死なない男が死んだ話
ある生、私は病弱な青年だった。
十代後半まで生き延びられてきたのが不思議なくらいに衰弱しきった身体、精神。
物心つく前に病で倒れてからというもの、毎日が檻のような部屋での生活だ。まともに庭を走り回った記憶もない。
最後に家の外を見たのはいつだったろう。まだ体を動かせた頃だ、もう何か月前か。
この頃は肉体だけでなく精神の疲弊も激しい。代わり映えしない闘病生活、苦しいだけの日々。嫌気がさしていた。
嫌気がさして、こんな体で産み落とした親を恨みそうになって。
そうしてそうして、最後にこう思うのだ。
「なん、で、こんな、目に……」
私が何かしたというのか。いいや、何もしていない。
ならば私以外の誰かが悪いのだ。誰かのせいで、私はこんな目に遭っている。こんな苦痛を味わっている。
その誰かは誰なのか。皮肉なことに考える時間だけは山ほどあった。
考えて考えて、誰が悪いのか思案して。
私は、神を恨むことにした。それからは少し気が紛れた気がした。
神のせいで、私はこんなにも辛いのだ。
神のせいで、私は人並みの生活を送れない。人並みの幸せを得られない。
欲しくて欲しくてたまらなかった。世界の誰かが持っていて、私は手に入れる機会すら得られなかったすべてのものが。
欲しくて欲しくて欲しくて欲しくて。ただただ欲しかった。
「ほしい……」
得られないのなら死んでしまいたい。こんな生活何の意味もない。
ここまで苦しめたのなら、いっそ殺してくれ。嗚呼、神よ。
恨んだばかりの存在に、調子よく祈ってみる。するとどうだろう。胸が、痛みだしたのだ。
「ぅぐぁっ……!」
もう馴染みに馴染んだ発作だ。けれど、いつものそれより幾分か痛みが強い。
……あ、終わるんだ。そう何故か悟ることができた。
けれども潔く死を受け入れようとする心とは裏腹に、生への執着を忘れない肉体は、布団の中で醜くもがいた。
やがて毛布を剥いで、まるで何かに助けを求めるかのように何もない場所へ手を伸ばした。助けてくれる存在は、いない。
家族は今は出張らっている。もとより愛されていない。十数年に渡って彼らに迷惑をかけ続けた私は穀潰しも同然だった。いや、穀潰しよりもひどいかもしれない。
しかしそれも今この瞬間に終わる。彼らはさぞ喜ぶことだろう。
私という、無駄な食い扶持が減って。
嗚呼、嗚呼。神よ。私の最期の願いは、聞き届けてくれたのか。
「や……と、しね、る……」
願わくば、次の生は恵まれたものになるように。
願わくば、次の生は満ち足りたものになるように。
そう祈れば、伸ばした手を何かが掴んだ気がした。
そして今世の私の意識はぷつりと途切れる。
これこそが、私の短き生の終着点にして、私の永い永い生の始まりだった。
ある生、私は学者だった。
勉学に熱心な神童として崇められつつも、慢心せずに努力を続けた結果だった。
今宵こそは満たされるようにと、私は学歴と、その果てにある何かを欲した。
結果として、生涯を研究一本に注いだ私は、偉大な賞を取った。
しかし不眠で肉体を使い潰したつけが回ったか、初老と言って差し支えない年齢で死去する。
確かに私は、満たされていた。
しかし私の生は終わらなかった。
ある生、私は石油王だった。
石油を掘り出すことに成功した私は、莫大な富を得た。
欲するものすべてが金で手に入る。とても満ち足りた気分だった。
豪勢な食事を欲した。……すぐに手に入った。
豪奢な屋敷を欲した。……すぐに手に入った。
しかし部下の裏切りに遭い、膨大なる財産を残したまま、私は死去する。
けれども私は、満たされていた。
しかし、私の生は止まらない。
ある生、私は世界規模で拡大している企業の代表取締役だった。
何故か成功の道が予知できているかのように解った私は、庶民では到底たどり着けないほどの地位と、名誉を手にする。
支えてくれる部下に恵まれ、私は仕事への充実感を覚えていた。
私の手腕で、恐ろしいほどの金と物資が動く。私は悦に浸って、他者を見下していた。
ある日、私の身体を病魔が蝕んでいることが解った。けれどももう手遅れ。末期だった。
しかし私は、満たされていた。
だが、生への歩みは止まらない、止められない。
私は教職者になった。
生徒を導き、未来への歩みを後押しする誇るべき職業。
人を育て、その育てた者たちが巣立っていく様を見届けるのは、なんとも言えぬ充足感に満ちていた。……けれども『私』は死ねなかった。
私は医者になった。
患者を救うことができたときの達成感。患者を救うことができなかった時の無力感、喪失感。
少しでも多くの命を繋いでいけるように、努力を怠らなかった。
結局来る者すべてを救うのは叶わなかったが、やり遂げた、最善を尽くしたという満足感があった。……けれども『私』は死ねなかった。
私は貧困に苦しむ人々を助ける団体に参加した。
悲痛な境遇に晒された人々のことを、少しでも助けようとした。苦しむ人々を見るたび心が痛んだが、それを糧に彼らへ尽くし続けた。人の役に立てている実感があった。とてつもない充実感だった。……けれども『私』は死ねなかった。
私はある国の王子になった。世話係は当たり前。豪華な住まい、生活は当たり前。次期国王という立場に苦悩しつつも、私は周囲の期待に応え続けた。しかしまたも病に倒れた。けれども満ち足りた生だった。……けれども『私』は死ねなかった。
地位を得ても、名誉、名声を得ても。莫大な富や財を得ても。偉大なる存在に生まれようとも。人に誇れる職に就こうとも。
その生の私が死んでも、『私』が死ぬことはなかった。
いつしか『私』は死ぬために生きるようになった。
ただ単純に、嫌気がさしたのだ。
死んでも死にきれない『私』。後何度死んで赤子から始めてを繰り返さねばいけないのか。無限に続くやもしれない生の連鎖を想像するだけで、気が狂いそうだった。
確かに何度も生を謳歌し、病弱な生では手に入れることのできなかったものをたくさん手に入れられた。
けれどももう限界だった。すでに私は幾度も生死を繰り返している。何度体験しようと、死ぬ瞬間の、体から意識が抜け落ちる喪失感や苦痛と、意識が新たな肉体に宿る瞬間の形容しがたい気持ち悪さは、絶対に慣れるものではない。
その上精神年齢及び体感年数で、私は何百年生きたのか。数えるのも恐ろしかった。
もうこの精神は人のそれから大きく逸脱してしまっていた。
死にたい。もう満ち足りたはずなのだ。欲しがるものは何でも手に入ったはずなのだ。けれども、死ねない。
もはや富や名誉などでは駄目だと分かった。それらに満たされても、私は死ぬことはできない。しかし私が終わらぬ生を歩み始めたその時、願ったのは『満ち足りた生』だった。
何を持って満ち足りたと判断するのか? 今までに手に入れてきたものでは駄目なのだろうか? きっとその生が『満ち足りた生』であると判断するのは他ならない神なのだ。きっとこの終わらぬ生を動かしているのは、神であるはずだから。
『私』自身気づいておらず、けれども無意識に求めているものがまだ残っているはず。それを手にして初めて、満ち足りた生であると判断されるのだ。
『私』は、生死を繰り返した。
何もかも試した。ありとあらゆる非凡な生を歩んだ。
けれども死ねない。死にたい。死なせて。死なせてほしい。
やはり神は、私の願いを聞き届けてなどいなかった。結局神は、私を苦しめたいだけなのだ。
もう満ちているはずなんだ。なのに、なのに何故死ねない……。
『私』の生は悪戯に弄ばれ、死んではその痕跡を消していく。
「しょー、ちゃんっ!」
「うおっ……なんだ、ひなか」
数えることをいつしかやめた生。その何度目かのリトライで、私は平凡な暮らしを送っていた。
ちっぽけな一般家庭。豪華さのかけらもない食事。両親は共働きで、母がパート、父はサラリーマン。
どこにでもある、凡庸な生だ。
もう半ばヤケになっていた。どうせ非凡な生を歩もうと死ねないのなら、何もしなくていいや、と。
だがある年、その生の中に特異な存在が乱入してきた。
その存在は、どうやら居眠りしていたらしい私を揺さぶって起こそうとしてきた。暑苦しい。
「えっへへー! しょーちゃんいねむりさんだー! おひるにいねむりさんだと、よるねれなくなっちゃうんだよー!」
そう言ってふにゃりと笑う幼子。
名を、ひなという。私と両親の暮らす家の右隣に越してきて、以来やたらと絡んでくる幼女だ。
日本人にありがちな、黒髪と茶色い瞳。髪の長さは肩より少し下程度まで。顔立ちはさほど整っているわけでもない平凡なものだ。強いて言えば愛嬌のある顔。どこにでもいる幼稚園児だ。
正直、私なんかのところに寄ってきて、何が面白いのだろうと思う。精神年齢は数百歳の私だが、客観的に見ればただ落ち着いて、大人ぶっている風に見えるだけのマセたガキんちょだ。何の面白味もない。
「どこかへいけよ。私なんかと一緒にいても、つまらんだろ」
突き放すように言っても、この幼女には通じない。幼子は悪意に敏感だと聞くが、この子はその範疇に含まれないようだ。
「ふぇ、そんなことないよ? ひなね、しょーちゃんのことだいすきだよ。どこもいかないもんっ!」
「……そうか」
この幼女の決まり文句だ。私が拒絶すると、決まってそう言って私に擦り寄ってくる。
