか分からなかったマスターは未だ草津の、あの山間の洋館に留まっているようだ。だが、そんなことはどうでもいい。どこだって構わない。マスターに会う。それがおれにとって重要なことなのだ。


 積雪量は、草津に近づくほど深くなっていった。伊香保ルートの川中温泉あたりからは木々の細い枝にさえ、五センチは雪が積もっているようにみうけられる。


 たった四日間の出来事だった。雪に囲まれた洋館の中で、七人がいきなり罪人のレッテルを貼られ、それに従ってきた者も含め処罰された。彼らに非がないとはいわない。それどころか社会的にはまったくの悪人たちだった。


 許されざる者。そんな彼らをこの世から消してユートピアなんて築けるのだろうか。必要悪とまでは言わない。あるいは、彼らをそうならしめたのは社会にある、などともっともらしく世の中を非難する気も毛頭ない。


 そんなこたぁ、『川崎愛人殺人事件』の時も考えさせられた。おれはあの時も踏ん切りを付けた。最もシンプルで原始的な行動理念にのっとって動く。つまり、やられたらやり返す。


 いや、果たしてそうだったのろうか。おれは迷いからなんにも解放されていない。自分の中で何も解決されていないんだ。父親のことも、稲垣の死も、少年少女らの犯行を警察に訴え出たことも。


 己の信条。なにが、やられたらやり返す、だ。望月の言葉ではないが、自分は苦しみから、嫌なことから、薄汚れた社会から、逃げていただけではないか。なにも受け止めちゃぁいない。我ながら鼻で笑ってしまう。とんでもない臆病者だった。そして思う。それこそが罪なのではないだろうかと。


 マスターに言わせれば、 ―――実際そう言ったわけでないのだが、罪人は罰せられなくてはならない。


 ああ、いいだろう。お前の言う通り、罰せられてやる。おれも悪人側なんだ。しかし、おれは簡単には死なない。


 果たして、群馬大津の交差点が見えてきた。ポルシェはそれを突っ切り、いくらかして本道を外れ、雪深い路地へと入っていく。


 道に沿って、左手は鉄格子の塀が連なっていた。その向うがマスターの敷地である。塀となっている黒い鉄の棒が車の窓の外で次から次へと、延々と流れていく。それが一瞬途切れた場所があった。おそらくは、そこで田中美樹は死んだのだろう。だが、大破させられたはずのアクアは跡形もなく、やはり予想通り、証拠は何も残されてはいなかった。


 仇は取ってやる。遠く白銀の中にそびえる赤茶けた洋館におれは視線を向けた。


 門扉は失われていた。ポルシェは、残った支柱と支柱の間を抜け、洋館を目指した。無人を思わせる洋館。その静けさの中をポルシェは淡々と走り、赤ん坊を抱いたマリア像の車寄せロータリーに入る。滑走するようにスピードが落ちていき、玄関前で止まった。


 望月に命じた。「出ろ」


 望月はゆっくりと座席を離れた。おれも外に出、ボンネットの上を滑って、車を挟んで向こうの望月を逃がさないよう、素早く肩を掴んだ。そして、そのこめかみに銃を押し当てる。


「行け」


 おれ達が来たのを見計らったかのように玄関ドアの電子ロックが外れた。望月を押し込むような格好でドアを押し、ロビーに入った。


 正面に大きな階段があり、それを昇ったところにキリストと天使のステンドグラスがある。ばっちりな角度で日の光が当たっていたのだろう、天使の梯子よろしく、赤や黄色の光の柱が放射線状におれ達へ向けて降り注いでいる。


