01
依頼主に指示された通り、第二京浜の川崎中央青果側の路肩にアクアを横付けし、ウインカーを点灯させた。
走り抜けていく幾つもの車。それを憂鬱に眺めやっているところに、コンテナトレーラが轟音と共にどっと視界を遮った。びくっとし、悪寒を覚える。コンテナトレーラは、追い抜き車線から左車線に移って来ただけなのだ。ぶつかって来たような錯覚に陥る。
どうもおかしい。以前はこんなこと位でびくびくしなかった。ずっとぐっすり眠れず、精神がまいっているからだろうか。トレーラは遥か向こうに行ったにもかかわらず、錯覚の余韻というか、心臓は未だに早鐘を打っている。
気をしっかり持たなければと手の甲で額を叩きつつ、車のメーターパネルで時間を確認した。約束の午前十時まで十五分ほどあった。
朝のテレビによるともうそろそろ雪になる。どす黒く重そうな雲が川崎の空を覆っていた。天気予報のお姉さんの言う通りだな、とその端正な顔立ちを思い出しつつ、己を鼻で笑う。やはり正面は見ず、サイドウインドウ越しに流れていく車を眺めていた。
今日はついていない。
雪が降ると必ず悪夢を見る。始めはその関連性というか、法則に気付けなかった。昨年の八月からちょくちょく見ていたあの悪夢が、その年の暮れから殊更ひどくなった。このまま頭がおかしくなるんじゃないかと心配し、その時は精神科にでも通おうかと真剣に考えていた。ところが雪が減り、季節が春へと向かうと、悪夢を見る夜がめっきり減っていった。そもそも雪がよく降る冬であった。そして、その悪夢というのが雪に関係していた。
初めは気付かなかったが、はたとそれに気付いた時、ああ、なるほどな、と思った。恐れず素直に考えれば、狼狽えなくともすぐにその関連性に気付けただろうが、悪夢と想いに少しちぐはぐなところもあって、それが答えを鈍らせた。
悪夢にある雪は正確には空から降ってくる雪ではない。本当はマリンスノー。いいや、それも的を射ていない。実際には見ていないのだ。頭が勝手に想像してしまっている。海底とはこんな風景で、おれが海底にいたならばこんな感じじゃないだろうかと。
しかも、そのマリンスノーと同時に降って来るものが変わっている。刑事ドラマで死体を運ぶのに使われるあれ、ファスナーでジジジッと開け閉めするあの、死体袋。それがどう転じたのかその悪夢は、空から死体袋が雪と一緒にふわふわと舞い降りるというものだった。
この十二月に一度、雪が降った。事務所の大きな窓に目をやると、絶え間なく降る雪と、ふわふわ降りて来る死体袋が窓の外にあった。その日はもう、一歩も外へ出れなかったし、窓のブラインドも閉めっきりにしていた。怖かった。頭によぎるのは悪夢ではなく幻覚。起きていてもなお見る夢。
元々これほどひどくはなかった。悪夢だけだったんだ。だけど原因が分かっているし、それを解決出来れば全てが清算できる、この悪夢ともおさらばだと思い込んでいた。ところが大きな間違いだった。今年の八月に何もかも解決すると、ちょっかいを掛けて来る程度の悪夢がまるで部屋の鍵を渡された彼女のようにしつように現れ、ついにはこの十二月には目覚めていても見えるほどになっていた。
死体袋。あれは昨年の夏、稲垣陽一という男に頼まれておれが沖縄沖に投棄したものだった。その船はというと、何者かによって爆弾が積み込まれ、その上台風に見舞われ、挙句に海の藻屑と消えた。
事件後、この話題で週刊誌は持ちきりだった。小説家森つばさがその関係者の一人であったからだ。森つばさは不当にも過去から現在まで掘り下げられたし、それによって発覚した不倫がその紙面を飾った。
そもそも事件は稲垣陽一の自殺で始まった。彼は株で成功した反面、その精神は混じり気一つも許さない、限りなく透明なガラスの玉のようなものであった。ところが、そこにたった一つ、異物が混じっていた。
愚かにも、稲垣陽一は自分自身でそれを取り出そうとした。ガラスの玉はひび割れひび割れで、飛び散る臨界であるがごとくであった。それが沖縄の海で弾けた。乱暴だが、総じて言うと、あの事件の全てはただそれだけだったのかもしれない。
武内忍という女について言っておかなければならない。悪夢と同様、いや、それ以上によくおれの脳裏に現れた。彼女は稲垣の恋人と目される女だ。おれに言わせれば、彼女はこの世の悪を駆逐する戦いの女神であった。猛禽のような逆三角形の目に長い手足、小さい顔。国際子供救援基金を主宰し、世界の辺境に学校を作っていた。貧困にあえぐ子供たちを救っているのだろうが多分、おれも彼女に救われている。それは自覚していた。悪夢の後に彼女を思い出すと気持ちが落ち着くんだ。
彼女への初見は、事件が起ころうとするその直前で、出で立ちは黒のビキニ姿だった。事件の直後にも病院で会ったがその時はスーツ姿。どちらにしてもだ、未だに脳裏に焼き付いている。美しいのは当然として、特別なオーラがあり、その鋭い目には相手を抑圧するのではなく、逆に生きる勇気を与えてくれる、そんな力があった。
もう一度、会ってみたいと思う。彼女からしてみても、稲垣陽一をよく知っているので悪夢についても話せば通じるし、彼女ならこの悪夢から救ってくれる、そうおれは信じて、一枚っきりの彼女の写真―――学校を建てて記念撮影したヒジャブ姿の武内忍をデスクの引き出しに隠している。
一方で、鼻持ちならないのは望月望という男だ。おれに言わせれば、望月望はイブを堕落させた蛇である。初めて会った時は武内忍と一緒だった。世間ではそういうのをパトロンというのだろうが、望月望の場合はそう単純な訳でもなさそうだ。IT企業・TeLEXの社長であるはずの望月望が、武内忍にまるで太鼓持ちのように寄り添っていた。おれが思うに、やつは武内忍を穢すチャンスをうかがっている。
許せない。
許せないが、望月望とは事件以来、何度も会っている。どうしても、憎めないのだ。いたずらっ子のような笑顔を振りまいたかと思うと逆に落ち込んで見せる。会うだけでなく、彼が持ち込んだ仕事も随分とやった。不倫相手の旦那への対応やら、望月望に結婚を迫って来る女への対応やら。おれは弁護士ではなく探偵なのだから、やることは必然脅しとか取引とかになる。相手の弱みに付け込むんだ。
それが度々も続くと、いい加減にしてくれと思ってしまう。それを見越したように望月はあの手この手でおれをなだめる。望月はおれを十分知り尽くしていた。日本橋にあるホテルのバーラウンジでグラスを傾け、おれに言んだ。
「お前は油まみれの労働者だったんだろ? それだけの能力があるのになぜくすぶっていたんだ? 労働者でいたら汚れないですむと思ったのか? 社会的弱者をきどれば心が安らぐと思ったのか? その労働者がいまや探偵。それで弱い者の味方? 格安で小さな仕事を請け負って? ボランティアか? じゃぁ、お前がガキら十五人を警察に売ったのは一体どういうわけなんだ」