私は、今まで私に擦り寄ってきた人間が、皆ロクな人種ではなかったことを覚えている。
私の地位や名誉や名声や富、財に目が眩んで関係を築こうなどと考えた、邪な輩たちだ。当然全て無視してきた。
誰一人として、私自身と関係を築こうとはしなかった。奴らの思惑の内にあったのは、常に私が得てきたもの。私自身など、言ってしまえばおまけで、眼中にない。
だからこの幼女もそうなのだろうと考えている。私が持っている何かを、きっと欲しているのだ。
「うん! だからいっしょにいるの! いっしょにあそぶの!」
何を欲して、私に取り入ろうとしているのかはわからない。
けれども何故かこの幼女に嫌悪感を抱けないのだ。遠ざけようにも、どうにも言葉に力が籠らない。行動に移せない。
「……勝手にしろ」
だからそう言って、私は受け入れてしまう。
すると幼女は絶えない笑顔をより一層輝かせて、私をおままごとのフィールドに駆りだすのだ。
数年が経った。今まで生きた生に比べれば、あまりに些細な時の流れ。
しかし、とても濃いものだったように思う。
そうなったそもそもの元凶は、私の真横でちょこちょこと足を動かす幼子にあった。
「しょうちゃん、学校いこ」
「ああ」
数年で見慣れた通学路。隣で共に歩みを進めるのは、二歳年下の幼馴染、ひなだった。
少し背が伸び、髪も腰ほどまで伸ばすようになった。幼女脱却、さしずめ少女と言ったところか。まだまだ幼いことには変わりないが。
「……君は、他に友達いないのか?」
「ふぇ、なんで? いるよ? めぐちゃんに、かなちゃんに……」
指を折って数えだすので、早々に打ち切る。
「じゃあなんで私なんかと登校してるんだ」
「ん~とねぇ、しょうちゃんと一緒に学校行きたいから!」
「行動が理由とは単細胞め」
「あ〜! いまひなのことバカにしたぁ! いけないんだよ、ひとのことそんなふうに––––きゃっ!?」
「ひなっ!?」
ひなの身体が前のめりに倒れる。何かが私の心を掻き立てて、思わず駆け寄った。
「いたたたぁ……」
「大丈夫か!? どこか強く打ち付けたりしてないか!?」
「えへへ……うん、だいじょうぶ。へーきだよ」
痛みに耐えるように、ひなは力無く笑う。
喚いて滂沱の涙を流さないだけマシだが、これはこれで、堪えるものがある。
この子はどこか抜けている。普通に生活しているだけで転けたり、どこかにぶつかったり。
お陰で私は半ばひなのお目付役だ。それは私たちの両親に任命されたことであり、私自身この子から目が離せないから。
今でこそ泣き目になる程度で喚かなくなったが、知り合ったばかりの頃は毎日がハラハラものだった。
どこへ行くにも私について来ようとするひなと、危なっかしい彼女を放っておけない私と。
「私の歩幅に合わせたから、足がもつれたんじゃないか?」
そう指摘すると、バツが悪そうにひなは顔をぷいっと背けた。
図星であるらしかった。
「無理はしないでくれ。君は危なっかしいところがあるから、何かあったらと思うと心配だ」
少し責めるような口調なのは申し訳ないが、この子は妙なところで頑固だ。こうでもしなければ聞き入れてくれない。
やはり居心地悪そうなひなだった。
「だって……しょうちゃんと一緒に歩きたいんだもん」
「は?」
「ひながドジでもしょうちゃんだけは呆れないでいてくれるから、ひなはしょうちゃんと一緒がいいよ」
「……」
唖然とする。
この少女は、普段の言動からは考えられないほど、落ち着いた台詞を吐く時があるのだ。今が、まさにその典型例。
成長とは恐ろしいものだ。いずれこの子も大人になって、現在のようなあどけない表情や、純粋な言葉を発さなくなっていくのだろう。
その時私はどうなっているのだろう? ひなの隣にいるのだろうか? 降って湧いた疑問に、何故か一抹の不安を覚えた。
「……なら、こうしよう」
言いながら、私は右手を差し出す。が、ひなにはその動作の意図が伝わらなかったようだ、不思議そうに私の手を見て、小首を傾げている。
「私が君の手を引こう。君の歩幅に合わせて、私が君を支えてやる。そうすれば、君は滅多なことでは転けなくなるし、電柱にぶつからなくもなる」
我ながら遠回しな誘い文句だ。私のこういう言動を聞き慣れているとはいえ、ひなも意味を受け取りかねていた。数十秒斜め上に視線を見やった後、やっとこちらの考えを汲んでくれたらしかった。
「手、つないでくれるの?」
「ああ」
「ひなのため?」
「いいや、これは私のためだ。君という危なっかしい存在を近くで野放しにしていると、ハラハラして溜まったものじゃない。怪我なんてされたらこちらが痛ましい気分になるし、何より君の痛がる姿を見たくない。したがって」
「しょうちゃん、やっぱりやさしーねっ!」
「おい」
遮るように語りかけられる。
そんなことはない。自己評価としては、他者に冷たい人間であると自負している。現に、今までの生で仕事の上で部下に慕われることはあっても、私生活でまともに友人ができたことはなかった。作ろうともしなかった。
けれどこの子に感謝されたり、この子が笑顔を向けてくれると、妙に気分が良くなる。
今までの生で覚えたことのない感覚だった。
「あはは、すなおじゃなーい!」
「何を言う。私はいつだって素直だぞ。よって、君と手を繋ぐという行為は私の」
「はいはい、しょうちゃんはきむずかしいねぇ〜」
聞く耳持たずだ。成長の過程で無駄に増えた語彙を使って私をからかおうとしてくる。
でもよかった。転けた痛みは、もう綺麗さっぱり忘れているようだ。
指摘してまた泣き目になられてはこちらの気分が悪いので、触れないことにした。
そういえば伸ばしたままだった右手を握られる。仄かな人肌の温かみ。
小さくて、ふにふにと柔らかい感触で。少し力を入れるだけで、潰れてしまいそうな儚さを感じた。
けれど、ひなの体温が伝わってきて、今を懸命に生きる命を感じて。大袈裟ながら、少し感動していた。それは、心地よい感覚だった。
最後にひなの顔を一目し、私と彼女は歩き出した。あまりゆったりとしていては、遅刻してしまう。
「––––でもひなは、そんなしょうちゃんだから大好きなんだよ」
不意にそんな声がかかる。ハッとして隣に視線を戻すと、耳まで真っ赤にした彼女の俯く姿があった。
初めてみる姿だった。
「……もうすぐ夏だな」
桜はとうに舞い散り、季節の移り変わりを示す深緑たちが、少しずつ街を彩り始めていた。
今日はいささか気温が高い。顔周りなど、焼けたように熱い。特に頰は燃え盛るかのようだった。
夏が始まる。だからきっと、私の顔はこんなにも熱を纏っているのだ。そうに違いない。
少しずつ、けれども確かに流れ行く日々、時間。
こんなにも、日々が輝いたのはいつの生以来だろう。もしかしたら、初めてかもしれない。
「しょうちゃんっ! 誕生おめでとう! 生まれてきてくれてありがとー!」
言いながら、ほんのり背丈の伸びた彼女が、手に持っていた箱を渡してくる。
不粋だと理解しながら、私は聞かずにはいられなかった。
「私に、くれるのか……?」
「ん? そうだよ!」
「……そうか」
他人に誕生日祝いを貰ったのは、これが初めてだった。
今までの生では、家族から義務程度の贈り物を貰ったことがあるくらいだった。
歳が二桁にも満たない子供が、知り得ないことをいくつも知っている。つまるところ、不気味な子供であった私は、どの生でも他者から遠ざけられていた。
ひなのような存在には、今世で初めて出会ったのだ。
「開けて、いいか……?」
「どうぞ!」
反応楽しみワクワク!と言った様子のひなに、少しばかり苦笑してから、渡されたそれに視線を落とす。
丁寧に飾り付けられた箱だった。女の子らしいピンクの花柄模様のラッピングもさる事ながら、巻かれた赤リボンの結び目の拙さに、不器用な彼女の懸命さが伝わってきた。
少し名残惜しいような、勿体無いような気がしたが、思いを振り切りリボンを解き、ラッピングを外し、箱を開ける。
入っていたのは、毛糸のマフラーと、布製のポーチだった。
編み目が少し荒い。一目で手編みの品であるとわかった。
縫い目が少し面白い。一目で手作りだとわかった。
「……こんな、ものを」
私の声は震えていた。それがいかなる感情によるものなのかは、わからなかった。
「い、いやだった……?」
ひなの瞳が不安げに揺れる。
「……」
手編みのマフラー。
それはきっと、他の誰でもないひなが、私のためにと編んでくれたもの。
布製のポーチ。
それもまたきっと、彼女が私のためにと縫ってくれたもの。
ふと彼女の手に目を凝らす。……いつからか絆創膏だらけで、私が訝しむと、いつもはぐらかされていた努力の結晶。
針が刺さって痛かったろう。寝る間を惜しんでつくってくれたのだろうか。ひなは抜けていて、その上不器用な子だから、きっと何度も失敗して、苦労して仕上げてくれたのだろう。
––––きっと全て、私の喜ぶ姿を見たいがために。
「っぐ、うぁぁっ……!」
気づけば私は、滂沱の涙を流していた。
正体不明の震える感情が何であるか、ようやく見当がついた。
感謝、感動、歓喜。それらが混ざり合った温かなものが心から、そして目元から溢れ出すのを、私は確かに感じていた。
––––い、いやだった……?