 逆光でよく分からない。目を細めて階段を見上げた。光の海に人がいる。


 固唾を呑んだ。


 やはり、武内忍。所謂いわゆる『沖縄沖遭難殺人事件』の主役の一人。死んだ稲垣の恋人にして、沖縄沖を漂流していたおれを助けた女。


 彼女は赤いドレス姿であった。ラメが入っているのか全身が輝いているようで、まさに女神だった。


 ふいに、おれに果たしてこの女を殺せるのだろうか、と疑問が頭によぎった。武内忍の写真を事務所の机の引き出しに隠し持っていた。荒野に建つ泥塗りの学校の前に少年少女とヒジャブ姿の武内忍。その写真を手に取るたびにおれの心は癒されていた。


 瞬く間に黒覆面の男たちが現れた。三十人ほどが階段の上、玄関フロアと、おれと望月を囲うようにして自動小銃を構えた。


 武内忍は赤や黄色の光に包まれている。


「あなたを殺したくなかった」


 どの口が言っている。おめぇーは何人も殺したんだぞ。クソ女め! 絶対に許さないからなぁ。そこで待ってろ。


 銃を、望月のこめかみに押し当てたまま、階段を一歩一歩上がっていく。そして、絶対に外さないと思える距離、三メートほどまでおれは距離を詰めた。


「弾は二つある。あんたの分とこいつの分だ」


 階段を上って、武内忍の背負っている光がまともに目に入るようになっていた。武内忍の表情が断然としない。そのうえさっきの一言から武内忍は何一つ言葉を発しないのだ。何を思っているのか皆目見当がつかない。


「今まで何人殺している」 


 武内忍は答えない。


 くっそー。イライラする。「なるほど。聖女気取りか。いつからこんなことをやっている」


 武内忍は何も言わない。


 望月のこめかみに銃口をねじ込んだ。「言わない気ならこいつをぶっ殺す」


 それでも、武内忍は答えない。

 

 何とか言えよ。「さぁ、言ってみろっ! 何人殺したっ!」


 依然として武内忍からの返答はない。


「こいつが死んでもいいんだな」


 武内忍はだた突っ立ったままだった。

 

 あくまでもおれなんかと話す気はないようだ。が、もういい。「分かった。あんたをぶっ殺す!」


 と、その時、武内忍の背後、そのステンドグラスが割れた。


 大きな音と共に、粉々に飛び散ったガラスの破片がおれや武内や望月に降りそそぐ。


 攻撃? いや、違う。それは、空中に留まっていた。大きな羽をはばたかせ、カラスの破片と鱗粉をまき散らせつつ、ゆっくりとおれと武内忍の間に降り立った。


 稲垣陽一! 


 キラキラ反射する光の海の中、稲垣は、武内忍の前で両手を大きく広げ、そして、羽も広げた。


「!」


 おれに、止めろと言うのか。


 ―――怒り。であったかは、分からない。人はそう上手くは生きられない。どうしたって生きてりゃぁ辿った道のりに歪みは生まれてくる。それは当初、ちょっとしたことだった。いや、本人にとってそれは大切なことだったのかもしれない。それが長年積み重なり、はたと気付いた時にはもう後戻りはできない。それでも行かなければならない時がある。そして、その時になって分かるものなのだ。始めは些細な事。誰も気づかない、本人にだって分からない些細な事。それをも許さないというなら、稲垣陽一よ、おれもあんたを許さない。


「生きていくということは傷付いていくということ。だがな、それでも生きていかなければならないのにお前はそれを放棄した。なのに、おれを意見する筋合いがあるのかぁ、お前にはぁぁぁぁ!」 


 衝動が、指先を動かしていた。だが、弾は当たらなかった。望月のこめかみから銃口を外し武内忍を撃つ、その間があまりにも長過ぎた。おれの銃口は上へと望月に逸らされていた。


 もう、稲垣はいなかった。


 すぐ目の前に武内忍が立っている。赤いドレスでおれの額に銃を突き付けていた。


「これは大家敬一の拳銃。わたしはフェアーだった、最後まで」


 もう一発残っていたおれの拳銃はすでに手の中にはなかった。奪われてしまって、望月が持っていた。


 つまり、おれの命運もここまでだっていうことだ。







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