ひなの言葉が脳裏をよぎる。
そんなはずなかった。君が手を傷だらけにしてまで作り上げてくれたものなのだ。嬉しくないはずがない。
「あっ、あり、ありがっぁ、あ、ありがどう……ありがとう、ひなぁっ」
嬉しくてたまらなかった。非凡を歩むがため、人を遠ざけ、また遠ざけられてきた。
己の力で掴み取るばかりだったから、人から何かを貰うのがこんなにも温かい気持ちになるとは、思いもしなかった。
その熱い雫たちは、頰を伝って川を描き、マフラーを濡らした。
どこから絞り出しているのか疑問を覚えるほど膨大なそれは、数百年溜めた、心からの喜びを体現しているかのようだった。
「……喜んでくれた?」
その不安げな声に、私は先の彼女の瞳の揺れを思い出した。
その不安は場違いだ。払拭して、私の思いをぶつけるべく、肯定の意を紡いだ。
「喜んでいる。嬉しい、嬉しいよひな。誰かにこんな温かい気持ちにさせられたのは、これまでの生涯の中で、初めての体験だ。本当に、本当に嬉しい。大切に使うよ、ありがとう」
鼻を啜りながら言い切れば、ぱぁぁっと輝いて、やがて、ふにゃりと笑うひなの完成だ。
「よかったぁ〜……」
ホッと胸を撫で下ろす仕草を目の当たりにしたのを最後に、私は再び感情を溢れさせた。
「よしよし、泣かないで。泣くくらい喜んでくれて、ありがとね」
俯き、マフラーの代わりにシャツを涙の犠牲にしていた私の頭を、そっと小さな手が撫でた。
その瞬間ばかりは、どちらがお目付役だったのか、わからなくなる有様だった。
でも、今はそんなことどうでもよくて。ただただ、こう思った。
––––この子に出会えて、本当に良かったと。
思えば、この頃から私の心には『温かい感情』が宿っていたのかもしれない。
赤いランドセルの似合う彼女はそのままに。私は、黒い学生服に身を包むようになった。
「しょうちゃん、学校行こう」
「ああ」
歩き慣れた通学路。最近になって私と彼女の通う先こそ変わったが、それでも共に登校することをやめなかった。
私は彼女のお目付役だからだ。
「君は、他に友達はいないのか? 新しいクラスでは、上手くやれているか?」
「ふぇ? うん、大丈夫だよ。友達だって増えたんだからっ! かなちゃんに、めぐちゃん、さおりちゃんに、かえでちゃん……」
いつかのようにまた指を折って数えだすので、早々に打ち切る。
「あー、大丈夫だ、わかった。……随分増えたんだなぁ」
私と出会ったばかりのひな––––つまり、幼稚園通いだった頃の彼女は最初、その抜けている性質あって、からかわれこそすれ、友達と呼べるものは誰一人いなかったらしい。毎日のように私の元へ来て、泣きじゃくっていたのを宥めていた記憶がある。思えば、その頃から私たちは行動を共にするようになっていった。
「頑張ったんだな、偉いぞ––––」
頭を撫でようとして、払いのけられる。
唖然としてひなの顔を凝視すると、ひどく申し訳なさそうながらも、何かを宿した表情があった。
「えっとね。褒めてくれるのはすごい嬉しくて顔がふにゃふにゃしちゃうんだけど、子供扱いしないで。私、もう小五だよ」
「あ、ああ……すまない」
こんなやり取りが、この頃増えてきた。
反抗期と呼ぶには囁やか過ぎるそれは、彼女が必死に自分を認めて欲しがっている証。
一人前と呼ぶには小さすぎる彼女の体でそんなことをされては、微笑ましい以前にとても寂しい気になってしまう。
まるで、彼女の中から、幼さが抜け落ちていくかのようで。
事実、そうなのだろう。
大人への階段を登るにつれ、人はその本質を変えていく。数十年と歳をとってしまえば、もはや別人と言えるほどに内面が違う。
「––––ふぎゃっ!?」
「ひなっ!」
不意にひなの体が前倒しに沈んでいく。
その光景に、私の心は掻き乱され、慌てて彼女へ駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「え、へへへ……うん、大丈夫。最近転んでなかったから、油断してたよ」
「……全く、心配するぞ」
いつかのように、彼女は力無く笑う。そんな表情を見て、私は不謹慎に、場違いながらも、安堵していた。
まだひなは変わっていない。まだ、私はこの子のお目付役でいられるのだと。
いつからだろう。彼女を隣で、いつまでも見守っていたいと考えるようになったのは。
今世では、今までの生で類を見ない感情ばかりこの胸に湧き上がる。それは決まって、彼女に関係しているものだ。
ひなは、私にとってどんな存在なのだろうか。
ふとそんな疑問さえ湧き上がる。
「また転ばれたら溜まったものじゃない。手、つなぐか?」
「いいの?」
「ああ」
「うん! つなごっ!」
嬉々とした様子で、ひなは手を差し出してくる。
その食いつきの良さに、言い出しっぺの私が苦笑してしまう。
「小学五年生なんだろう? 子供扱いしちゃダメなんだろう? 手は、繋いでもいいのか?」
垣間見えた彼女の幼さの残る表情に、私もまた嬉しくなって、ついからかうようなことを口走ってしまう。
「いーのっ! 手は特別っ!」
「はははは、都合のいい話だな」
そうして私たちは手と手を取り合い、再び歩みを進める。
後何度、こうして手を取り合えるのだろうか。
「短いね」
「どうしたんだ、急に」
「中学校。しょうちゃんと、一緒に通える期間」
「ああ」
本当に短い。たかだか一年間だ。年齢差というものは、離れれば離れるだけ現実での距離感にも影響する。
来年の春には私も晴れて高校生の身だ。私が一足先に中学生になった際も久方ぶりに泣き喚くほど狼狽えてみせたひなだったが、果たして今度はどうだろう。
そこまで動揺もしないだろうな、と私は考える。
ここ数年の彼女の精神的習熟度は目を見張るものがある。ひと月前には知りもしなかったことを、次の月には他者に説明できるほど熟知していたりと、知識の面の発達も著しい。
大人への階段も半分登り終えている、といったところか。
もう私など必要ないのではないかとも考えるが、今のところ彼女に邪険に扱われるような節もない。
「しょうちゃんは、どこの高校行くの?」
藪から棒とはまさにこのこと。
唐突な質問に、私は即答した。
「私はH高にしようと思う」
この地域でも一二を争う程度には偏差値の高い高校だ。今世ではさほど勉強に力を入れていないため(それでも今まで生きた記憶を手繰り寄せれば応用が効いて、そこに試験勉強を加えれば、ある程度は点数を確保できる)、高学歴は狙えないし狙わないが、どうせ公立高校なら、偏差値はそれなりに高いところを狙うべきだと考えた。
今世の両親は私を気味悪がらず、きちんと向き合って育ててくれている。ならば、いい高校へ行って、いい大学へ行って、いい会社へ就職する、という理想的な流れで、その後は少しでも親孝行をしてやりたい。
「へぇー、やっぱり頭いいところかぁ……私、勉強頑張ろうかなぁ」
何の脈略もなく、そう独り言気味に呟いたので、尋ねてみる。
「どういう風の吹きまわしだ?」
「え、えへへ、内緒内緒っ! さっ、行こ行こ!」
何かを誤魔化した様子で後ろへ回られ、振り返る暇もなく前へ押し出される。
「あ、おい、ちょっ……」
なんだか嫌な予感がした。
「––––ふぎゃっ!?」
案の定ひなはコケる。そして、コケた彼女の真ん前には私がいるわけで、
「やっぱりそうなると思ぐへぇっ!!」
彼女は私を道連れにするかのように、私の腰をがっちり掴んだままコケたので、逃れられず巻き添え食らってともに転倒、そして彼女の下敷きと化した。
「うわっ!? しょうちゃんごめんっ! 大丈夫!?」
心配するならまず私の上から退いてもらえないだろうか。
そんな心中の呟きが、テレパシーの類いとして伝わったのか、ひなはハッと気づいた様子で私の上から退いた。
「……重くなかった?」
恐る恐るといった様子だ。しかし、ここで『重い』と言えば拗ねられること明白だ。実際さほど重くもなかったし、
「思ったよりは。君、ちゃんと食べているのか? 軽すぎやしないだろうか。羽毛みたいに軽かったぞ」
「それは流石に嘘だろうし私のことバカにしてるよね!!」
私の言葉は妙に遠回しなものが多い。
それは長年生きたことによる精神の複雑化が原因であると思うが、直すつもりは特にない。
実際のところ、家族とひな以外には上手く意味が伝わらぬことがばかりだ。ひなだって、最初は頭頂部に疑問符を浮かべてばかりいたものだ。
理解してくれる者は少ない。けれども、それでいいのだ。数が少ないのだとしても、確かに存在するのだから。
今までの生では、そもそも理解する意思すら周囲にはなかった。
「はははは……してないとも」
「間があったよ! 嘘つきめ、嘘つきしょうちゃんめぇっ!」
こちょこちょこちょと、私の脇をくすぐり出す。
「うおっ、ひっ、はひっ、やめっ……!」
これこそが私の弱点。くすぐられることに弱いのだ。それだけは、何度人生を繰り返しても、克服できない。
しかも私の弱点を、幼馴染の彼女は熟知しているわけで、
「あはは〜、おしおきだよー、年頃の女子の体重を馬鹿にするクズめー!」
的確に私の弱いところを刺激してくる。
しかも妙に楽しそうだ。ひなにはサディストの気があるのやもしれない。
「やめっ、ぎゃは、ギャハハハハッ!!」
そして私には、マゾヒストの気でもあるのかもしれない。
こうしている時でさえ、この日々を、この時間を、尊く思ってしまうのだから。
「……勉強、教えてください」
「は?」
「このままじゃ、届かないから……」
久方ぶりに彼女の姿を見た。最近は受験シーズン真っ只中だからなのだろうが、寂しさを感じていたところにこれだ。意図を計りかねる。
「届かないとは、受験校のことか? 君はどこをうけようとしているんだ」
ひなはそれなりに成績が高い。不器用だがそれ故に努力を重ねる彼女は、地道な勉学ととても相性が良かった。
私も小学校教育、中学生教育程度なら苦もなく教えられるので、私の手助け一割、彼女自身の努力九割と言った具合で、彼女は校内でも上位の成績を叩き出している。
この近くの高校なら、殆どを余裕で合格できる学力を持っているはずなのだが。
––––まさか。
「私ね、H高行きたいの」
それは、私の通う学校の名だった。
ひなは塾通いをしていない。独学で大抵の高校へ行ける学力を有しているのだから、両親が安心しきって「態々高難度の高校へ行かなくてもいいんだよ」と、塾通いの許可を出さないのだという。
彼女自身、独学には限界を感じていたのだという。それでもどうしてもH高へ行きたいというその決意には、並々ならぬ覚悟が垣間見えていた。
今を必死に生きる、彼女の在り方。
いつ見ても変わらないそれに感動して、私は来年度に控えた受験に向けての勉強をほっぽり出して、彼女を支えることにした。
「不粋かもしれないが、君は何故H高に行きたいんだ? 理由を聞いてもいいだろうか」
必死にノートへ何事か書き綴るひなに、尋ねてみる。
「……内緒」
「どうしても言えないか?」
「うん、まだ言えない。でも、いつか絶対言うから。待っててね」
「? あ、ああ」
「そうだしょうちゃん!」
「うん?」
「高校で彼女とか、できたりしてないよね? 告白とか、されてないよねっ?」
何故そんなことを聞くのかわからなかったが、そんな事実はないため肯定する。
「生憎とな。私のような人間に手を出す物好きなど、そうそういないさ。第一私は化けも––––」
言いかけて口を閉ざす。今そんなことを言っても気味悪がられるだけだ。
「しょうちゃん?」
心配そうに覗き込まれる。が、私は何故か目を逸らしてしまう。
「––––いや、何でもない」
今の自分は、まるで何かを怖がったかのようで。
そんな私の様子を彼女はさして訝しむでもなく、
「そっか。––––よっし、続きだ続き!」
にへらと笑った後、またノートへ視線を戻した。
「……」
隣を歩くのはひな。
年が明け、来年が今年に、今年が去年になった。今年初の雪が降り、そして積もってできた一面の銀世界。けれど私たちにそれを堪能する余裕はなく、ただただ、一歩一歩進む度に不安がこみ上げて来そうになる。
言ってしまえば、私には関係のないことだ。けれど、彼女とっては今後の人生の道筋にすら影響する、重要な通過点なのだ。嫌でもそのプレッシャーと緊張感の余波が伝わってきて、私の平静を掻き乱した。
情けないばかりだ。こういう時こそ、年長者たる私が支えてやるべきだろうに。
彼女は黙り込んで、少し俯いて。ザクザクと足元の白を踏みしめては、受験校への歩みを進めていた。
––––今日はH高の合否が発表される日だ。私の所属校であり、目的地。
正直なところ、合格か否かは半々と言ったところだ。いかんせん、期間が足りなかった。けれども少し心許ない学力から、十分合格足りうるものにまで成長することができたのは、彼女の並々ならぬ努力の賜物だ。
「あれだけ頑張って、確実に君の実力も伸びた。気負うなとは言わない。言わないが、もっと自分を信じろ。君は受かる。落ちた時の想定などやめろ」
「……うん」
私にはこの程度の励まししかできない。できないが、いくらか表情が晴れて、精一杯固まった顔を緩ませて微笑むひなを見れば、それも気休め程度にはなっているのだろうかと思う。
やがて、ちらほらと同じ到着点を目指す少年少女たちの姿が見えてくる。
あの中のどれほどが受かって、どれほどが落とされるのか。
前者に彼女が入っていることを、ただただ祈って。
ざわざわと会場は受験生の波で慌ただしく、煩い。
発表五分前。皆がその時を今か今かと待ちわびる。
この時ばかりは、時間の流れの緩やかさに嫌気がさす。時と場合で体感時間が変わるなど、人間は何と面倒な存在なのか。
取り留めないことを考え、残る数分を使い潰す。
やがて教員が現れた。ボードと、ポスターのように畳まれた紙を手に、昇降口を出てくる。
誰かの唾を飲む音が聞こえる。それは不安によるものか。感覚が敏感になっているのを感じる。
他人の私がこうなのだから、ひなは更に重症なはず。支えてやらなくてはいけない。
その一心で、私は体の硬直を解き、ギュッと彼女の手を握る。大丈夫だ、私が付いている、と。
微かに握り返される汗ばんだ手。思い上がりか否か、ありがとうと、短くて返された気がした。
その番号は、すぐに見つかった。
「っ……」
あっ、と声を漏らしそうになり、舌を噛んで無理矢理に掻き殺す。
ボードに張り出された紙の右斜め上の辺りに刻まれたそれは、合否の合を表すもの。
すぐに教えてやるべきかと刹那に考えるが、やめようと考え直す。
自分で発見した喜びを、純粋に噛み締めて欲しかったから。
「どこだ……どこだぁぁぁっ」
錯乱状態に入りかけている彼女。
数字の羅列の中で、自分の番号の列とは明らかに真逆の列を見ているのに、気づいているのか否か。
受かっていないかもしれないという負の思考が、現実逃避まがいの行為を起こさせているのか。
早々に合否の呪縛から解き放たれた私は、むしろ彼女のその不思議な行動の方にハラハラさせられた。
「あっ……」
ようやっと決心がついたのか、羅列の右斜め上に目を向けた。
「あっ、あった! あったよしょうちゃぁぁんっ」
ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねてそのままの勢いでウサギよろしく私の胸に飛び込んでくる。
「ああ、よかったな。頑張ったな」
「うんっ! うんっ! 頑張った! 褒めてっ、もっと褒めて〜〜〜!」
顔がぐちゃぐちゃだ。涙で瞳は潤って、目尻は腫れて。鼻水だって出ている。花のJCが聞いて呆れる酷い有様。
だがまぁ、今はそんなでのいいのかもしれない。ひとしきり泣いて、喜びを噛み締めることすら、人生の彩りなのだから。
「ああ、君は頑張った。一番近くで見ていた。本当に、頑張ったな」
頭を撫でてやる。嬉しそうに喉を鳴らすのがいじらしい。
幼少期はよくしていたのに、最近はめっきりさせてもらえなくなっていたそれは、今の彼女にはとても喜ばしいものであるようだった。
「幼児退行か?」
「っ、もうっ!」
足を踏まれた。その痛みすら、今は胸中を温かくする。
「まったく……ごほんっ、改めまして。これからもよろしくね! しょうちゃん!」
「ああ。よろしく頼む」
私は、確かに安堵していた。
これからも、彼女と共にいられるのだと。
夜を彩る灯りの数々。
昼に熱されたアスファルトを照らすそれは、人々の活気も相まって、幻想的な空間を作り出していた。
つまるところの夏祭り。その外れの樹の下で、私はひなを待っていた。
やがて、たったっと足音がして、
「おまたせ。待った?」
白と青のコントラストが印象的な浴衣姿の、魅力的な女性がいた。
白の布地に描かれている青き朝顔は、今が夜であるのに咲き誇る矛盾で、女性の周りに別世界を生み出しているかのよう。
結い上げられた黒髪には、こちらも白い花飾りがつけられている。
「……君は、誰だ……?」
遅れて彼女に見入っていたこと、声をかけられたことに気付き、尋ねる。
知り合いではない。こんな印象的な女性を、忘れるわけがないから。
しかし、その幻想的な空間は、私の問いとともに、彼女がぷふっと噴き出したことで、綺麗に霧散してしまう。
唖然とする私をからかうように、彼女はケラケラと笑った。
「暑さにやられたの? 私です私、ひなですよーっとっ」
「ぇ」
––––一目見て、ひなだとわからなかった。
言ってしまえばさして他者の目を惹くわけでもない平凡な顔立ち。手入れが行き届いていて、枝毛のない黒の長髪。やや小柄で、日本人男性の平均程度しか身長がない私でも見下ろす形になってしまうその姿。
そんな、どこにでもいる少女のはずなのに。
目が離せなくて。本当に本当に、綺麗だった。
「浴衣、本当によく似合っている。暑さにやられたわけでもなく、本当に別人かと思った」
「そう? えへへ、ありがと。時間かけて準備した甲斐があったね。結構待ったよね、しょうちゃん」
「いいや、ほんの十数分だ」
「もうっ、そこは待ってないよって言ってよっ」
それは理不尽というものじゃないだろうか。聞かれたから答えただけなのに。
だがそう返して機嫌を損ねられては折角準備を重ねたらしいひなが楽しめなくなってしまうので、私は笑って誤魔化すことにした。
「ははは、すまない」
彼女には高校生活一度目の夏。私にとっては最後の夏。
受験を考えれば、二人でどこかへ出向くのはこれで最後になりそうだ。
「ところで、君は何で私だけを誘ったんだ? 他に友人がいないわけでもあるまいし」
親への土産は何がいいか、などと話し合いながら、ふと湧いた疑問を口にする。
「う、うん。それは、追い追い、ね」
「?」
歯切れの悪い返答が返ってきて、私は眉を顰めた。
仄かに顔が赤いのが謎だ。ひなこそ、夏の暑さに現在進行形でやられているのではないだろうか。
「少し、休むか? 顔が赤いぞ」
提案すると、露骨に狼狽える。
「うぇっ!? あ、あ、いや、その、何でもなくて、その……」
「? しかし、明らかに興奮して」
「そうだ!」
私を遮って、ひなは大声を上げる。
「……どうした?」
「やっ、やっぱり何でもあるよ! 私、行きたいところある! そこで話したいこともあるから、その……」
やはり歯切れが悪い。何となく居心地が悪くて、私は急かすように首肯した。
「ああ、いいぞ。行こうか」
「う、ん……」
表情が晴れない。本当に大丈夫なのだろうか。
夏の祭りは、この町のイベントの中でも屈指の規模を誇る。
ちょっとした山の上に建つ神社を中心に、円形に広がる形で装飾が施され、屋台が設置されているのだ。
「こんなところに何かあるのか?」
ひなに連れられ、私はその神社の裏へ足を運んでいた。
雑木林にコオロギの音色。日は完全に傾き、暗く沈んだ。今は人通り皆無のこの場を微かに照らす数本の街灯だけが、私たちの視界を支える唯一の灯火だった。
「……」
尋ねても、ひなは何も答えず俯くばかり。
やはり元気がない。待ち合わせ時は、あんなにも楽しそうにしていたのに。
「ひな? やはり、どこか調子が悪」
「……しょうちゃんっ!」
唐突に、ひなは私の元へ飛びついてきた。
「っ!?」
咄嗟のことに対処しきれず、私は彼女に半ば押し倒される形で、地面に倒れ伏す。
そんな私など御構い無しに、ひなは何事か言葉を紡ごうとしていた。
「伝えたいことがあるの。しょうちゃん、私……私、ね……?」
「ひ、ひな?」
様子がおかしい。
その瞳には、見たこともないような強い熱が籠っている。
じっとしていては、飲まれてしまいそうで。
「私、しょうちゃんのことっ……」
甘えるような、訴えかけるようなその声は妙に艶やかな魅力を孕んでいて。
私の脳髄を掻き乱し、痺れるような快感を、身体に流し込んでくる。
彼女から、目が離せなくなった。
上気した頰。至近距離で、荒く乱れる甘い息。
少し潤んだ瞳は、私だけを見据えていて。
––––ドクン。
胸が、熱くなった。
––––ドクン。
頭の中も、霞んでいくかのよう。
––––ドクン。
「しょ、しょうちゃん?」
グッと彼女の体を引き寄せる。ビクリと、大きく震えていた。
「しょうちゃん、どうしたの? 何だか、怖いよ……」
何かを考えることができなくなっていく。頭に浮かぶのは、絶え間ない欲。
この子が欲しい。この子をめちゃくちゃにしたい。この子を、私だけのものに––––、
「––––っ」
––––先とは違う理由で潤んだひなの瞳が見えて。
私は、彼女を引き剥がした。
「あ……あ、あぁっ……」
喉を震わせながら、立ち上がる。
––––何だ、今のは。
まだ鼓動が速い。胸中にある心の臓は、その存在感を遺憾なく発揮している。
––––私は今、何をしようとしていた?
––––何なんだ、この感情は。
「しょ、しょうちゃん……? その、大丈」
戸惑った様子のひなもまた立ち上がり、私の頰に触れようとして、
「さ、触るなっ!!」
思わずその手を強く払う。彼女は大きく目を見開いた。
「ぇ、ぁっ……ご、ごめ」
「––––すまない。先に、帰る」
彼女に背を向け、走り出す。
「ぁ、しょう、ちゃ……まって……」
声が遠ざかる。どうしようもない自己嫌悪と罪悪に、私は苛まれていた。
「本当に、すまない……」
私を襲った感情の正体。
欲情。情欲。性欲。
私はひなを、一人の女として見ていた。
「……」
大切な女の子をそんな目で見てしまった己への拒否感で、どうにかなりそうだった。
あれ以来ひなとは顔を合わせていない。
私が本格的に受験勉強へ乗り出したというのもあるし、わざと時間をずらして登校したり、彼女と会うような場所には近寄らないようにしたから。
それでも幾度か遭遇はした。彼女は私に声をかけようとしていたが、私はそれを無視した。
––––また彼女のことを、性的な目で見てしまうのではないかと恐れたから。
季節は移り変わる。
二度の変化を繰り返した節、もうすぐ三度目の変化––––春が、訪れようとしていた。
私は卒業する。彼女は進級する。
私はこの町を出て、違う町の大学へ向かう。彼女は、この町に残る。
もうしばらくは、彼女に会うこともないだろう。
だから、
「なんで、避けるのっ……!」
目を細め、一足早く春の象徴が木に咲いているのを見ていて。
そこに、目を潤ませた彼女が来るとは、思いもしなかった。
「……私に構うな」
「そんなっ、意味わかんないよ! 私、しょうちゃんに嫌なことした? 傷つけるようなことした? やっぱり、夏祭りのこと? 全部謝るから、だから」
「悪いのは君じゃない。全て私だ」
私は数百の年月を生きた記憶を持つ異常者。今更情欲に駆られることなど、あり得ないと思っていたのに。
相手は高校生だ。年の差があるなんてものじゃない。埋められる程度を軽々と超えている。
事実これまでの生で私は、女性に対してそういった欲を向けたことがなかった。湧いたこともなかった。
だから気持ち悪くて仕方なかった。自分が、ひなにこんな邪な感情を向けてしまったことが。
「本当に、気持ちが悪い」
大学とは言わず、どうせならもっと遠くへ行ってしまおうか。こことは違うどこか。ひな以外へなら、そんな歪んだ思いを向けることもなさそうだと思った。
いっそのこと命を断ってしまおうか。どうせ今世の私が死のうとも、『私』は死なない。無限の生のループはきっと来世にも続いていく。ならばもう自殺してしまおうか。
今世が終われば、きっとこんな醜い感情も、綺麗さっぱり消え失せて––––、
「––––かむばぁぁあっくっ! しょうちゃぁぁんっ!!」
「ぐぼぉっ!?」
ひなの拳が、私の腹部を強打する。
思考の波の真ん中へ沈み込んでいた私は、無理矢理意識を掬い上げられる。
「な、何をするんだ、ひな––––」
戸惑い、抗議でもしようと思ったのか。私はいつの間にか俯いていた顔を上げ、彼女を見やろうとして。
「ん……」
ちゅっと、小さな水音のようなものとともに、唇に何かが触れる感触がした。
目の前には、愛嬌のあるひなの顔。目を閉じていて、真っ赤に上気していて、この世の何より––––魅力的で。
数秒の思考の停止の後、私は背伸びをした彼女にキスされたのだと気づいた。
そのまま強く抱きしめられる。胸に顔を埋められる。痺れたように体が動かず、抵抗も何も出来なかった。
「ひ、ひな……?」
掠れたように語気のない声。けれども、問わずにはいられなかった。
何故こんなことを、したのかと。
そこまで続けた訳でもないのに、ひなは答えを提示した。
「しょうちゃん、どこか遠くに行っちゃいそうだった。そんなのやだよ。ずっと、ずっとそばにいてよ」
その言葉は、縋るように、或いは私を繋ぎ止めるかのように。
必死に生きる彼女の、必死の訴えだった。
心の奥底の何かをこじ開けられるように––––唐突に自覚させられてしまう。
この胸の高鳴りも、季節感のない顔の熱さも。
彼女といない時間、時折感じた切なさ、寂しさも。
彼女を、そういう目で見てしまうのも。
彼女を手に入れたいと、そう思ってしまったのも。
––––恋。
私はひなのことが、好きなのだ––––。
「はな、せ、ぇっ……!」
けれど、自覚すればするほど、嫌悪感が増してくる。
人ならざる時間を生きた化け物の分際で、そんな歪んだものが、許されるのかと。
痺れの引いた体を動かし、愛おしい熱を振り払おうとする。
「……いやっ! ダメっ! どこにも行かせないっ!」
「何故だ!? 君はもう十分大人だ! あと数年時を重ねれば、立派に一人でやっていける! 『お目付役』は、もう必要ないだろう!? こんな化け物、役目が終われば君の隣にいちゃならないんだ!」
「無理だよ……この先、しょうちゃんがどこにもいない生き方なんて、想像できないよ……!」
「なっ……」
絶句する。
この子はこんなにも、私に依存していたのか。
……いや、私が依存させていたのか。
私が振り払えなかったから。いつもいつも、手を差し伸べてしまっていたから。
彼女のその言動は、依存心から来るものだと思い込んだから。だから、
「ずっとずっと好きなのっ、離れるなんて無理なのっ! しょうちゃんには迷惑かもしれないけどっ、私の我儘だけどっ! 大好きなの、離れたくないの! 一緒がいいのっ、一緒じゃなきゃ嫌なのっ!」
私には、彼女が何を言っているのかすぐにわからなかった。
「ぇ……す、き……? 君が、わたし、を……?」
『ふぇ、そんなことないよ? ひなね、しょーちゃんのことだいすきだよ。どこもいかないもんっ!』
『––––でもひなは、そんなしょうちゃんだから大好きなんだよ』
『しょうちゃんっ! 誕生おめでとう! 生まれてきてくれてありがとー!』
『しょーちゃん!』
『しょうちゃん! 学校いこっ!』
『うっ、うぅ……しょーおにーさぁんっ……!』
『また来たのか。しかし、君は、いつも泣いているな』
『だってぇっ! みんな、ひなのこといじめるんだもんっ!』
『ふん、下らないな。そんなこと、気にしなければいい。他者の言い分などに耳を傾けるな。君は、君の在りたいように在れ』
『ありたい、よーに……?』
『そうだ。それを貶めることは誰にもできない。少なくとも、君がドジであろうと何だろうと、私は馬鹿にはしないさ』
『むずかしーことわかんないよ……』
『別にわからずともいい。君はまだ子供なのだから』
『……ねー、しょーおにーさん』
『なんだ、ひなちゃん』
『また、あそびにきていーい?』
『……別にいいが』
『ホントっ!? えへへぇ、ありがとしょーちゃん! だいすきっ!」
『しょーちゃん!? ……まぁいい。ただし、あまりくっつくんじゃない。暑苦しいぞ。後、他人に対して簡単に好きなんて言うものじゃない』
『やー! くっつくー! しょーちゃんだいすきー!』
『……何故ここまで好いてくるのか。変な奴め』
今まで積み重ねた日々がフラッシュバックする。
嘘だ。君の『大好き』は、幼子が向ける情であったはず。決して、純粋な愛などではないはず。
それに、私は化け物だ。人並みの恋など、望めばきっと相手が不幸になる。私の『中身』を知れば、きっと拒絶され––––、
––––ああ、結局そこなのか。
私は、彼女に嫌われたくないのだ。拒絶されたくないのだ。
なんだかんだと言葉を並べて、一番不安視しているのは、そこなのだ。
私の抱く嫌悪感は全て、今後起こりうる彼女の、私への感情の変化を前借りしているに過ぎないのだ。
自分可愛さなんて、何処かに置いてきたと思っていた。或いは朽ちたとばかり。
その実、私というニンゲンは、自分可愛さで拒絶を恐れる、ただの臆病者だった。
ようやく気づいた己の本質。それが嫌で仕方なくて、私は口を動かしてしまう。
「私は、化け物なんだ。君と共に過ごした時間など、これまで生きた膨大な時の前では、些細なものでしかない」
今そんなことを言ってどうなるというのか。
私はひなに何を求めているのか。
「何、言ってるの、しょうちゃん」
「何度も死んだ、幾度も死んだ。その度に新たな体に宿っては、満ち足りた生を夢見て、進み続けた。いつしかそれが正しい道なのかも、わからなくなった」
「何、言ってるのかわからないよ……!」
そうだ、理解は求めていない。私はただ、私の内側を曝け出して、君に拒絶して欲しいのだ。
まだ傷は浅くて済む。君への恋心とともに、私は次の生へ歩みを進める。
「やがて、死ねないことに嫌気がさした私は、非凡の歩みを止めた。平凡な生活、家族、幼馴染。人生の奔流に身をまかせるようになった」
––––そうして、今に至る。
「それが、しょうちゃんなの……?」
「ああ。君と共に生きた存在は、数百の年月を経た、化け物だ。拒絶しろ、嫌悪しろ。そうして、私から離れて行けばいい」
きっと彼女には何も伝わらなかった。けれど、私が異常者であるということだけは、はっきり伝わったはず。
君はきっと離れていく。私から離れることを良しとしなかった君は、もう、きっと––––、
「……そんなこと、するわけないじゃんっ!」
罵声にも似た声音が、鼓膜を震わす。
「私言ったよ? 大好きだって。しょうちゃんが化け物? なら、優しい化け物だよ。身を任せるなんて嘘。だって、しょうちゃんは何回も何回も私を助けてくれたよ? しょうちゃんがいるから、今の私がいるの」
「違う……私は、君に嫌われることを恐れて」
彼女が好きでたまらなかった。彼女に頼られることが何より嬉しかった。彼女を隣で見守っていられることが、何よりの喜びだった。
しかしそれは裏返せば、彼女から悪意を向けられることを恐れているのと同義であって––––、
「そんなの当たり前だよ。誰だって、他の誰かに嫌われるのは怖いし、嫌だよ。だから、変じゃないよ? しょうちゃんは、それでいいんだよ」
私の『これ』が、当たり、前……?
根拠も曖昧で、通っているのかいないのか分からない理屈。それに縋るのは、
「わた、し、はっ……」
喘ぐような声音が漏れる。後に続く言葉はまだない。
「そんなしょうちゃん、優しいしょうちゃん、頭がいいしょうちゃん、何でも教えてくれる物知りなしょうちゃん。最近は、恥ずかしくて全然言えてなかったけど、今なら言えるよ。多くて言い切れないけど、全部のしょうちゃんが大好き。ずっと、ずっと、好きなの」
私を溶かすように、ズケズケと、その優しい言葉は、心へ染み入っていく。
それを決して痛みとして受け取ることなく、受け入れる私がいて、
「私は……」
「ねえ、怖がらないで? 私はあなたを怖がらないし、嫌がらない。だから、そんな誰かに好かれる自分とちゃんと向き合って」
––––そして、愛してあげて。
何が崩落するようだった。物音を立てて崩れ落ちるそれらは、私を阻んでいた感情の檻。
いいのだろうかと心中口にする。
たかだか十数年程度しか生きていない存在の、そんな穴だらけの言い分に、縋っても。
いいのだと、返ってくる。
それは、他でもない『私』自身の声音で。
「私はっ……!」
口を、開いた。思いの丈を、そこから余さず吐き出すために。
いつもいつも、私の隣で笑ってくれた君。これからもずっと、隣で笑っていてほしい。
「君が、好きだっ・・・・・・!」
「うぇっ!?」
「愛おしくてたまらないんだ。今すぐにだって抱きしめたい。君の仕草を目で追わない日はない。私は君を愛している。……こんな私でも、君は好きでいてくれるのだろうか」
一度決壊して溢れだせば、もう止まらなかった。
数百年生きておいて、一人の成人にも満たない少女に恋をするなどと、君は、気持ち悪くはないのだろうか。
「えっ、えっ!? ……しょうちゃんも、私が好き、なの?」
彼女の表情、雰囲気に嫌悪の色はない。
あくまで確認するような問いに、私は首肯した。
「ああ、たまらなく」
「えっ、えっ、それ、それってっ……」
するとひなは、リンゴのように頰を赤く染めて、照れ笑いのような、満面の笑みのような。凄く凄く幸せそうな、満ち足りた顔をするのだ。
ああ、反則だろう。そんな、可愛らしい顔をするなんて。
「……そっかぁ、えへへぇ、そうなんだぁ。嬉しいなぁ……もっと、好きになっちゃうなぁ。両想い、なんだぁ」
しみじみと嬉しそうに言ってくれるのは、彼女もまた、私を長年想ってくれていたということ。
私は歓喜した。歓喜したからこそ、彼女の瞳から雨粒のごとく涙がこぼれ落ちている意味が分からず、ただただ困惑した。
「あっ……な、何故泣くんだっ」
「あれ、おかしいなぁ……嬉しい、筈なんだけど。嬉し涙って、こういうののこと、言うのかなぁ」
「……そうかもしれない」
在りし日の光景を思い出す。
泣きじゃくる私と、宥めてくれる彼女と。
あれこそまさしく、嬉し涙だ。
「昔、しょうちゃん私のプレゼントで泣いてたもんね」
「あっ、そっ、それは忘れろっ!」
言語化されると、顔から火が出そうになる。
あれだけは羞恥心がいくらあっても足りない。
あんなことで泣いてしまうなど、いい笑い者だ。
「……ねぇ、しょうちゃん」
「……なんだ」
私が返すと、長年慣れ親しんだ笑顔を浮かべながら、君は言うのだ。
「大好きだよ!」
少しだけ、彼女が好きと言ってくれた自分を、愛せる気がした。
「ああ、私も君が大好きだ」
意識が浮上する。
目を開ける。
そして視界の中心には、愛おしい君がいた。
花見に来ていた筈だった。いつの間にか眠気に襲われ、レジャーシートに寝そべって。
けれどこの柔らかくて温かい寝心地は、明らかにシート越しの地面のそれではなかった。
「夢を、見ていたんだ」
なんの前触れもなく語り出す。
こんなことは日常茶飯事で、私の頭部を膝に乗せたひなも、なんて事無く聞き返してくれる。
「どんな?」
「君と出会ってから、今まで歩んだ道を、思い返していた」
長いようで、本当に短い時の流れだった。
初めて顔を合わせた時の君は、本当に小さくて。
小さな君は、本当に危なっかしくて。見ていられなくて手を差し出した。
それから君に恋をして、両想いになって、交際を始めて––––そうして先月、夫婦になって。
「私はね、ずっとずっと、死にたいと思って生きて来たんだ」
「うん。そうだってね」
もうすでに私の過去は全てひなに打ち明けた。
彼女は疑わずに、ただ私の話に耳を傾けてくれた。
あの時は、
『少しだけ、しょうちゃんに近づけた気がする』
『どういう意味だ?』
『そのままの意味。今までしょうちゃん、なんだかすごい遠くを見てるみたいな、いつか消えちゃいそうな目、してたから』
『死にたいと、消えてしまいたいと、そう思っていたからな』
『うん。だから私、しょうちゃんが何を見てるのか知りたくて、そうして一緒にいるうちに、凄い優しいんだなって、わかってね。どんどんいいところ見つけちゃって、どんどん好きになっていっちゃって。すっかり絆されちゃったなぁ』
『絆してないぞ』
「でも、今は違うんだ。死にたくない。君を残して、消えていきたくない」
「うん……」
彼女の指が私の前髪を撫でた。こそばゆい。
「そもそも前提を間違えていたんだ。満ち足りた生を望むなら、死にたいなどと、考える自体おかしい。生きたいと、生きていたいと、そうこの世に留まっていたくなる『何か』がある人生こそ、満ち足りたものであると、そう思うんだ。完全に未練がない生など、満ち足りてなんかいるものか」
満ちるということは、器––––心を満たす何かがあるということ。
その何かを失うのは、堪らなく辛いことであると思うのだ。だからこそ、そうそう死にたいなどと思える筈がない。
『死』など、最も何かを得るのとは縁遠いものなのだから。
死して、得たものを失ってきたからこそ、強く言い切れた。
そっと、感慨に浸るように瞼を閉じる。
「しょうちゃんの話は、難しいよ」
頭上に、笑みを浮かべていると思われる気配。
「ああ、我ながらわかりづらい人間だと思う」
「ううん、そうじゃないの。難しいこと言うし、それもよくわからないけど、しょうちゃんのことはなんだってわかるよ」
それは矛盾というものではないだろうか。
思ったが、そう思ったのだが、なんとなく言葉通り見透かされているような気もして。
私はコクリと肯定した。
「……そうか。幼馴染って奴は、怖いな」
「うん。私は怖いよ。だから、浮気したりして私を怒らせたりしないように!」
そういう類いの『怖い』では、無かったのだが。
「ははは。それだけは絶対にあり得ないから安心してくれ。何百年と生きて、こんな感情を覚えたのは君が初めてだ。そして、君で最後にする」
言い切って目を開けると、赤面したひなの顔があった。
事実と覚悟を言ったまでなのに、ふにゃふにゃとだらしなく頰を緩めて彼女は照れ出すのだから、本当にいじらしい。
「えへへ、そうだぞ? しょうちゃんの初恋を実らせてあげたのは私なんだぞ。……だから、ちゃんと大切にしてね。ずっと、隣にいてくれなきゃ嫌だよ」
「ああ、大切にするよ。絶対にする。約束だ」
「うん、約束。––––愛してる」
「ああ、ありがとう。私も君を愛しているよ」
柔らかな感触が、そっと唇に触れた。
「ん、んぅ……」
目を開ける。まず初めに視界に飛び込んできたのは、なんの変哲も無い真っ白な天井。
続いて部屋を見回す。
こちらも変哲のかけらもない装いだ。壁に沿う形でベッドがあって、窓の横に本棚があって、ドレッサーがあって、テーブルがあって。
馴染み切るには至らないが、それなりの時間を過ごした寝室だ。
耳を澄ませば、彼女が発しているであろう調理音が聞こえる。さて、今は何時だろうか。
壁掛けの時計を見て、六時少し過ぎを示しているのを確認する。
「……起きるか」
やや残業の気だるさこそ残るが、体は快調だ。
早起きは三文の徳という。二人はすでに起きているだろうし、たまにはゆっくりと談笑したい気分だった。
「おはよう」
「あっ、あなたおはよう! 珍しいね、いつもより何十分か早いよ」
彼女はフライパンで何かを焼いている。
覗き込めば、目玉焼きだった。
結婚したての頃は、彼女の料理の手際の悪さに四苦八苦したものだが、今はそれもいい思い出だ。まぁ、目玉焼きすら丸焦げにする手腕は、呆れてものも言えない有様だったが。
「ああ、気まぐれでね。今朝は目玉焼きか。君のそれは本当に美味しいからね。楽しみだ」
「あはは、ありがと」
彼女は照れくさげにはにかむ。
この生活も六年続けているというのに、偶に初々しい反応をしてくれるのが本当に愛おしい。ああ、何故私の妻はこんなにも可愛いのか。
最初は丸焦げだった目玉焼きも、回数を重ねるうちにコツを掴んだらしく、今は絶妙な焼き加減で仕上げられるまでになっていて、彼女の作る料理の中でもかなり上位に食い込むくらいには、私は気に入っていた。
「あれ? そういえばしーはまだ起きていないんだね」
普段なら、私が起きる頃にはせっかちにも準備を済ませているのだが。
本人曰く、幼稚園が楽しくてたまらないらしい。その上最近は近所の男の子と特に親しくしているらしく、どこか既視感を感じていた。
「うん、あの子も早起きだよ。もうすぐ起きてくると思うな」
「そうか」
そこで会話を一旦止めて、テーブルの定位置に着く。あまり話しかけても、料理中の彼女には迷惑だろう。
が、そんなことを考えていたのは私だけらしい。
「ねぇ、あなた」
「なんだい」
「何か話そ」
「……ああ」
何か、とは言いつつも、互いに話したい内容が決まっているのが、私たちの常だった。
今回も、その例に漏れない。
「あなた––––ううん、しょうちゃんは。今、幸せ?」
もうだいぶ懐かしい呼称を用いて、彼女は私に問う。
「……何故そんなことを聞くんだ」
「あのね、毎日幸せなの。幸せすぎるくらい幸せ。だから、不安なんだ」
笑みが儚い。
気圧される要素などないのに、何故か私は押し黙ってしまう。
「……」
「独りよがりに、なってないかなって」
それは––––。
「私ばっかりで幸せで、しーちゃんも、しょうちゃんも、ちゃんと幸せなのかなって」
それは、私も思っていたことだった。
「私も、同じだよ」
「えっ」
「私はこの日々が好きだ。君が好きだ、しーが好きだ。この家が好きで、君の作る料理が好きで、君たちの笑顔が何より好きだ。だから、私ばかりもらっていて良いのかと、常日頃から思っていた。家族サービスだって、それを少しでも紛らわす為の自分勝手なものだ」
煙草は今世からは一切吸っていない。飲酒も付き合いを除いて一切していない。休日は娘の願望を極力聞くし、妻の家事手伝いだってしている。偶の休みには遊園地へだって連れて行く。
それは全て、自分の独りよがりを誤魔化す為のものだった。
けれど、
「独りよがりと独りよがりが合わされば、それはどちらも幸せであるという証明にならないだろうか」
ひなは押し黙る。目が、続きを催促していた。
「独りよがりであると自覚して、それが他者の幸せを願うものに変われば、それはとても良いことなのではないかと、私は思うんだ」
「それは、しょうちゃんの今までの時間でたどり着いた結論?」
彼女の目は真剣だ。
割と重々しい空気になっているところ悪いのだが、見当はずれなので訂正する。
「いや、さっき君の考えを聞いて思いついただけのでまかせだ」
「えっ!? 即興!?」
「むしろ今までの生のことを顧みれば、前世までの私では、こんな考えには至らなかったと思う」
だいぶやさぐれていたものだ。死ぬために生きるなどと、恥ずかしげもなく考えていたのだから。
何を悟ったように生きていたのか。こんなにも温かい感情を、知らずにいたというのに。
「しょうちゃん、ほっぺ緩んでる」
「おっと」
これはいけない。娘が生まれてからというもの、どうも表情筋に締まりがないのだ。
「とにかく、とにかくだ。君は本当によくしてくれている。誇りに思っていい。独りよがりになどなっていないさ」
「何で上から目線なの?」
「こればっかりはどうしようもない悪癖だ。勘弁してくれ」
この口調は染み付いてしまったもので、そうそう治るものではないだろう。
「はいはい。・・・・・・おっと、もうすぐしーちゃん起きちゃうな」
なんとなく時計に目をやった様子の彼女が、小さく呟く。
気づけば彼女の手料理のいい香りが、私の鼻孔をくすぐっていた。
ナイスタイミングだ。
「もう、いいのか?」
かちゃかちゃと食器の準備を始めた彼女に、なんとなく確認する。
返ってきたのは、半ば想定していた返事だ。
「うん、十分過ぎるくらいの大収穫。––––それから、しょうちゃんもすごいよくしてくれてる。独りよがりになんかなってないよ」
私を気遣って添えてくれた言葉は、少し予想外だった。
「何で上から目線なんだ?」
その上その言葉選びは、馴染み深いもので。
意図的なデジャヴを感じながら、私は聞き返した。
「ふふふ、こればっかりはどうしようもない悪癖だ。勘弁してくれ」
「似てないな」
悪乗りした様子の発言を一蹴する。
「えー?」
「もう少し低音をだな……」
「なぁに、それぇ」
そうして、どちらからともなく笑い出す。
すると、
「あー! ぱぱとままイチャイチャしてるー!」
いつのまにか階段を降りてきたらしい小さな乱入者が、私達を交互に指差して、きゃっきゃとはしゃいでいた。
「あ、しーちゃんおはよう」
「おはよっ!」
「しー、おはよう。というか『イチャイチャ』なんて言葉、どこで覚えたんだ」
この年の子供の情報ネットワークは、本当に謎が深い。そうして色々なものを吸収しては、毎日毎日確実に成長していくのだ。
知らぬ間に少しずつ大人になっていくその様は、隣でひなを見てきたからこそ、よくわかっているつもりだった。
「さ、しーちゃんも降りてきたし、そろそろご飯にしましょう、あなた」
にこやかに笑う彼女からは、もう先の不安は綺麗さっぱり払拭されているようだった。
––––なんてことない温かな目玉焼きを頬張り、なんてことない朝を過ごす。
「はぱー! おしょーゆとって!」
––––そこに膨大なる財はなく、
「ほい」
「ありがとっ!」
––––圧倒的な地位もない。
––––あるのは今まで歩んだ生の中で最も温かで賑やかな家と、愛する家族の姿。
「あっ! あなた、もう出る時間じゃない?」
「……おっと。本当だ」
コーヒーの残りを啜り、笑顔の絶えない二人に私もまた笑いかける。
––––さして裕福でもない。
––––朝から晩まで働いて、入ってくる金など微々たるものだ。
ネクタイと共に気を引き締める。
「いってらっしゃいっ!」「行ってらっしゃい、頑張ってきてね」
「……ああ、行ってきます!」
––––けれど、私は満ち足りている。
––––私は幸せだ。
全然書き物ができない。リアル多忙の恐ろしさを垣間見た。
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